第九章③ 仄かな星の光
日が沈んだ。
ベブルたちは街道沿いにあった宿屋を適当に選んで入り、そこで部屋を取った。男部屋と女部屋、ひとつずつだ。
宿の一階でムーガは人の目に付き、群衆に囲まれ、救世主と崇め奉られた。そこで彼女は人々に料理を沢山注文させた。早い話が奢らせたのだ。このおごりには、ベブルも参加して食べあさった。
ウィードとスィルセンダにとって、これは毎度のことにだ。ふたりも人々から食べ物を勧められていたが、階上の部屋に引っ込んだ。
フィナはというと、初めから静かに部屋に篭っているため、誰も彼女の存在自体に気付いてはいない。
昨日、今日と続く宴会。どんちゃん騒ぎをやるうちに、ムーガの『ベルド』への不信感は次第に薄れていった。まだ、完全ではないが。
真夜中、ベブルは目を覚ました。空気が湿っぽくて眠れなかったのだ。彼は部屋を出ると、階下へ降りた。
誰もいない。
ベブルは外へ出てみることにした。
未来の空にも、月は輝いているのだろうか。
ベブルが外に出ると、そこにはムーガがいた。彼女は宿屋の入り口横に積んである空箱に勝手に腰掛け、俯いていた。
「何してんだ、お前」
その声を聞いて、ムーガは一瞬びくっとした。そして、顔を上げ、声の主を探る。
ベブルは数歩、街道の方へ歩く。流石に、真夜中に走る馬車はない。
「夜中に起き出して、外に出て。いい女なんだから襲われても知らねえぞ」
「そういうの、むかつくからやめろ」
ムーガが言った。
「はあ?」
「いい女、いい女って言うな。そりゃ、自分でもそんなことはわかっとるわ。じゃがな、そうそう連発されると、馬鹿にされてるとしか思えん」
ベブルは口を噤む。そして、たとえ褒め言葉でも、そういう風に感じることはあるかと納得する。
「悪かった。もう言わねえよ」
ベブルがそう言うと、ムーガはまた俯いた。
何だよ、こいつ。ベブルは肩をすぼめる。メシ時には騒いでたくせに。急に静かになって扱いにくいな。俺がこれまでに見てきた女は、どいつもこいつも、朝から晩までぎゃあぎゃあうるせえ奴ばっかりだったのにな。……ああ、デューメルクは別か。
ベブルは訊ねる。
「どうしたんだ?」
「星がない」
ムーガは短く、そう答えた。
ベブルは空を見上げた。確かに、空は曇っていて星が見えない。月も見えない。
「そうじゃねえだろ。どこに、星が見えないからって落ち込む奴がいるんだよ」
ムーガは沈黙していた。
「いいけどな、別に」
ベブルはそう言い、更に向こうへと、街道の方へと歩いていこうとした。
「どこに行くんじゃ?」
「別に、お前には関係ないだろ」
堪らなくなって、ムーガが叫ぶ。
「いつまで、いつまで戦いつづければいい!?」
ベブルは立ち止まり、振り返る。ムーガは瞳は真っ直ぐに彼を捉えている。彼はその場から言い返す。
「そんなこと俺に訊くなよ! 酔っ払ってんのか? 酒飲みすぎだぞ」
「酔っ払ってなどいない!」
ムーガはまた叫んだ。
参ったな。酒乱の女か。ベブルは心の中で溜息を吐いた。酔っ払ってないって言う奴に限って、酔っ払ってるんだよな。
仕方なく、ベブルは戻ってくる。
「戦うってどういうことだ? 魔術師だろうが魔獣だろうが、テンパンにしてやりゃ二度と手を出して来ねえだろ。お前くらい強ければ……」
ムーガは首を横に振る。長い髪が揺れる。
「違う」
「じゃあ何だよ」
「わしは……『救世主』じゃから。アーケモスを厄災から護る、救世主じゃから」
ベブルは眉を顰め、首を傾げる。
「はあ?」
「わしには力があるんじゃ……。普通の人間が、誰も持っていない力が……」
ムーガは自分の手を、ぎゅっと握った。
ベブルが言う。
「そんなもの。俺にだってある。俺のこの腕には、尋常じゃない破壊の力が——」
ムーガは色をなして反論する。
「普通の力じゃない! だからわしは、救世主として崇められる。だがそれは、わしがアーケモスの平和を守りつづけるという前提の上にあるんじゃ!」
「ふん。だったらやめちまえよ。そんな紐付きの救世主」
「やめられない。やめられないんじゃ! これは、爺さんの遺言じゃから。じゃから、いずれ現れる怪物と戦わねばならん。それを皆は知っておる。だからこそ、わしを大切に扱ってくれる……」
「そんなジジイの遺言で苦しむんなら、さっさと捨てちまえ。ジジイは自分が死んだあとに孫を苦しませたかったのか? それとも何だ、その怪物が怖いのか?」
「どちらも違うわ! 爺さんを愚弄するな!」
ムーガは激昂し、立ち上がった。
「だったら、何を悩んでるんだ? 何で俺を引き止めて、話を聞かせた? 救世主ごっこを続ける自信がないのか? それとも、単に俺を引き止めたかったのか?」
「ふざけるな!」
ムーガはベブルの顔めがけて
不意に、宿の戸が開く。出てきたのはウィードだ。彼はムーガに言った。
「駄目ですよ、ムーガさん。夜中に大きい声を出しちゃあ」
ムーガは振り返ってウィードの方を見た。拳を握り締める。暫く黙っていたが、彼女は彼を押しのけて、宿屋の中に入って行った。
ベブルは腕組みしたまま、溜息を吐いた。
ウィードはベブルのほうに静かに歩いて来た。
「すみません。ムーガさんの愚痴の相手になって頂いて」
「……いつもは、お前が聞いてるのか?」
ベブルの問いにウィードは微笑んだまま頷いた。
「ええ」
「あいつが倒す怪物って、何なんだ?」
「誰も詳しくは知らないんですよ。ただ、予言されているんです。アーケモス全土を滅ぼす悪魔が現れる、と……。ご存知ないですか? アーケモス第三代大帝の予言ですが」
「いや、始めて聞いた」
「そんな方もおられるんですね。……もっとも、僕も以前はそうでしたが」
「なに?」
「いえ、何でもありません」
ベブルはウィードをじっと見ていた。それに気付いたウィードは、苦笑いする。
「ベルドさん、もう寝ましょう。寝ないと、明日、ディリムから落っこちてしまいますからね」
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