41 お嬢様さえお望みになられたら、いくらでも。 その3


「も、申し訳ございません……」

「いいえ、こちらこそすみません。急に大声を上げてしまって……」


 頭を下げた周康に、手の甲でごしごしと目元をこすって謝る。周康がまぶしげに明珠を見た。


「わたくしは術師の才能を見出され、五歳で親元から離れて蚕家に引き取られたものですから、どうも家族の情というものにうとく……」


「そう、なんですか……」


 五歳といえば、順雪が母を亡くして、哀しみのあまり不安定になった頃だ。そんな幼い年で家族と引き離されたなんて、どれほど心細かっただろう。

 考えていたことがそのまま顔に出ていたらしい。周康が苦笑する。


「そんなお顔をなさらないでください。確かに、子どもの頃は寂しかったですが、幸い、同じ年でよく似た境遇の友人もおりましたし、麗珠様にも可愛がっていただきましたから……。何より後悔などしていないのですよ。蚕家に引き取られ、術師として修業できたからこそ、今のわたくしがあるのですから」


 きっぱりと言い切った周康のまなざしには、遼淵の高弟としての自負がうかがえる。

 自分の力で道を切り開いてきた周康を、明珠は素直にすごいと尊敬した。


「ですので、わたくしにはお嬢様の御心がわかりかねるのですが……」


 周康が戸惑いがちに首をかしげる。


「お嬢様がそこまで弟君を大切にお思いでしたら、逆に、お嬢様が蚕家に入られたほうが、弟君のためにもなるのではありませんか?」


「え……?」


 周康に告げられた内容がつかめず、明珠はきょとんと首をかしげる。周康が口元を緩ませた。


「名門・蚕家の縁者となれば、術師でなくとも何かと優遇されましょう。以前、弟君は官吏を目指して私塾に通われていると話してらっしゃったでしょう? 将来、官吏になるのでしたら、強力な後ろ盾があって助かることはあれ、困ることはありません。それに……。失礼ながら、義父殿はあまり裕福ではないとか。お嬢様が蚕家に来られたら、遼淵様は喜んで援助をなさることでしょう」


 周康の言葉に、明珠は唇を噛みしめた。


 もともと義父が明珠に蚕家の侍女の仕事を持ってきたのは、実の父である遼淵に、明珠から金銭的な援助を申し込ませるためだ。


 結局、その話をするいとまもないうちに、龍翔の本当の身分を知り、仕えることとなったため、遼淵には一切何も伝えていない。


 今は、口止め料も兼ねてだろう、従者としては破格の給金が雇い主である季白から支払われている。

 が、明珠の手に入る前に、四分の一が蚕家から出されて義父が使い込んだ支度金の支払いにあてられ、残り全部を実家へ仕送りしてもらっている。


 ありがたいことに、龍翔に仕えていると衣食住は保証されるため、明珠自身は個人のお金がなくてもなんとかなるのだ。それより、順雪が家計などにさいなまされず、少しでも勉学に励めるように、一銭でも多く送ってあげたい。


 そもそも、遼淵に援助を頼もうだなんて、たとえ機会があっても、言う気はまったくなかった。

 麗珠亡き今、遼淵は明珠の実家とは何の関りもないのだ。そんなこと、頼めるわけがない。


 周康の言う通り、遼淵に援助してもらえば、順雪の苦労は減るに違いない。

 おそらく、今の明珠の仕送りでは、順雪と寒節がつつましく暮らせるかどうかという額だ。足りない分は、寒節が日雇いの仕事をしたり、順雪が近所の手伝いをしたりして現物支給で野菜などをもらっているに違いない。

 もっとお金があれば、順雪は些事さじわずらわされずに勉学に励めるだろうし、毎日、おいしいご飯をおなかいっぱい食べられるだろう。


 明珠が蚕家に引き取られさえすれば……。


「すぐに決断なさる必要はございませんよ」


 明珠の迷いを読んだかのように、周康が穏やかに告げる。


「弟想いのお嬢様に、すぐに決断を迫るのは酷でございましょう。ただ……。お心に留めておいていただきたいのです。お嬢様さえ望まれれば、他にも選択肢があるのだと」


 周康の言葉に、明珠はほっとして大きく息をつく。


「そう! そうですよね! すぐに決めなくても大丈夫ですよね!」


 急に言われても、すぐに決めるなんてできない。

 少なくとも、龍翔にかけられた禁呪が解けるまで、明珠は「明順」のままでいなければならない。


 だが……。

 禁呪をかけた術師が捕らえられ、龍翔の呪いが解けたら?


 どくり、と心臓がとどろき、明珠は思わず着物の下に下げた守り袋を握りしめた。


 きっと、明珠はすぐにお払い箱になるだろう。もともとが禁呪を解くためだけに雇われているのだから、当然だ。他に何のとりえもない明珠を雇い続ける理由など、どこにもない。


 敬愛する主と離れる。

 そう考えただけで、太いきりをねじこまれたように、胸がきゅうっと痛くなる。


 涙がにじみそうになって、明珠はあわてて唇を噛みしめた。


 優しい龍翔のことだ。もしかしたら、明珠が望めば、黒曜宮の下働きとして雇ってくれるかもしれない。


「こんな不出来な従者などいりませんっ!」

 と、季白に叩き出される可能性も大いにあるが。


 おとといの茶会で、しでかした失敗を思い出し、情けなくなる。龍翔と初華が慰めてくれたが、戻ってきた季白からはこってりと絞られた。


「まったくあなたは……。どこまでわたしの胃を痛めたら気が済むんですかっ!? 今度から、人前に出る時は、余計なことを話せないように、口を縫いつけておきましょうかっ!? ええ、そうしましょう! でなければ、先にわたしの胃に穴が開きそうです!」


 と。季白の切れ長の目は、間違いなく本気だった。もし、龍翔と張宇が二人がかりで止めてくれなかったら、本当に季白に口を縫いつけられていたに違いない。


 そんな季白が、用なしになった後まで、明珠を雇ってくれるとは思えない。


「もうあなたの顔を見ずに済むと思うとせいせいします! わたしも鬼ではありませんからね。退職金には少し色をつけてあげましたから、とっとと実家に戻りなさいっ! 今後、あなたとは一切関りのないものとしますから!」


 恐ろしいほどにこやかな笑顔で明珠に引導を渡す季白の姿が、脳裏にまざまざと描かれる。冷ややかな声の幻聴まで聞こえてきそうだ。


 順雪のもとへ戻れるのは嬉しい。だが、同時に、ずっと龍翔に仕えていたいとも思う。


 ――それが、叶わぬ夢と知っていても。


「周康さんは、解呪を得意としてらっしゃるんですよね……?」


 明珠はひとつかぶりを振って、胸中の不安を押しやると、正面に座る周康を見つめた。


 まだわからぬ先のことを、あれこれ悩んでも仕方がない。

 最も優先するべき事柄は、明珠の去就などではなく、龍翔にかけられた禁呪を解くことだ。


 その結果、明珠が解雇されようと。


 明珠の問いに、周康が「ええ。ですが……」と整った面輪を曇らせる。


「確かにわたくしは、解呪を得意としておりますが、麗珠様やお嬢様のように、解呪の特性を持っているわけではございません。わたくしも気がついたことがあれば、遼淵様に《風乗蟲》でお伝えしておりますが……。遼淵様ですら、いまだ解明できぬご様子で……」


「周康さんは、母さんの解呪に立ち会われたことがおありなんですか?」


「ええ。何度かございます。麗珠様の解呪は、本当にお見事で……」

 周康が懐かしむように遠いまなざしをする。


「麗珠様はそれは優秀な術師でいらっしゃいましたよ。わたしを含め、当時、蚕家に所属していた術師は、老若男女を問わず、皆、麗珠様に憧れておりました。あざやかな解呪の手並みは、見惚れずにはいられぬほどで……。麗珠様への称賛の声は聞かぬ日がないほどでございました」


 周康の声は隠し切れぬ憧憬に彩られている。


 明珠も、母に蟲招術を教えてもらうようになってから、何度も仕事の場に連れて行ってもらった記憶がある。まだ子どもだったため、母も危険な仕事には連れて行かなかっただろうが……。


 明珠が知る母は、周康が話す通り、いつでもあっという間に悪さをする《蟲》をかえしていた。


 きっと、母が生きてさえいれば、龍翔の禁呪も解いていたに違いない。


 母の足元にも及ばぬ己を情けなく思いながら、明珠は口を開く。


「私も、母さんの解呪は何度も見たことがあるんですけれど、その……。母さんの解呪と、私の解呪はかなり違っていて……。私が母さんから学べていない解呪方法を、周康さんからご存じじゃないかと思ったんです……」


 話すうちに、どんどん頬が熱くなってくる。守り袋を握りしめたままの手に変な汗がにじみだし、明珠はあわてて守り袋を放した。


 母が解呪のために、蟲に取りつかれた者を抱きしめ、《気》を送っているのを見たことはあるが、明珠が知る限り、くちづけをしているところなど、見た記憶がない。


 ましてや……。

 『短く済ませる方法』のことまで思い出してしまい、さらに頬が熱くなる。


 まさか、あんな《気》のやりとりがあるだなんて。


 ダメだ。思い出すだけで、恥ずかしさのあまり、「わ――っ!」と叫んで逃げ出したくなる。


 もしかしたら、解呪に秀でている周康なら、明珠が母から教えられていない方法を知っているかもしれないと、恥ずかしさをおして聞いたのだが。


 伏せていた視線をちらりと上げると、周康は何とも言えぬ微妙な表情をしていた。


 おいしいお饅頭まんじゅうだと思って食べたら、砂糖の代わりに塩が入れられていた失敗作だったと言いたげに。

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