28 「これ」の先を知らぬというのは


「まったく、龍翔様は小娘に甘すぎますっ! 王城でそのお姿になられるなど……っ!」


 衝立ついたての向こうから聞こえてくる声を潜めた怒りの言葉に、明珠はうっすらとまぶたを開けた。


 部屋の中は暗い。おそらく真夜中だ。


 衝立の向こうで燭台しょくだいを灯しているのだろう。薄ぼんやりとした影が天井で揺れている。


「だが、あの状態の明順に《気》を求めるわけにはいくまい。嫌悪や隔意かくいを抱かれては、逆戻りではないか。……というか、そもそも、お前が余計なことを命じたせいだろう?」


「わたくしの確認洩れにつきましては、お詫びのしようもございません。……ですが、知識をつける必要はございましょう? 明順本人を守るためにも」


「……確かに、ああも無防備なのは、心配この上ないが……」


 寝起きのぼんやりした頭で、会話を聞くともなしに聞いていた明珠は、苦みを帯びた少年の高い声に、はっと我に返った。


 布団をはねのけ、がばりと起きる。


 衣擦れの音に気づいたのだろう。衝立の向こうの声が途切れる。


 寝台の横に置いていた靴を履き、あわてて衝立の向こうに回ろうとした明珠は、少年龍翔と正面衝突しそうになり、急停止した。


「す、すみませんっ!」

「いや、すまん。こちらこそ……」


 すんでのところで立ち止まった龍翔が、一歩退く。と、愛らしい面輪がしかめられた。


「またお前は夜着のままで無防備に……。季白もいるのだから、気をつけよ」


「へ? あ、すみません……」


 明珠は自分の姿をざっと見たが、特に寝乱れて大変なことになっているわけでもない。それより。


「すみませんっ! 私、あのまま寝てしまって……っ!」


 少年姿の龍翔に、明珠はがばりと頭を下げる。


 厨房での騒ぎの後、夜着に着替えた明珠は、龍翔にうながされるまま、布団に入ってそのまま眠ってしまった。


 何が起こるかわからないため、王城では決して少年姿に戻らないと言われていたにも関わらず。


 いつ、季白の叱責が飛んでくるかと、びくびくしながら頭を下げていると、龍翔が静かに季白に命じる声がした。


「季白。ひとまず隣へ下がっておけ」

「……かしこまりました」


 不承不承という声で答えた季白の足音が遠ざかる。

 ぱたりと扉が開閉する音がし。


 それでも頭を下げ続けていると、龍翔の穏やかな声が降ってきた。


「それほど気にせずともよい。《気》のことを持ち出さなかったのは、わたしの方なのだから」


「で、でも……」

 明珠はようやく顔を上げ、季白が去っていった内扉を見やる。


 何も言わずに去ったのが逆に怖い。


「己の務めも果たさずに、のんきに寝こけるとは何ごとですかっ!」

 と、明日の朝一番で、特大の雷が落ちるのではなかろうか。


 不安を隠せないでいると、少年龍翔が柔らかに微笑む。


「心配はいらぬ。季白も何も言わずに去っていっただろう? 後で叱るような真似はわたしがさせぬ」


「ありがとうございます」


 ぺこりと一礼した明珠は、衝立の向こうの先ほどまで龍翔と季白がいた卓を見やった。

 広い卓の上には巻物が小山のように積まれている。


「龍翔様と季白さんで、ずっと書類仕事をなさっていたんですか?」


 今が何時頃かはわからないが、おそらくまだ深夜だろう。

 こんな時間まで起きて仕事をしているなんてと、心配になって問うと、龍翔が鷹揚おうようにうなずいた。


「ああ。季白が、どうしてもわたしを少年姿で一人にしておけぬとうるさくてな。それならばと、書きものをしていたのだ。晟藍国せいらんこくへの出立前に処理しておきたいものも溜まっていたのでな。だから、お前が気にすることはない」


「ええっ!? そ、それってつまり、私のせいで龍翔様と季白さんを夜更かしさせたっていうことじゃ……っ!?」


「そうではない。青年姿であっても、今夜は遅くまで起きて、書きものをする予定だったぞ? だから、お前が気にする必要はない」


 少年姿の龍翔が愛らしい微笑みを浮かべるが、その言葉を素直に信じていいものかどうか、明珠には判断がつかない。


 ただ一つ、確かなことは。


「そ、その……。では、私が《気》を渡したら、季白さんも安心するでしょうし、龍翔様も眠ることができますか……?」


 尋ねただけで、心臓がばくばくと騒ぎだすのがわかる。


 夜着の上から守り袋を握りしめて問うと、龍翔が愛らしい顔立ちを気づかわしげにしかめた。


「そのように悲愴な顔をしてくれるな。お前に無理強いをする気はないぞ?」


「べ、別に悲愴な決意なんてしていませんっ!」

 明珠はふるふると首を横に振る。


「ただ、その……」

「何だ?」


 頭半分背が低い龍翔が、顔をのぞきこむ。不安そうな表情を何とかしたくて、明珠はたどたどしく言葉を紡いだ。


「だ、だって、やっぱり恥ずかしくて……」


 告げた瞬間、龍翔が安堵したように愛らしい面輪を緩ませる。


「……嫌ではないのだな?」

「は、はい……」


 恥ずかしさをおして、こくりと頷くと、龍翔が、思わず見惚れそうなほど華やかな笑顔を浮かべた。


「よかった……。季白と安理のせいで、お前が解呪を嫌がるようになったら、どうしようかと思っていた」


「……? どうしてそこで、季白さんと安理さんの名前が出てくるんですか?」


 きょと、と問うと、龍翔が目を見開いた。愛らしい面輪に苦笑が浮かぶ。


「季白が聞いたら、いったい何のためにと、悲嘆にくれるな……。だが、お前に嫌がられるよりは、よほどよい」


 謎の言葉を呟いた龍翔が、「目を閉じよ」とそっと促す。


 守り袋を握る手に力をこめ、明珠はぎゅっ、と固く目を閉じた。


 柔らかな唇が明珠の唇にふれる。

 頬を包んだ大きな手が、明珠の顔をそっと上に向かせた。


 いたわるような、優しいくちづけ。

 明珠の恥ずかしさが限界を突破する前に、あたたかな唇がそっと離れ。


「……の先を知らぬというのは、危ういこと、この上ないな」

「?」


 明珠が尋ね返すより早く、青年姿に戻った龍翔の大きな手が、ほどいたままの明珠の髪をくしゃりと撫でる。


「大丈夫だ。無理矢理、お前を変えようなどとは思っておらん。それより、夜更けに起こしてしまって悪かったな。まだ夜明けまでは数刻ある。もう一度眠るといい」


「あ、あの……」

 背を向けようとする龍翔の袖を、反射的に掴む。


「龍翔様はまだ起きて仕事をなさるんですか? 私でもできることがあるのなら、お手伝いさせてください! その……、あんまりお役に立てないでしょうけれど、何でもしますから!」


 尊敬する主人が仕事に励んでいるというのに、従者の明珠が隣でのうのうと眠るわけにはいかない。


 勢い込んで言うと、龍翔が虚を突かれたように目を瞬いた。と、柔らかな苦笑が秀麗な面輪に浮かぶ。


「本当に、お前は……。しかし、気持ちは嬉しいが、今夜はもう、わたしも休む。また、頼みたいことがあった時は、お前に頼ろう」


「はいっ! 絶対に言ってくださいね!」


 こくこくと大きく頷くと、もう一度、龍翔に優しく頭を撫でられた。


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