第十章④ 善悪の所在
地平線の彼方へ太陽は沈んでいった。空にはじわりじわりと、星が浮かび上がってくる。
ああ、月だ。
ベブルは思った。
未来のアーケモスにも、月はある。変わらずに。星もある。もうすぐ、彼らが空に輝く時間だ。
不意にベブルは顔を顰めた。遠くに何か見えた気がしたのだ。
——我が子よ
——全ては
トントン。
ドアがノックされ、ベブルは振り返った。
開くと、そこにはムーガがいた。彼女はゆっくりと歩いて、窓辺にいる彼のところへ歩いて来た。
ベブルたちはボロネ街の宿に戻って来ていた。ボロネ住民はまた大騒ぎして『救世主一行』を迎え、今晩もご馳走を振舞うと言った。ムーガと真正派の面々との握手の約束は放棄したままだ。
ムーガはボロネの街の住民に、明日は周辺を見回って、凶悪な魔獣を退治しに行くと言った。当然、ボロネ住民は大喜びした。そして、感極まったボロネ戦士たちが同行を申し出たが、それは却下した。本当はそんなことはしないからだ。
実際には、明日、ベブルたちは時空塔へ向かう。時空塔へは、一日掛けて行ける距離だ。そこに奇襲を掛けるのだ。というのも、時空塔も『真正派』の調査管轄だからだ。つまり、ボロネにいる『真正派』に連絡されては、やりにくいと踏んだのだ。
「何をしておったのじゃ?」
ムーガはベブルに訊いた。放心していた彼は我に返る。
「別に。外を見てただけだ。そういうお前は、なにか用か?」
「まあのう」
ムーガは部屋にあるテーブルセットの椅子に座った。そして、テーブルに置かれている花瓶の花を覗き込む。
「夕食ができるまで、下の階に行って騒ぎに巻き込まれるのも嫌じゃったし、部屋に篭ってひとりでおるのも嫌じゃったし……、話をしようと思ってのう」
「そうか」
ベブルはそう言って、窓の外を見やった。空に星が浮かんでくる。空が暗くなっていく。
沈黙があった。
ベブルは星を、ムーガは花を、それぞれ見つめている。
ようやく、ムーガが切り出す。
「ベルド、おぬしはシウェーナに似ておるのう。彼女も外を見ておった」
「俺が? 俺が、あの女に似てるって? 勘弁してくれよ」
ムーガは苦笑いする。
「なんじゃ、ベルド。おぬし、シウェーナが嫌いなのか。いや、今ふと思っただけじゃよ。それ以外はすべて全く正反対であると言っていい」
「そのほうが自信あるぜ」
ベブルがそう答えたので、ムーガは、はははと苦笑して、黙った。
それから、またふたりは沈黙した。
「そんなこと言いに来たんじゃねえだろう?」
ぼそりと、ベブルが言った。ムーガは彼と目を合わせずにうなずく。
「その力……。どうしておぬしも持っておるのじゃ?」
ベブルは首を振る。
「さあな。そいつは、俺が知りたいんだ。これは、俺がほんのガキの頃から持ってた力なんだ。だから、理由は分からない」
「わしも、この力は、昔からあったんじゃ。世界を救うという予言を裏打ちするかのように……」
ムーガは自分の両手をじっと見ていた。ふと、ベブルは自分もそうしている事に気付いた。彼女はまた言う。彼女の目は輝いている。
「そうじゃ、きっと、おぬしも世界を救うんじゃよ。わしと共にな」
「まさか」
ベブルは否定したが、ムーガは続ける。
「絶対そうじゃよ。いまのわしの身体では、あまりにも意識を失いすぎて、予言の怪物を倒せるかどうか自信がないんじゃ。このままでは、予言は成就せんじゃろう? そこで必要になるのが、おぬしの存在なのじゃ」
「絶対違うって。俺なんか、そんな予言自体、知らなかったんだし」
「じゃが、いまは知っておる」
「そりゃそうだが……」
「きっと、そうなる定めだったんじゃよ。なにからなにまで、おぬしとわしではそっくり似ておるしな。容姿の端麗さまでも」
ムーガは嬉しそうに喋っている。
ベブルは腕を組む。
「なに言ってんだ。見た目については言うなって言ったのはお前だろ? なのに、俺には言うのか?」
「気が変わった。おぬしになら、いくら言われても構わんよ」
彼女はあっさりとそう言って、微笑んだ。
「何だそりゃ……」
「そっけないのう。あれだけモーション掛けて来おった男が」
ベブルは返答に困って、黙った。顔が熱い。多分赤面してるんだと、彼は思った。
ムーガはテーブルに身を乗り出す。
「別にいいじゃろう、ベルドよ。この世でわしに釣り合うのはおぬしだけ、おぬしに釣り合うのはわしだけじゃ。この意味、わかるな?」
それは強引な愛の告白だった。ベブルはムーガをじっと見た。彼女の瞳には、夜空よりも遥かに多くの星が、長い睫が上下するにつれて瞬いている。照明を受けて控えめに輝く木目細やかな頬には、濃い紅が差している。両手の指を絡み合わせ、微笑みで引き結ばれた艶やかな唇に当て、返事を待っている。
いや、待て。ベブルは重大なことに思い至る。大体、俺は過去の人間なんだ。それで、こいつは未来の人間。騙していたとは、いまさら言えない。偽名まで使っていたとは。きっと怒り狂うだろう。この美しい女を、世界の救世主を、俺がぶち壊すなんてことには絶対にしない。……そうだ、冷静になれ。まだ、こいつは直接に言ったわけじゃない。「好きだ」と。とりあえずこの場を抜ける方法はある。
ベブルはできるだけ落ち着いた声で言うことにした。
「ああ、解るさ。俺と潰し合いができるのは、世界でお前だけだろうよ」
ムーガは当然、当惑する。
「あ、いや、そういう意味では……」
「じゃあ、何の意味だって言うんだ? お前の態度が変わったのは、俺が例の『力』をもってるって知ったからだろ?」
「それもあるが、それだけでは……」
「そうだろ? それ以外に理由がないからな」
ベブルは無理矢理、ムーガの言葉を遮った。
ムーガは奥歯を噛み、押し黙った。顔は一層赤くなり、瞳には涙が浮かんできた。その瞳で、彼を睨んでいる。
俺だって泣きてえよ……。
ベブルはムーガから顔を背け、窓の外を見ようとした。だが、やはり気になって彼女の方を見てしまう。顔は変わっていない。それどころか遂に、溜まっていた涙が頬を伝って零れ始めた。
生まれて初めて本気で欲しいと思ったものを、こうやってまで遠ざけるのは、つらい。
ムーガが口を開く。出てきたのは荒れた涙声だった。
「じゃあ、その他の理由をはっきり見つけて、突きつけてやる! それまで、絶対に、他の女と付き合うなよ!」
ベブルが鼻で笑う。作り笑いだ。
「馬鹿にするなよ。他の女と付き合うな、だって? そうそう簡単に、俺に釣り合う女を見つけられるわけねえだろ」
「フン」
ムーガは強情を張った。ローブの袖で涙をぬぐう。
そのとき、急にドアが開いた。
ベブルもムーガも驚いて、そちらを見た。開けたのはフィナだった。
腕を組んで壁にもたれ掛かって偉そうに笑いながら喋っている男と、椅子に座って目を赤くしてテーブルの上に涙の池を作っている女とが、ふたりきりで居る部屋。
明らかに、その女を泣かせたのは、その男だ。
ドアを開けてしまったフィナはふたりを交互に見ると、ひと言言う。
「降りろ」
フィナはドアを閉めた。夕食が出来たのだ。
「行くぞ」
ベブルはそう言って歩き出した。彼はテーブルの前を通り過ぎたが、ムーガが立つ気配はない。
「どうした?」
「先に行け」
ムーガは震える声でそう言った。
「なんだ、立てねえのか。情けねえ」
「違う!」
ムーガは仕方なしに、椅子から立ち上がった。
仁王立ち。両足を踏ん張り、両の拳を握り締め、背中を伸ばし、怒りのこもったふたつの瞳で、彼を睨みつけている。
「あ……、悪い。やっぱり後から来た方が良いや」
ムーガの目は泣き腫らして真っ赤だった。これではすぐに、ボロネの住民たちに、彼女が泣いていたとばれてしまう。
「別によい」
ムーガはそう言って歩き出し、ベブルを押しのけて、ドアの取っ手に手を掛けた。
ベブルは思い出したように言う。
「もうひとつ」
「なんじゃ?」
ムーガは顔を彼の方に向けなかった。
「その喋りかた、直せよ。そうしねえと、まず俺とは釣り合わねえな」
「……フン」
ムーガはドアを押し開け、出て行った。
案の定、ムーガの目が赤かったことから、彼女が泣いていたということはすぐに、ボロネの人間たちにばれてしまった。おかげで、彼女と共に出てきたベブルに疑いが掛けられ、彼は宴会に集まった人々に口々に責め立てられた。だが、そのことに関して、ムーガが口を閉ざしていたので、結局、真相は闇の中へ消えていったのだった。
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