第5話 デート・デート

 自室のベッドに仰向けになって、俺は黙っていた。時間は腐るほどあったが、何も考えてはいなかった。殴られた傷はまだ痛む。けれどそれ以上に、ぽっかりと穴の空いたような喪失感が大きかった。ジェットボールは俺の人生の半分だったが、もう部に復帰することは難しいだろう。寝返りをうつ。そのとき、ターミナルがドアホンを模した音で来客を知らせた。視界の端にモニターの映像が浮かび上がる。予想だにしないその来客に俺はベッドから飛び上がった。飛びつくようにして玄関のドアを開ける。


「井上!?なんで……」

「停学です。お揃いですね。私は3日ですが」


 そう言って井上は笑いながら首を傾げた。綺麗な長い黒髪が揺れる。モスグリーンのカーゴパンツに、モノトーンの重ね着ロングTシャツ。極めてラフな私服を着ている。


「停学!?」

「はい。不当な処分にしつこくしつこく抗議をしたらこんなことに。まったく、腐ってますね」


 朗らかな口調だが、批判は辛辣だ。


「……停学中は自宅待機のはずじゃ?」


 そう聞くと、井上は眉間にしわを寄せて明らかに嫌な顔をした。


「なにいい子ちゃんになろうとしてるんですか。いいんですよ、どうせ誰も見ちゃいないんですし、そもそも不当な処分なんですから」


 そう言ってから井上は半ば睨むような半目で俺を上から下までじろっと見た。


「今木くんもいつまでもそんな格好していないで、着替えてください」


 確かに俺は寝間着で、寝癖もなおしてはいないが。


「着替えるって、なんで?」

「せっかくの平日休みなんですから、楽しまないと損だからです」


 そう言って井上は笑った。



 そうしてここに来た。駅で言って急行4駅分のところにあるショッピングモール。平日だからかほとんど貸し切りみたいな状態だ。


「じゃあ今木くん、手を繋ぎましょうか」

「手?なんで?」

「なんでって、私たちは“恋人”でしょう?」


 頭の横でダブルピースを曲げるような仕草をして井上は言った。ダブルクォーテーションのジェスチャーだ。悪戯っぽく笑っている。


「“恋人”なら仕方ないな」


 そう言って俺は左手を差し出した。どうせクラスメイトは全員学校だ。こんなところで偽恋人契約を大真面目に守っても何の意味もないが、それでも2人だけが知っている嘘を吐くということは、世界を騙しているようでくすぐったいような楽しさがあった。


 ショッピングモールの大通りを歩く。いつもより歩調がゆっくりになっているせいか店の様子がよく目に入ってくる。大部分がファッションの店か食べ物の店だ。


「あっ」


 井上が小さく声を漏らす。手を繋いでいると感情が揺れるのが直接伝わってくる。視線の先にあったのは、靴屋の隅の方にディスプレイされた青いハイヒールだった。


「珍しいな。ハイヒールが見えるところで売ってるなんて」


 確か女性差別の象徴として廃絶されたのだと思っていたのだけれど。


「……履いてみる?」

「はへっ!?なんでですか」

「なんでって、興味がありそうだったから」


 井上はもじもじと目を逸らしながら、頬を赤らめていた。恋する乙女の表情、一目惚れというやつか。


「で、では試すだけ履いてみましょうかね。試すだけ」


 そう言っていそいそと試着用の椅子に腰を下ろし、スニーカーを脱いだ。俺は展示されているハイヒールのかかとを摘んで井上の足元に置く。


「おわっ、ととと」


 不慣れな靴によろめいて、井上は俺の肩を掴んだ。いつもより目線が高くなっていて、顔が近い。頬がうっすら赤らんでいて、ほころぶのが隠せていない。その顔を見て、俺は井上の足元にしゃがみ、靴に付いたARタグをちぎった。それから店の奥に向けて声を上げる。


「すみません!会計したいんですが!」

「ええっ!?いいですよ、タグ持って帰って自分でポチりますから!!」

「ダメ。それじゃ履いてるところ見られないだろ」

「高いですから!ちょ、スニーカー取らないでください!脱げない!」


 押し問答をしているうちに若い女性の店員が現れる。


「すみません、会計を」


 俺はそう言ってARタグを投げ渡す。店員が受け取り、ターミナルで決済して、キャッシュレスの会計は完了した。井上は不満げに頬を膨らませる。


「ありがとうございました!」


 店員はやけに晴れやかな声で言った。それから声を落としていう。


「あの、ご提案があるのですが……」


 なんだろう?首を傾げて続きを待つ。


「こちらの靴の方、特別に半額に値引きさせていただいて、もう一足買っていただくというのはいかがでしょうか?もちろんそちらも半額で」


 つまり、1足の値段で2足ということか。唐突で破格の提案に目を丸くする。


「いいんですか!?」

「はい。こちらの靴からお選びいただければ——」


 そう言って店員が井上を奥へと連れて行く。戻ってきた井上は黒のパンプスを持っていた。夜空を溶かしたような色だ。


「うん。会計するから試着してて」


 そう言ってARタグをもぐ。それから店員に向き直り、たずねた。


「どうしてこんなことを?」


 店員は目を丸くした。こちらには得しかない提案に、理由を尋ねられるとは思っていなかったのだろう。けれど、相手の得が見えない取引を俺は信用できない。店員は小さく笑ってから大袈裟に肩を落として見せた。それから、一段フランクになった口調で言った。


「だって、みんなタグを持って帰るばっかりで直に買ってくれないんですもん。まあ、広告収入だけで充分な売り上げになるんですが、やっぱり直買いのお客様は利幅が全然違って」


 店員が頭をかく。それから、ヒールを床にコンコンと打ち付けて履き心地を試す井上を眺めやって続けた。


「それに……私は女の子を綺麗にしたくてこの仕事に就いたんです。——綺麗ですよね。ハイヒールを履いた女の子って」

「……はい、とても」


 そう答えてARタグを渡す。振り返ると井上と目が合った。


「あっ!!また勝手に会計しましたね!?」


 そう言いながら慌てた様子で駆け寄ってくる。


「ほら、次行くぞ。靴は似合ってるけどズボンが靴に合ってない」



「ふぅ」


 フードコートの椅子に腰掛けて一息ついた。とんっとコップをテーブルに置き、タピオカをもっちもっちと奥歯で噛む。通算10回目のブームなんだとか。


「……すみません」


 対面に座って井上が、申し訳なさそうに身体を縮めていた。俺は首を傾げて訊ねる。


「何が?」

「だって……こんなにいろいろ買ってもらって」


 ああ、確かにそれはその通りだった。ハイヒールの靴を皮切りに、ドレスワンピース、ストール、果ては美容室でスタイリングまでして、もはや全身変身といった様子だった。行く店行く店でノリノリで値引きしてもらえるので、つい乗せられてしまったというところもあるけれど。


「ああ、そんなこと。いいんだよ、貯金の使い所がなくなって困ってたんだ」


 ジェットボールは道具にお金がかかる競技だ。プロペラ、モーター、バッテリーにプロセッサー。どんどん更新していかないと追いつけない。それに加えて遠征費。それらをコツコツと貯金して準備してきたのだけど、あの事件でばっさりと予定が途絶えてしまった。


「結果として井上がこんなに可愛くなったわけだしな。それに……」

「それに?」

「“恋人”にそんな遠慮をするものじゃあない」


 ダブルクォーテーションのジェスチャーをしながら俺はいった。井上は、顔を赤くして俯く。


「……なんか」


 井上は何かを言いかけて言葉を切った。


「何?」

「いえ、なんでもありません」


 俺は首を傾げながらタピオカを飲む。ぽんっと最後の一粒が口に入ったので俺は立ち上がった。


「それで、他に欲しいものはない?せっかくだ、買えるだけ買ってしまおう」


 井上は少し上を見て考えて、いった。


「他には……ないですね。これ以上となると、指輪が欲しいとか、欲張りすぎになってしまいますから」

「よしっ!指輪だな!確か宝石店は1階にあったはず——」

「まっ!待ってください違うんですちがっ——」


 駆け出そうとする俺を追いかけようと立ち上がった井上がうずくまった。


「井上!?」


 駆け寄って、見ると、ひどい靴擦れができていた。


「すみません……やっぱり慣れない形の靴はよくないですね。ハイヒールが足に負担がかかることくらい分かってたんですが」

「そんな、気づかなくて悪かった」


 そう言いながら、背中に腕を添えて膝下に腕を差し込む。


「今木く——ひゃっ!?」


 そのまま立ち上がって井上を持ち上げると、井上は小さい悲鳴を上げた。


「いいいい今木くん!?」

「今日はもう帰ろう。送るよ」

「お、重いですよ?」

「鍛えてる。それに自動運転車コミューターまでならそんなに距離もないさ」

「……重いのは否定してはくれないんですね」


 眉間にしわを寄せながらそう呟くと、観念したように俺の首に手を回した。指先で荷物を拾い上げて、歩き出す。井上は俯いている。


「やっぱり、なんか……」

「なんか?」

「なんか、お伽話のお姫様になった気分です。シンデレラとか、それこそ白雪姫とか」


 その言葉に俺は首を傾げる。


「そうか?白雪姫っていうと軍服にサーベルで小人の軍団を指揮してるイメージだけど」

「ん?ああ、ポリコレ版しか知らないんですね。無理もないです。電書版はもう全部それですもんね」


 そんな話をしていると、コミューター乗り場が近づいてきた。


「ウチに版の古い絵本があるんで、今度読みに来てください」

「ああ」

「約束ですよ?」


 そう言う井上をコミューターに乗せる。扉がしまり、走り去っていく車を見ながら、腕に体温が残っていることに気づいた。

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