第十章

第十章① 善悪の所在

 朝になると雨は止んでいた。ただ、地面は湿っていて、所々に水溜りができている。


 ベブルは目を覚ますと、窓を開け、外の景色を眺めた。街の遠く、平原の向こうから日が昇ってくる。夜明け。新たなるものの到来。


 ベブルは階下に降りる。そこには、街の役人がすでに数人やって来ていた。そんなに大急ぎでムーガを駆り出したいかと彼は思ったが、敢えてなにも言わなかった。厨房のほうでは音がする。朝食の準備に掛かっているようだ。


 しばらくして、ウィード、フィナ、スィルセンダ、ムーガと順に起き出してくる。


 朝食を摂って、一向は出発することになった。


 黒ローブの男たちと合流し、魔獣ディリムに乗って風と光の森へ向かう。



 森は変わっていなかった。


 ベブルは感慨を覚える。六十年経っても、風と光の森は何も変わっていない。神秘的な雰囲気がそのまま残っている。


 ディリムから降りたムーガが、ベブルに言う。


「こやつら、わしが止めねば、この森まで一部刈り取るつもりだったらしい。他の地域ではもうやられた」


 『こやつら』とは、ここで調査をしている『アールガロイ真正派』の人間たちのことだ。


 自然を愛するおしえを説いた、ヒエルド・アールガロイの名を冠する集団のやることではない。ヒエルドのいた森であるために、ここだけは少し扱いが違うらしいものの。


 デルンの地下研究施設調査責任者であるユジフ・サディロアは一同に言う。


「例の遺跡はこの先です」


 一同は歩きつづけた。ボロネの役人たちも付いて来ている。役に立つ場面はないだろうが、一応、体面上の問題だ。


「ここは、ヒエルドの森だな」


 ベブルは歩きながらそう言った。もう太陽は頭上に昇っている。もうすぐ昼だ。


 ムーガが反応する。


「ヒエルドというのはアールガロイ師のことじゃな? わしの場合はそれよりも、死んだ爺さんの森じゃ」


「ん?」


「わしの爺さんも、この森に住んどったんじゃ。わしとふたりでな」


 ムーガはそう言って上を見上げた。木々のささめきのするほうを。その仕草は、森の匂いを嗅いでいるようにも見える。


「そいつはいい趣味だな。ここはいいところだ」


「そうじゃろう!」


 ムーガは嬉しそうだった。だが、それからすぐに声のトーンを落とす。


「そんな森を潰してまで調査がしたいんじゃと。この黒ローブの連中は」


「そいつはいけねえな」


 ベブルも同意見だった。



 森の中の地面は、影と光でまだら模様になっていた。涼しく心地よい風が通る。


 この森に住んでいたヒエルド。同じように、この森に住んでいたムーガの祖父、そしてムーガ。彼らに近い感覚を持ってるのかもしれないと、ベブルは思った。そういう意味では、悔しいことに、ここに研究施設を構えたデルンとも感覚が近いのかもしれない。



「本当は、あの子供らにも、ここで育って欲しいんじゃがな」


 突然、ムーガは言った。どうやら彼女は、この森の風景に魅了されて、ついうっかり、思っていることをそのまま口にしてしまったようだ。


 どの子供かわからないので、ベブルは訊く。


「子供?」


「あ? ああ。フグティ・ウグフには、わしが特別目を掛けている子供らがおってな。あやつらにも、こういう綺麗なところで育って欲しいと、ふと思ったものでな」


「お前、それでフグティ・ウグフに行ってたのか。『例の奴ら』を捜すのは、人目を避けてウィードに任せたってのにな」


 そう言われて、ムーガの顔が少しばかり紅潮する。


「う、うるさい。町に寄ったときには必ず会いに行くと約束してしまったんじゃから。文句でもあるのか」


 ベブルは溜息をついたが、少ししてにんまり笑う。


「別にねえよ。お前、案外子供好きなんだな」


「そういうわけではない。だが、案外とは何じゃ案外とは」


「いや、悪い悪い」


 そういう話をしているあたりで、ムーガは思い出したようにベブルに言う。


「そういえば、なぜ今日は黒ローブを着ておらんのじゃ? あれは『真正派』の証じゃろうに」


 ベブルは、ははは、と苦笑いする。


「実は俺、『真正派』じゃねえんだ。内緒だけどな。ついでに言うと、本当は学者ですらねえ」


「やっぱりな。じゃて、ここまで一度も、おぬしが魔法学者らしく見えたところはなかったもんな」


 ムーガは嘘をつかれていたというのに、嫌悪感を抱いている様子もなかった。


「まだ、魔法も全然でな。これから少しずつ勉強していこうってところだ」


 だが、ムーガの反応はあっさりとしている。


「いらんじゃろ、魔法。おぬし、拳だけあれば、どんな魔獣でも倒せそうじゃ」


「まあ、そりゃそうなんだがな」



 それからしばらく歩いた。大樹の木の根が張り出している。彼らはそれを跨ぎ、先へと進んだ。鳥が鳴いている。風が抜けていく。


 森の中を、ぞろぞろと塊になって歩いて行く人間たち。


 フィナはウィードやスィルセンダに話し掛けられているが、短い言葉を返して会話している。ウォーロウのときよりも遥かにましな、いや、素晴らしい反応だ。


 ベブルは隣を歩くムーガに言う。


「なあ、ムーガ」


「なんじゃ?」


「その言葉遣い、なんとかなんねえもんかな。ほらその……お前は折角アレなんだからさ、もっと相応しい喋りかたがあるだろ?」


 アレというのは、美人だということだった。そういうことを言うなといわれているので、彼は口に出さなかった。


 ムーガは不満そうに返す。


「うるさいのう。これは治らんのじゃ。もうかれこれ、二十一年間もこの喋り方をしておるとのう」


 二十一歳……俺よりふたつ年上かと、ベブルは話題に関係のないことを思う。そして彼は、わざと彼女の口調を真似てみる。


「いまからでも練習すれば、喋り方など身に付いてくるものじゃよ」


「真似するな!」


 ムーガは怒って大声で叫んだ。


「わりぃわりぃ。それに、現に、お前の従姉妹はちゃんとした喋りかたをしてるだろ。やたら丁寧だが」


 ベブルはそう言って振り返る。そこには、フィナとウィードとスィルセンダがいた。『真正派』の人々とボロネの人々は彼女らの更に後ろを付いて来ている。


 ムーガが反論する。


「それは、スィルは爺さんに育てられたわけじゃないからじゃ」

 

「じゃあ、誰に育てられたんだ?」


 ベブルはすかさず訊いてみる。ムーガは少し黙って、ぼそりと言う。


「……婆さんじゃ」


 ベブルは振り返る。


「なあ、スィル。お前の婆さん、どんな喋り方だった?」


 歩きながら、スィルセンダは思い出す。


「喋りかたですか? 割と普通でしたわ。ですが、わたくしの口調は自分で身につけたものですから。お婆様の言葉遣いがうつったわけではありませんわ」


 ベブルはムーガに言う。


「ほら、お前だってやれば出来るって」


 ムーガはぷいとそっぽを向く。


「別にいい。わしは、爺さんの喋り方が付いたままでいい」


 そこで、ウィードが口を挟む。


「ああ、ムーガさん。かなりのお爺さん子だったらしいですからね」


「……なるほど。死んだジジイの形見みたいなもんか」


「別に、そんなんじゃ……」


 ムーガがもごもごと言った。


 ベブルはムーガの肩を叩く。


「じゃあいいだろ。普通に喋ってみろよ。もっといいものを形見にしとけよ」


「なんじゃ。別にいいではないか。これを形見としても」


「よくねえよ。ジジイにしてみりゃ、折角の大切な孫娘の唯一の汚点だぞ、それは」


「ほっとけ」


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