022▽鉄壁防御
「ちょっと、俺にも遊ばせろ。
スカッと気分転換したほうが、試験勉強がはかどりそうだ」
そんな言葉と共に、青いウインドブレカーを着込み、フードを目深に被った青年が前に出る。
身長1.5メートルに満たない小柄な男が対峙するのは、体長10メートルに達する漆黒の獣毛に覆われた巨体。
ずん……っ!、と巨大な
雄々しい2本の頭角を有する縦長の牛面だけでも優に3メートルを超えており、人間くらい丸呑みに出来そうだ。
全体としては5頭身ほどのずんぐりと横に太い体型で、やけに引き締まった腰に反して、胸と臀部は倍どころか3倍近く太い。器用に二足歩行する
── <
最上位の魔物に分類されるそれが、さらに一歩踏み出した。
大木の切り株のような
「あ、あの、隊長……本当にマスターだけで大丈夫なんですか?」
地響きじみた魔物の足音に、身を竦めていた少女・椿が、息を潜めて尋ねる。
先ほど、この魔物に吹っ飛ばされた恐怖を思い返したのか、今にも逃げ出しかねない様子だ。
しかし、腰が引けてたとしても、仕方ない相手だ。
バベルの中でも特に広いこのフロアは、小中学校の体育館くらいの広さと高さを備えているが、魔物の10メートルほどの巨体とは、その体育館くらいの広間の天井に届くような偉容なのだ。
巨獣と目を合わせようとすれば 『見上げる』 を通り越して、 『空を仰ぐ』 に近い姿勢になる。
例えば、陸上生物で最大級になるアフリカ象が、体長7メートルで体重10トンほど。このアフリカ象が、2本足立ちをすれば、高さ10メートル程度 ―― つまり、この巨大な魔物とほぼ同程度。
つまり、<
視点を変えて、<
あるいは、成人男性VS子ネコ。そんなスケール感だ。
魔物の巨体はそれほどなのだから、その歩行に巻き込まれただけで熟したトマトと変わりない有様になるのは、想像に難くない。
しかし、少女の姉・紅葉は、馬鹿げた巨体を前にしてもなお、笑みを浮かべている。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ」
妖艶なバニーガールは余裕の表情で、怯える妹をリラックスさせるように、冗談めかした言葉を口にする。
「うちのマスターはね ── ……まあ、とても残念な事に、
「おい、聞こえてるぞっ」
数メートル先で、青いウインドブレカーが抗議の声を上げるが、紅葉は取り合わない。
「こと戦闘に関しては、それはそれは凄いのよ。
とても強いの。
だから、 『我々の旦那様』 がどれだけ男前なのか、大人しく見ていなさい」
── ズズンッ、とひときわ大きな足音。
侵入者達の緊張感のない雑談を断ち切るように、
「── ふん……っ」
すかさず、アヤトが一歩前に出て、右手をかざす。
青いウインドブレカーの袖から、無数の鎖が飛び出し、一気に広がった。
── ズシャンっ!
金属が軋み、歪む音が響く。
振り下ろされた
しかし、破れる事無かったとはいえ、鎖のネットは推定体重10トンの巨獣の攻撃を受け止めたのだ。金属強度の限界に達したのだろう。鎖の防御網は、
── グゥルォオオオ~~~っ!!
魔物が、その巨体に相応しい大音響で雄叫びを上げる。
鼻息荒く、喜悦に目を細める牛面に、弱い相手をいたぶる強者の傲慢が見え隠れする。
青い魔術士は、フードに半ば隠れた顔に苦笑を浮かべて、呆れの声を吐く。
「おいおい……。 勝ち誇るには、ちょっと早いぞ」
言葉と共に今度は逆の手、左手を上げる。再び、いくつもの鎖が袖の中から飛び出した。今度は、茂みから 得物に襲いかかる毒蛇の群れのように、魔物の首を目がけて殺到した。
しかし壁にぶつかった鎖は、なおも動き続け、魚が泳ぐのような滑らかな旋回で勢いを付けて、再度強襲する。
今度は後頭部を狙った鎖の群れを、巨体は振り向きざまに片腕で打ち払う。
ガシャガシャン、と撥ね飛ばされた鎖が壁や地面にぶつかり跳ねはするが、大きな破損はない 。言うなれば、吊された短冊を叩くような物で、鎖のしなりが勢いの大半を受け流しているのだ。ほとんど破損のない鎖の群れは、すぐさま、再三の攻撃に移行する。
── そんな執拗な鎖の攻撃に、魔物は予想外な方法で回避を行った。
連続後方倒立回転、いわゆる『バク転』だ。
巨体に似合わぬ軽快さでブリッジの体勢で後方に飛び、巨腕と
地震と落雷が同時にきたような轟音が連続し、あちこちが余韻でビリビリと震えている。
「── ほう……っ
デカブツのくせに良い動きをする。素体が良かったのか?」
しかし、アヤトの声は、驚愕というよりも笑うような軽快さ。片手を振って、宙を泳ぐ鎖の群れを左袖の中に回収し、もう片手で顎をなでて感心半分の様子。
魔物は、新体操選手じみた軽業の後、蹄と逆関節の脚を器用に動かし、壁際まで後退。警戒をして距離を取るような挙動。
そして、その巨体をかがめ、豪腕を両方地面につけた。
内に秘めた闘志が溢れ出るかのように、荒々しく鼻息が噴出する。
── ヴォフゥッ! ヴォウッ! フゥ~~ッ!
さらには、足の
今にも爆発せんばかりの、巨大な暴威。
それを前に、青い魔術士は、なぜか小さく吹き出した。
「── ははっ
なんだ、お前、力比べしたかったのか?」
アヤトは、殺し合いの場に似つかわしくない、どこか優しい声。
まるで、小さな子供の他愛ないイタズラを発見したような、柔らかな表情。
「いいぜ、遊んでやろうっ」
身長150センチに満たない小柄な青年が、四つん這いになっても6メートルを超える巨体へ、挑発するように手招きをした。
── ヴゥオオオオオ~~~!
ドンっ、と爆音じみた足音を響かせ、巨躯が駆け出した。
対して、アヤトが取り出したのは、千円紙幣と同じ大きさの金属版。
右手の人差し指と中指で挟み、スナップをきかせて片手で投じる。
「── 1枚っ」
アヤトが鋭い声と共に放った金属プレートは、ブーメランのように回転して、黒い巨体へ向かう。
牛頭に当たる寸前に、金属プレートは溶けるように形を崩して、その巨体を覆い尽くすように広がった。一瞬で張り巡らされたのは、一辺が10メートル程度の金属の巨大な網 。その網を構成するのは、人の指ほどの太さの鉄がリングを形作って連なる、極太の鎖。
車でも吊し上げられそうな太い鎖で編まれた蜘蛛の巣が、無謀にも真っ正面から飛び込んできた獲物を絡め取ろうとする。
── バァアン!
だが、鎖の網は中心から破裂するように、砕けて散った。
鋼鉄の極太鎖で編まれた防御網であっても、巨大な魔物の爆走の前には、跡形もなかった。
「2枚っ」
アヤトは先ほどと同じく、金属プレートを手首のスナップだけで投じた。
再度、千円札ほどの金属板が、猛牛のように突進する
しかし、――
── ガッシャーンっ!
推定10トンという大質量が、再び巨大な金網に突き刺ささる。拮抗したのは一瞬だけ、すぐさま勢いのまま引きちぎって突破。
さらに、角を振り回し荒れ狂う巨大牛が、頭を下げて2本角を構えた。距離が半分を切った事で、小柄な侵入者を押しつぶす突撃の体勢を整えたのだ。
得物を追い立てる地響きと、迫り来る巨体。瞬きするたびに、視界の中の黒い獣が倍拡に大きさを増していく。
身近な物で言えば、列車が高さ4メートル強。その1.5倍の巨躯・6メートルともなれば、小さな山が迫ってくるような錯覚すら覚える。
世界最大級の熊であるグリズリーさえ、これに比べれば赤ん坊のような物だ。
── しかし、アヤトは慌てず、焦らず。淡々と、繰り返し金属プレートを投じる。
「3枚っ」
三度目に金属のネットが広がった位置は、アヤトから5メートルほど先。魔物の巨体を考えれば、その体躯一つ分もない距離は、まさに目と鼻の先と言って良い至近距離だ。
そして、再三の衝突。
── ギャリ、ギャリ……っ、と金切り音が不吉に響く。
鎖が突進を押し止めたのもわずかな間だけ。牛のような巨大な後足が二度滑り、三度目に
そして、最後の一歩。
「4枚っ」
── ガシャァアアンっ!
アヤトの手前、わずか1メートルほどに張られた最後の防御網に、巨大な魔物は頭から突っ込んだ。さらに四つん這いにしていた両手 を上げて、編み目に指をかけ、鎖を鷲掴みにして、大木じみた豪腕の筋肉を脈動させる。
3枚の防御網を破るために突進の勢いを大分削がれたとはいえ、そもそもがこの巨体である。
角を引っかけ、両腕で引っ張れば、この程度の金属網など容易く引き裂けるだろう。
── ヴゥゥフゥゥ……ゥっ!
爛々と目を光らせ、興奮気味に喉を鳴らす、2メートル強の牛面。大重量が防御網をたわませ、アヤトまであと数十センチまでと迫る。
鉄網ごしに、荒々しい鼻息が青いウインドブレカーを揺らし始める。
まさに、檻を壊して襲いかからんばかりの巨獣。 さらには、鎖があちこちでねじ曲がり、千切れ、鉛筆をC字型の曲げたくらいの鉄破片となって、バチンバチンと、快音を上げて跳ね飛んでいく。
だが、アヤトはそのわずかもない位置に立ったまま、微動だにしない。
「マ、マスターっ! 早くっ 早く逃げてくださいっ」
焦燥の声は、彼から数メートル後ろで成り行きを眺めていた、椿。
しかし、青いウインドブレカーの青年は、振り向きもせず、また後ろに下がるそぶりすらない。
ただ、心配するな、とばかりに、片手を上げて軽く振った。
── と、その瞬間に、決定的な破滅が訪れる。
ギギャ、ガギャ、ギャギャ……っ!、と金属の断絶魔が響き渡り、最後の防御金網が決壊した。
── ヴォォォ~~~~!!
そして、身長10メートルの巨体が、さらに高々と、巨大ホールの天井間際までに拳を振り上げる。
振り下ろされれば、人間など跡形もなく四散し、自動車どころか鋼鉄に鎧われた戦車でも一撃で破砕しかねない、巨大な拳。
アヤトは、そんな絶体絶命の状況で、むしろ愉快そうな、含み笑いの混じった声を上げる。
「──
まあまあだな。
『ただの牛面』にしては頑張った方か」
無防備に立ち尽くす小柄な青年をめがけ、黒い巨拳が落石の様に落ちてくる ──
「マスターっ!!?」
少女が思わず目をつぶり、悲鳴を上げる。
しかし、
「しかし、いくら素体がよくても……前しか見えていない単純さは、所詮は魔物って事か」
アヤトの、呆れ混じりのつぶやき
── その瞬間、巨体が後ろに傾いた。
まるで、急に後ろから掴みかかられたように、魔物は大きくバランスを崩す。
「
魔術士が、静かに宣告した。
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