第十八章④ 折れた心のままで
ベブルの眼前には、星空が広がっていた。いや、前だけではなく、右も左も、後ろも、上も下も、すべてが星空なのだった。彼は一瞬、自分が
ベブルはいま、居室から出たところだった。例のごとく、他の仲間が料理をしているというのに、彼はひとり、それを手伝っていなかった。そして気まぐれに、厨房にいる料理中の仲間の様子を見ようと部屋を出てきたのだ。
それがいつの間にか、星の世界に投げ出されてしまっている。振り返っても、出口はない。
どう考えても、これはナデュク・ゼンベルウァウルのいたずらだ。この工房は、彼のものなのだから。このような手の込んだ仕掛けが作れるのは、彼をおいて他にはない。
「おい、ゼンベルウァウル! くだらねえことしてねえで、こっから出しやがれ!」
だが、返事はない。無視を決め込んでいる。
ここで暴れてやろうか、最強無比の“
そうベブルが思ったとき、思いも掛けず、別の人間がここへやって来た。
ムーガだった。
ムーガは目を擦りながら厨房を出てきたのだった。彼女もまた、星の世界に迷い込む。彼女は驚いて振り返ったが、そこに厨房はなかった。
「ムーガ!」
ベブルは呼びかけながら、ムーガのほうへ駆け寄った。
ムーガは周囲を見回す。
「ねえ、ここはどこ? 何でこんなところにいるの?」
「さあな。ゼンベルウァウルの奴だろ、どうせ。一体なにを考えてるんだか」
ベブルは溜息混じりにそう言った。
それからベブルは、歩いていこうとした。この
「どこに行くの」
後ろからムーガの声がした。寂しそうな声。ベブルは振り返る。
「こっから出るんだよ。いつまでもあいつのお遊びに付き合ってられねえからな」
それからまた、ベブルは先へ行こうとした。だがそれを再度、ムーガが呼び止める。
「待って!」
「……何だよ」
ベブルがまた振り返ると、今度は、ムーガは彼のところへ駆け寄る。
「このままでいいよ」
「はあ?」
「だってこれ……、すごく綺麗だよ」
ふたりは完全に、星の光の溢れる世界に閉じ込められていた。ベブルはムーガに忠告する。
「だが、こいつは贋物だぞ」
すると、ムーガは笑って、首を横に振った。
「これでいいの。だって、本物はわたしたちの心の中にある。そうでしょう?」
なにも言い返せなかった。ムーガの理屈は穴だらけだ。本物が心の中にあるのなら、贋物の星空を残しておく必要などないのに。
「……それで?」
「え?」
ムーガは驚いた。
「なにか言いたいことがあるんだろ。いつも通りのやり口だ」
「え、……うん」
ムーガがそう言うと、ベブルは彼女を抱き寄せる。ここまで距離が近いと、彼女には彼の、彼には彼女の顔が見えないのだ。だというのに、相手を間近に感じることができる。彼は先を促す。
「言えよ」
「うん」
ムーガは決心を固める。
「わたし、人のいるところへは行きたくない」
「何でだ? お前、ずっとここにいるつもりか?」
「みんな……、わたしを、憎んでるから」
ムーガの声は、乾き、震えていた。
「そりゃあ、デルンの支配下の奴はそう思ってるはずだ。だが、そうじゃない奴だっているだろ。お前はこれまでよくやってきたじゃないか」
「それでも、わたしの失敗のせいで、本当に多くの人が死んだ。ジル・デュールの人たち、『真正派』の人たち、ヴィ・レー・シュトの人たち……。みんな、みんなが、わたしのせいで」
「お前のせいじゃねえよ。全部デルンが悪いんだ」
ムーガの声に、涙が滲み始める。
「違う……。みんな、わたしを信じたから死んだんだ。わたしさえ、いなかったら……」
「お前がいようがいなかろうが、悪いのはデルンだ。それに『穢れなき双眸』の奴らだって、放っておけば自分たちだけでデルンと戦ったはずだからな。お前は利用されただけだろ」
「わたしが、彼らを引き連れて戦いに行くんじゃなくて、彼らに戦いを止めさせればよかったんだよ。そうすれば、誰も死ななかったはずなのに……」
「お前はなあ、お人好し過ぎるんだよ。お前は最初から、戦う気なんかなかった。そうだろう? それを、連中がお前を天辺の飾りにしたんだ。お前は頼まれたことをしただけだ」
後悔がムーガの喉を締め付ける。
「……どうせ憎まれるんなら。戦いに行かないで憎まれたほうが良かった……。それなら、誰も死ななかったのに……」
ベブルには、もうなにも言えなかった。これ以上の慰めは、無意味だと解ったからだ。過去は変えられない。そういうものだ。浅い傷ならば治るだろう。だが、ムーガの負った傷はあまりにも深いのだ。
消えない。
ベブルは素直に認める。
「そうだな。エルミダートとゼンベルウァウルの話じゃ、お前は本当に恨まれてる。自分の街が滅ぼされたのは、お前のせいだと思ってる。知り合いが、家族が戦いで死んだのも、全部お前のせいだと思ってる」
ムーガは泣いていた。声をあげて。ベブルはただ、そこでじっとしていた。彼にできることは、ただそれだけなのだから。
……自分たちはなにもしなかったくせにな。
ベブルは、声には出さずに、そう思った。
こいつは自分の人生を賭けてまで、悩んで、泣き叫んで、『アーケモスの人々』を救おうとした。それなのに、なにもせずに人に押しつけてきただけの連中に恨まれる……。
ベブルはその両腕で、ムーガをしっかりと抱き締めた。
彼女は泣いていた。子供のように。
ナデュクが用意した星空は、本当に良かった。時間を忘れさせてくれた。
彼らはこの星の世界で、たったふたりきりだった。
いつのまにか、ムーガは泣き止んでいた。ベブルはずっと、彼女を抱き締めていた。
ムーガは顔を上げるために、ベブルから離れる。
「……ごめん」
妙にすっきりとしていた。
「いや、別に」
ベブルは答え、星空の中で深呼吸をした。
「でもわたしには、どうしたらいいかわからない」
ムーガはそう言った。その声は、意外なほどにはっきりとしていた。
「次になにをしても……、誰かが不幸になる。そんな気がするから」
「でもお前は、どこかには行かねえとな。別に、デルンタワーに行かねえなら、それでもいい。それも選べるはずだ。別にこれまでしてきたことだって、間違っちゃいないんだろう?」
「でも……」
「お前のやり方は正しかった。ジル・デュールが滅んだ代わりに、デューメルクが生き残った。シムォルとヴィ・レー・シュトが滅んだ代わりに、俺が生き残った」
「……でも」
「それでいいさ。今頃後悔してどうする。……いや、それが、お前のやり方か。お前は、人の上に立つには優しすぎる……」
「そんなことないよ。わたしは、わたしのことしか考えてないから、みんなじゃなくて、わたしの大切な人を助けてしまった……! わたしは『アーケモスの救世主』だから、そんなんじゃ駄目だったのに!」
「それでいい。俺はお前のやり方、悪くないと思う」
「でも……」
「答えは出ないだろうな。だが、俺やデューメルクはそれで救われたんだ。俺は感謝してる。それじゃあ駄目なのか」
ムーガには、答えることができなかった。どちらの選択肢も、よいとは言えないと同時に、駄目だとも言えないのだ。
「俺はデルンタワーに行く。お前はここに残ってもいいぜ。デルンをぶち殺したら俺はここに戻ってくる。お前は一生ここから出ないんだろ? だったら俺も一生ここにいてやる」
ムーガはじっと、押し黙っていた。
もう話は終わりだろう。ベブルはそう思って、星空に向かって言う。
「おい、ゼンベルウァウル。もういいぜ。元に戻してくれ」
星空は消えていく。代わりに、ナデュクの工房の廊下が現れた。ベブルはその廊下に沿って、歩き去ろうとした。
「待って!」
また、ムーガが呼び止めた。ベブルは振り返る。彼女は彼のほうへ駆け寄る。
「やっぱり、わたしも行く。なにをするのも怖いけど、わたしも行かないと、みんなが心配だから。わたしの力が必要とされてるから。これが、わたしのやり方だから!」
そこへ、ウィードとフィナが厨房から出てくる。ふたりは明らかにこの廊下を通るつもりのようだったが、向かい合っているベブルとムーガを見て、立ち止まった。
「おや、お取り込み中でしたか。これはすみません」
「『わたしのやり方』……か。フフッ」
ふたりはそれだけ言い残して、また厨房へと引き込んでいった。
ベブルとムーガは気まずい思いをして、その場に無言で立ち尽くしていた。
ウィードとフィナが厨房に戻ると、ややあって悲鳴が聞こえてきた。そして、厨房からスィルセンダが飛び出してくる。
「ムーガ、いい加減におやめなさい! 本当に歴史が変わって取り返しがつかないことになったら大変なことに、わたくしもとばっちりで消されてしまうのはごめんですから、もう本当に聞き分けよく謹んで、じっくり考えて早まったことは——」
スィルセンダのその慌て振りを見て、ベブルとムーガは互いに顔を見合わせ、大声で笑ったのだった。
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「やれやれ」
ナデュクは溜息をつくと、椅子の背にもたれ、大きく伸びをした。
「本当に世話の焼ける『救世主』様だ」
それから彼はまた机に齧り付き、無言で、笑った。
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