44 言葉が雷と化して己を撃つ その3


 玲泉が見惚れるような笑みを浮かべて明珠に問いかける。


「どうかな、明順? わたしの申し出を受け入れてくれるかい?」


 びくぅっ、と明珠が跳ねるように身を震わせる。

 困惑と不安に満ちた瞳が龍翔を見上げ、震え声が紡がれる。


「あ、あの……っ、すみません……。雷で玲泉様のお言葉がよく聞こえていなくて……。いったい、何のお話をなさってらっしゃるんですか……?」


 不安のあまり、今にも目が潤みそうになっている。話の流れもわからぬまま、自分の名前が出ていたのは、さぞかし不安だっただろう。

 同時に、玲泉の言葉が聞こえていなかったことに、思わず深く安堵した。


 あんな衝撃的な言葉で、明珠の耳も心も、わずらわせたくない。


 明珠の言葉に、玲泉が楽しげに喉を震わせた。


「おや。雷鳴で聞こえていなかったのかい? それは残念だ。だが、きみが望むなら、何度でも申し出よう。明順、わたしの――」


「玲泉っ!」


 だんっ、と拳を卓に振り下ろし、龍翔は玲泉の言葉を無理やり断ち切る。


「己の身分もわきまえず、不用意な言葉を吐くな! おぬしは申し出のつもりでも、明順には命令に等しく聞こえるやもしれぬのだぞ!?」


 純真な明順のことだ。玲泉の言葉を真に受ける可能性もある。


 何より。

 玲泉が明珠に求婚する言葉をもう一度聞かされるなど、真っ平御免だ。


 明珠の耳に、他の男からの求婚の言葉など、決して入れたくない。


 龍翔の剣幕に、玲泉が心外そうに面輪をしかめる。


「身分を持ち出されるのでしたら、第二皇子である龍翔殿下のほうが、わたしよりやんごとなき身でいらっしゃるではありませんか。殿下は睦言むつごとを囁かれているのに、なぜ、わたしは禁じられるのです?」


「たわけたことを抜かすな! 明順に睦言など――」


「ええ、戯言ざれごとでございます」


 龍翔の声を遮って、玲泉が飄々と言を翻す。

 整った面輪に浮かぶのは、楽しくて仕方がないと言いたげな、嗜虐しぎゃく的な笑みだ。


「お二人のご様子から察するに、殿下は明順にちょうをお与えになられていないのでございましょう? 寵姫でも恋仲でもない。ならば、わたしが明順に求愛して悪い理由がどこにありましょう? 殿下が明順を大切にしてらっしゃるのは重々承知しておりますが、所詮は主人と従者。明順の恋心まで止める権利はございませんでしょう?」


「っ!」


 とすり、と。

 玲泉の言葉が、刃のように心を貫く。


 胸中にぽっかりと穴を穿うがたれたような感覚。


 思考も身体も動きを止めた空隙を突くように、玲泉がこの上なくあでやかに明珠に微笑みかける。


「明順。ひとつ確かめたいのだけれど、恋人はいるのかい?」

「ふぇっ!?」


 突然の問いかけにすっとんきょうな声を上げた明珠の頬が、質問の内容を理解した途端、熟れたすもものように真っ赤に染まる。


「こっ、ここここ恋人なんてっ! そんな人、いませんっ!」


 ぶんぶんぶんぶんぶんっ!

 ちぎれそうな勢いで激しく首を横に振る。


 「恋人なんていない」

 かつて、蚕家で龍翔が恋人の有無を確かめた時、明珠の返事に覚えた感情は、深い安堵と喜びだった。


 明珠の返事は、その時と何ひとつ変わっていないというのに。


 ――なぜ今、自分の心はこれほどに軋み、痛みを訴えているのだろう?


 痛みの原因に思い至らぬ間に、笑みを深めた玲泉が、ふたたび明珠に問いかける。


「では、好きな相手は?」


「それはもちろん順雪です!」

 明珠の即答。


 いつもならその返答を微笑ましく思うのに――、なぜか今は、心が掻きむしられるように、悲鳴を上げる。


 玲泉がこらえきれぬとばかりに吹き出した。


「なるほど。やはり、一筋縄ではいかぬようだ。だが、多少の労苦があった方が、手に入れた時の喜びもひとしおというもの。愛らしい花が、己の腕の中でほころんで咲くのを愛でるのも、得難い喜びだからね。――明順」


 明珠を見つめた玲泉が、甘い声で告げる。


「わたしを、きみの恋人候補にしてもらえるかな?」

「………………ふぇ?」


 今度こそ、理解の範疇はんちゅうを超えたのか、明珠が小さな声を洩らしたきり、固まる。


 ややあって。


「えっ、ええぇぇぇ~~っ! れ、玲泉様っ!? いったい何を……!? あっ、すみませんっ! もしかして、とんでもない聞き間違いを……っ!?」


「大丈夫、聞き間違いではないよ」

 玲泉がにこやかに否定する。


「きみが気に入ってね。ぜひとも仲良くなりたいんだ。駄目かな?」


 心をかすような甘い声音と笑顔。


「駄目に決まっているだろうっ!」

 と怒鳴りつけたい衝動を、龍翔は奥歯を噛んでこらえた。ぎり、と口の中で異音が軋む。


 龍翔は明珠の主だが、従者の交友関係にまで縛る権利はない。何より、そこまで狭量で情けないところを明珠の前で見せたくない。


 だが、みすみす子兎を狼のあぎとの前においてやる気は、さらさらない。


「玲泉。今はそこまでにしてもらおう。明順の正体を説明せぬことにはろくな話ができぬと判断したゆえ、先に話だが……。今は、他に論じねばならぬ問題があるだろう?」


 龍翔の冷ややかな声音に、玲泉が表情を引き締める。


 行状はともかく、官吏としては有能」とうたわれるだけあって、頭の芯まで惚けているわけではないらしい。


「なぜ、明順と周康殿が襲われたか、ですね?」


 龍翔の意をあやまたず理解した玲泉が、低い声で呟く。

 明珠と初華がぴくりと肩を震わせた。


 船室の空気が、先ほどまでとは別の冷たく重い緊張に沈む。

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