第十七章

第十七章① 安息のために

 薄暗く、肌寒い。


 時の海が渦巻いていた。


 彼はその渦の中心にいて、回転を続ける世界に眩暈を感じていた。


 俺は、この先に、歩いて行けるのか?


 彼は自信を失いつつあった。あまりにも多くのものが、彼の目の前で目まぐるしく現れては消え、光を放ち、そして飛び廻るから。


 俺は、どれを掴めばいい?


 彼は手を伸ばした。


 助けを求めて。


 安息を求めて。



 その瞬間、世界は、揺らぐことを止めた。


 そうして、凍りついた世界の誕生と共に、救いを求める若者の彫像が同時に完成した。


 いつか。


 いつか、救いの手が差し伸べられることを願って。


 永遠に。


 永久にその手が差し伸べられることはないというのに。



 永劫の時を経たのちに、彼は知るだろう。


 それが自身の姿なのだと。


 そして、それが自身の存在そのものなのだと。



 その苦痛と、苦悩と、叫びと、涙と、その眩暈めまいこそが、彼の姿そのものなのだ。


 それゆえ、彼が、彼自身から解放されることは、決してない。



 揺らぐことを止めた世界はもはや世界でないように、


 揺らぐことを止めた彼はもはや彼ではない。

 


 思い出したように、世界はまた動き始めた。


 彼もまた、彼であることを始め、彼が彼でなかったことになど、気付くこともないのだった。


 彼は叫んだ。


++++++++++


 ベブルは荒野を歩いていた。


 道中、しつこい耳鳴りがしていたが、しばらく歩いて、それは少し穏やかになった。


 そしてベブルは、遠くに建物の集まりを見た。村のように見える。意を決して、彼はそれを目指して駆け出した。



 村の中をしばらく歩いて、ベブルは気付いた。ここは、一度来たことのある村だったのだ。


 ヴィ・レー・シュトだった。


 村の中を行き交う人々の殆どは、やはり魔術師だった。白ローブの者も黒ローブの者もいる。


 ベブルは、歩いている魔術師を適当に捕まえ、話しかけた。知る必要があるのだ。そもそも、自分は今回のデルンとの戦いの、重要な作戦を担っていたのだ。それが、どういうわけか出発地点に戻って来ているのだ。


 こうなってしまっては、ベブルが担当していた作戦は、彼以外のふたり——ウィードとレミナだけで遂行する羽目になってしまっている。その結果、どういうことになったのか、本隊の構成員となったフィナやスィルセンダ、そして、ムーガが無事なのか、それらを知る必要があった。


「ムーガたちは、『けがれなき双眸そうぼう』はいま、どうなってるんだ? デルンは、あの野郎はどんな動きを見せたんだ? 教えてくれ!」


 ところが、話しかけられた白ローブの魔術師には、その話は全く通じなかった。


「『穢れなき双眸』? それは何です?」


「とぼけるんじゃねえよ。デルンの奴をぶち殺しに、ヴィ・レー・シュトの軍隊を送ったじゃねえか」


 その魔術師は驚いた様子だ。


「軍隊? デルンを倒すためにですか? そんなことはできません。時期尚早ですし、なにより、ヴィ・レー・シュトの人々を巻き込むことになりかねません」


「実際、巻き込んでいたじゃねえか」


「そう言われましても……、貴方はなにを言っているんです?」


 話が全く噛み合わない。


 そうかと、ベブルは思った。この魔術師はデルン側の人間に情報を漏らさないように、わざと嘘をついているのだ。どうする? 自分がベブル・リーリクメルドであることを言うべきか。いや、それでも、デルンの手下が騙して聞きだそうとしていると思うかもしれない。だが、このまま『穢れなき双眸』とウィードたちの情報が手には入れないままでいいはずがない。


 だが、ベブルはまた思う。ヴィ・レー・シュトの『穢れなき双眸』がデルンの都市を攻めに行ってるのは、もうデルンに知られているはずだ。なぜこの魔術師はそんなことまで隠そうとするのだろう。


 その魔術師は、考えごとをしているベブルに言う。


「それはそうと、聞きましたか? ルメルトス派の人間と思われる男女が行き倒れになっていて、この村で手当てを受けているそうですよ」


「なに?」


「疑いたくはありませんけど、こんなご時勢です。霊峰ルメルトスは独立を保っていた派閥ですが、ソナドーン師がデルン側に傾いているという噂です。その男女はこの村への密偵ではないかという話もあります」


 ベブルは驚いた。この時代の人間が、会話に『ソナドーン』という言葉を使ったのだ。それは彼の父の魔法名だ。彼の父は六十年前の人間だというのに。


 その魔術師はベブルを、村の内部の人間だと思っているようだ。


「貴方も、滅多なことは口にしないほうが宜しいと思いますよ。どこでデルンの手下が話を聞いているかわかりませんからね。いくら、ここが魔王様の支配地域だといっても」


 状況が飲み込めなかったが、ベブルはひとまず首を縦に振り、その魔術師と別れた。



 ベブルは周囲を見回した。よく見ると、ここは、六十年前の——つまり、彼の時代のヴィ・レー・シュトだということがわかる。だから先程の魔術師は、ムーガのことを知らず、『穢れなき双眸』のことを知らなかったのだ。そして、ヨクト・ソナドーンの名を口に出したのだ。


 現状が理解できてくると、ベブルは恐ろしいことに気がついた。このままでは、時間移動ができないのだ。


 ベブルには、時間移動をするにはフィナの存在が必要だ。彼女の指に嵌められている指輪が。ふたりは、互いの持っている指輪の宝石を合わせている間しか、時間移動ができない。だというのに、ベブルはこの時代に、フィナは六十年後の世界にいる。いや、そもそもここが本当に『約六十年前』の世界であるかすら、怪しいところだ。最悪、何年かのずれはある可能性がある。


 とんでもない掛け違いが発生してしまった。ベブルは未来に行けない。つまり、『穢れなき双眸』を助けて戦えない。ムーガを守れない。さらにいえば、これから永久に彼女に会えない。そして、フィナは永久に未来に取り残されたままになってしまう。


 どうする? ベブルは焦りに焦った。だが、ふと、彼は思い出した。先程、あの魔術師から聞いた言葉を。


 ベブルは走り出し、いまでは少し離れたところにいた、先程の魔術師に背中から話しかける。


「おい、待ってくれ。いま、ルメルトス派の奴らを手当てしてるって言ったよな」


「言いましたが」


 魔術師は素直にそう答えた。


「間違いないんだな? 手当て、じゃなくて、いま、手当てんだな?」


「そうです」


「もしかして、そいつらの片方は、ヨクト・ソナドーンの息子なのか?」


 そう言いつつも、ベブルはその言葉に強烈な嫌悪を感じていた。彼は、自分がヨクトの子であるということに、つくづく嫌気がさしていたからだ。


「そうかもしれないという話ですね。どうかしましたか?」


「いや……、それなら別にいいんだ。ああ、ありがとな」


 ベブルはそれだけ言うと、また駆け出した。自分が手当てを受けていた建物のほうへ。


++++++++++

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