第五話 青空の下で
ついに、その日が訪れた。
三日間にわたって行われる中学校陸上競技大会。その初日に、走り高跳びの競技は行われるらしい。開会式が終わってかなり経つけど、目的の競技がはじまる気配はなさそうだ。受付でもらったさわやかな緑色の開催プログラムに目を落とし、時間を確かめた。
――ここであいつは、あのひとに認めてもらうために跳ぶ。
どうして、ここに座っているのだろう。
市の陸上競技場、観客席。屋根もなく、コンクリートのブロックを階段状に積み上げただけの造り。年季が入っているというより、古いだけ。下の競技場との間には、胸の高さくらいあるコンクリートの壁がある。乗り越えようと思えば簡単にできそうだ。その壁の近くには、応援するために陣取る子たちがいた。トラックを走っている選手に声援を送るのに、都合のいい場所なのだろう。
走り高跳びの競技がはじまったら一番みえやすそうな位置に腰を下ろしている。他の女のために跳ぶ彼なんかみたくない、そう思ったはずなのに、それでも来てしまった。そういえば、大翔にひと言もいっていない。本心は複雑だが、それでもがんばれといいたかった。絶対跳べる、と声をかけてあげたい。やれるだけの努力をしてきたのだから。
取り出した携帯電話で時刻をみる。競技開始まであと三十分。
直前でも選手とは話せるらしいが、どうしよう……。
逡巡しながらも立ち上がったとき、あるひとをみつけた。
「朱里さん!」
思わずつぶやき、慌てて口を押さえた。
一列離れた右手側に、朱里さんは一人、座っていた。白いパーカーに日よけの帽子をかぶる彼女は、わたしには気づかず、トラックを走る選手たちに目を向けている。彼女の長い髪が風に揺れる。こちらを振り向きかけた瞬間、走り出していた。
どこへ?
――大翔のところ。
どうして?
――朱里さんが来たことを、彼に教えなくちゃ。
自問自答の果てに出てきた答えに驚き、立ち止まった。
どうしてそんな必要がある?
そんなことをしても、あいつをつけあがらせるだけじゃないか。
大翔になにをしてもらいたいの?
図書室からみたあの光景が、脳裏に浮かぶ。好きなひとにも振り向いてもらえず、目標にも届かない。でも、ひょっとしたら、今日は跳べるかもしれない。跳んでしまうのが怖かった。わたしをみてくれないことが悔しくて、腹が立つ。それでもあんなにがんばってきたのだから、なにかしらの報いがあってほしかった。
――あぁ、そうか。
腑に落ちると再び走り出す。
なんとなくだけど、求めているものがわかった。
跳ぶあいつがみたいのだ。
たとえ、失うことになっても。
ランニング姿の群れが目に入る。大翔は場内の入り口近くで悠一郎たちと話していた。
わたしは彼をみつけるなり、「ちょっと来て!」無理やり腕を引っ張る。
「なんでお前がここに」
「いいから来い!」
有無をいわさずその場から引き離した。まわりにいた子たちは振り向くけど、かまっていられない。
みんなから離れたところまで来たとき、大翔に腕を振り払われた。
「いてぇな、なんなんだよ。もうすぐ競技はじまるんだぞ」
眉間に皺を寄せて睨むあいつにつめよる。
「なんだよじゃない。朱里さんが来てる!」
「まじ?」
観客席の方をみようとする彼を、両手で押しとどめ、いった。
「聞いてよ。わたし、あんたが好き」
大翔が目を見開く。
唇を湿らせて続けた言葉は震えてしまう。
「朱里さんに認めてもらうためっていうのはむかつくけど、自分がやれること全部だして跳んでほしいの。後悔しないように、最後の大会なんだから」
そしてできるなら、自分のために跳んで。
尻すぼまりな声を、黙って聞いてくれた。
やがて、ぽつり、と彼はつぶやいた。
「はじめから……自分のために跳んでるよ」
「えっ?」どういうことなのか、意味がわからない。
「オレの告白、朱里さんはぜんぜん本気にしてくれなかった……いまはちょっとは違うかもしれない……いや、わかんない、してないかもしんないけど、だから、必死になってなにかやれば、とりあえずわかってくれるかもって思ったんだ」
「じゃ、跳ぶのは大翔の自己満足なの?」
「ちょっと違う、けじめかな」
「けじめ?」
彼はうなずいて、「オレが本気ってことを、わかってもらうためっていうか」頭をかいた。「跳んだらつきあってもらえるかもしれない、なんて都合のいいこと考えちゃいない……っていうか、無理。断られるってわかってる、わかってるよ。だからさ、だからなんだけど」
伏せ気味だった顔をあげ、わたしをまっすぐみた。
「オレという人間の、誠意をみてほしいんだ」
あんたの誠意ならちゃんとみてる、わかってるよ。そう思っていても、わかっているから口にできない。変わりにいえたのはたわいもない返事だけ。
「そっか」
思わず笑みを浮かべる。大翔も笑い、表情を引き締めた。
「いまだに本気にされてないけど、オレは朱里さんが好きだ。だから……お前のことは、そういう風には、思えない」
うん、それも知ってる。わかってる。
止まらない胸と鼻につんと来たものを隠し、わたしはまた笑った。
「跳びなよ」
名前負けするなよ。
「跳ぶさ。……ありがと」
走り高跳びの競技がはじまるアナウンスが聞こえてきた。
背を向け、大翔は離れていく。わたしは目をそむけた。うつむいて、自分で自分を抱きしめ、それから顔を覆った。涙をこらえているうちに、大翔の名前が聞こえた。
ここからでも彼が跳ぶところはみえる。
ついに、目標にしている一七〇センチのバーに挑むときがきた。あんなに速くてはバーと衝突するのではないかと思った瞬間、彼は片足を踏み切り、宙に浮いた。青空と向き合う姿が、くっきりと浮かび上がる。
わたしは目を見張り、その光景をみつめる。
胸の鼓動だけが、ゆっくりと響いていた。
もうなにもいらない、望まない。目に焼き付けたのは、一瞬の、あの光景。
大きくはばたく姿が、にじんでみえた。
終わらない季節 snowdrop @kasumin
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