第7話 シーナの手紙。


 剣聖ユキナが幼馴染の男の子がいない事に気付いたのは、宴が始まってすぐの事だった。


 来賓席のつもりなのか、用意された粗末な長机に座らされた彼女は村の広場を見渡し、地面に座り楽しそうにしている騎士達を眺めて探したのだ。


 生まれた頃から過ごした見慣れた故郷の筈なのに知らない場所のようだった。


村の皆は食事や酒に手を付けず、立ったままニコニコと笑顔を貼り付けて給仕してくれている。


 なんだかその光景が不思議で、あの人はあんな笑顔。普段しないのに、とか考えてしまう。


 だけどこの半年。旅の最中に訪れたどの街や村に行ってもそれが当然だったから、やっぱりあの笑顔は嘘で、無理に作っているのだろう。


 皆、気を遣っているのだ。

 平民と貴族は、やっぱり違うんだと改めて実感した。



 貴族の人がいれば酒を勧められたり、冒険の話を聞きに来るくらい。


 近寄って来る子供達も身なりが良い者ばかりで、キラキラした目をしながらも礼儀は弁えた貴族の子だけ。


 平民である筈の自分なのに、平民の者は助ければお礼を言ってくれるし笑顔を浮かべてくれるが、なんだか一歩。いや、何歩も引かれている気がしていた。


 それがなんだか、とても嫌だと思う。


 私は確かに剣聖に選ばれて、教育も受けた。

 いつも綺麗なものばかり着せられ、身なりや仕草を注意されてもいる。

 だけど、根本は何も変わらないのに、と。


「どこにいるの、シーナ……」


 素の自分で、思わず呟く。

 偽った自分に、かつて仲の良かった村の皆ですら、偽った笑みが向けられている。

 この一年、彼女の周りは嘘だらけだ。


 嘘は、彼が。大切な男の子の母親が、最も嫌うものだった。


 だから、シーナなら。

 あの幼馴染の少年なら、今の自分にも気を遣わず、昔のままで居てくれると信じて居た。


 彼なら、ありのままの姿で接してくれると、思って居たのに。

 言葉を交わした彼は、他の平民。

いや、平民と言う呼び方はここでは良くないと首を振る。

だがシーナは、他の皆以上に驚く程変わってしまっていて……。

 嘘どころか、全く興味がないと言う瞳を自分に向けてきた。

 あの瞳は、英雄剣聖には勿論。一緒に育った幼馴染にも、好きな人にも向けるべきではない、酷い暗闇だった。

 活躍してますね、成長してますね。

 そう言った彼の言葉は本当の事だから嘘はではないが……ユキナにはわかった。


 あれは、褒めたのでは無い。

 だから何? といったあの声音。

何故今更帰って来た、とでも言わんばかりの迷惑そうな雰囲気。


 お前は誰だ。

 話し掛けるな。


 そんな、突き放すような冷たい声。


突然離れ離れになり、何もわからない。誰も知らない。優しくはしてくれるが、本心で接してくれない場所で、一人。

寂しくて寂しくて、それでも必死にもがいて、努力して教養と力を付け、四天王と呼ばれる魔人らしき一体を打ち倒した。

人類の英雄として必死に戦って生きて、運も重なってやっと帰って来た。

 そんな自分に、幼馴染に……恋人に。彼は、頑張ったね、も。お帰り! も言ってくれなかった。

 それどころか、今更何しに来た? と告げたのだ。


 そんなの、酷過ぎるでは無いか。

 何の為にこんなに頑張って……!


 お願い女神様。何かの間違いだと言ってください。

 ユキナは、湧き出そうになる涙を必死に堪えていた。

 そして、偽りの笑顔を浮かべたまま、願っていた。

 今の彼女には、好きな時に泣く自由すら与えられていなかった。

 ガチガチに固められた規制と重い責務が、華奢な肩にずっとのし掛かったままなのだ。


 だけどせめて、せめてもう一度だけ。

 叶うなら、二人きりで話したいと目が勝手に探してしまう。

 それなら、誰の目も気にせず、昔のように話せるからだ。


 聞いて欲しいことが沢山ある。

 謝らなくてはならない事がある。

 私は確かに裏切ったけど、今でもあなたを想っている事を。

今は立場があり住む世界も変わって、一緒に生きられなくなったけど、変わらず仲良くいて欲しい。

 今の自分を癒せるのは勇者様だけになって、彼の前だけ気を抜く自由を与えられている。

 だからもう、貴方の前ですら態度も言葉も崩せなくなってしまった事も伝えて、謝りたい。

 上手く言えないかもしれないけど、話したい。

全てが。女神様に選ばれた英雄としての責務さえ果たせば、旅をする必要は無くなる。


そうしたら幼馴染として、王都に住んでください。

私の大切な人として、いつでも会いに行ける場所に居てください。

 そう伝えたかった。


 伝えたいのに……。


 本当に小さな村の中なのに。

 一年前まで、自由に走り回って、いつも一緒に居たのに……。

 今はとてつもなく広く、遠く感じる。


「あれ、シーナくんは?」


 勇者様が気付いて、周りを見渡している。

 傍に立って居た村のおばさんが一歩前に出て、深く頭を下げた。

 ユキナにとって不運だったのは、頭を下げた先に自分が居た事だ。

散々世話になった人のそんな姿、見たくなかった。

 堪えようのない感覚にユキナの顔が歪む。


「はい、シーナなら用事あるらしいからいないです」


 必死に丁寧にしようとしておかしくなった言葉が、更にユキナの胸を刺す。

 こんなの沢山聞いているから、勇者様は勿論。誰も笑わない。

 平民は自分達より劣っているから、おかしな言葉を使う。

 聞き取れるなら気にしないのが上の者の度量。

 王城で勉強させられ、そう言われた時。吐き気がしたのをユキナは覚えていた。

 同じ人間なのに優劣があるものか、と。


「ふーん、いつ終わる予定だい?」

「たぶ……こほん。恐らく、来ないかと思います。ホントに忙しいので」

「えー、それはつまらないな。駄目、呼んできて? これあげるから」


 おばさんに袋を渡す勇者様。

 訝しげに手を出した彼女の掌に載った瞬間。それはジャラ、と重そうな音がした。


「ね? お願い。是非話をさせて欲しい。この村、僕等と歳が近いの彼しか居ないんでしょ?  ユキナから良く出来た幼馴染だって色々話を聞いていてね。興味があるんだ」


勇者様は微笑み、お願いした。

 途端。渡された袋に視線を釘付けにして固まって居たおばさんは、


「は、はぃ……!」


と、慌てて頷き小走りで走って行った。

……本当にに嫌なものを見た。

 あんな姿、見たくなかった。


「良かったね、ユキナ」


 不意に隣に座っていた賢者ルナに肘で突かれ、からかわれたユキナは顔を真っ赤に染めた。


「や、やめてください。それとルナ様。口調、崩れてますよ……っ!」

「ええ〜? いいじゃない。こんなちっさな村で、口煩いのも聞かれて不味いのも居ないしねぇ?  大体同じ勇者パーティーで女の子だけこの喋り方って、酷いと思うわ。勇者様はすっごい気楽なのに」

「で、ですが……!」


 咎めようとするユキナの耳に、ルナは耳を寄せた。


「あんたも意地張ってないで、ちゃんと決着つけとかなきゃ取り返しが付かなくなっても知らないから。私は世界救った後のことまで考えてるからね。あんたはまぁ、後ろ盾も無いし。そのまま勇者様に貰われて終わりでしょうから、それで良いかもしんないけど」


 言われて、ユキナは目を見開く。

 ふんふん、とルナが自分の耳を指差した。

 近付けろ、という意味らしい。

 一応勇者の方を見ると、弓帝ルキアの頭を撫でて甘やかしていた。

 小柄な少女である弓帝は気持ち良さそうに目を細めている。

 大丈夫そうだ。と思ったユキナは、迷わず口をルナの耳に近づけた。


「ル、ルナ様は全てが終わったら、居なくなられる、のですか……?」


 尋ねたい事を正直に漏らす。

こんなのを勇者様が聞いたらなんと言うか、と慌てて盗み見るが大丈夫だった。

 まだ気づかれて居ないらしい。


 今度はルナが近づけて来る。


「当たり前でしょ……私は賢者だからここに居て、あいつのスキルの為に仕方なく色々付き合ってるだけよ。 じゃなきゃ、なんであんなへんた……っ! んんっ」


慌てた様子で咳き込み、賢者ルナは背筋を伸ばす。

 見れば、勇者が酒瓶に手を伸ばしていた。

 ユキナは慌てて手を伸ばし、酒瓶を取った。


「シスル様。お注ぎさせて頂きます」


「あ、そう? ありがとう、ユキナ。いやー、あの人行かせちゃったから、注いでくれる人いなくなっちゃってさー。助かるよ」


 ニコッ、と向けられた笑みにユキナは頬を赤くする。


 やれやれ、と賢者ルナは首を振った。

勇者シスルが差し出した杯にユキナは少し緊張しながらゆっくりと酒瓶を傾け中を満たした。


「ありがとう、ユキナ。あ、お礼にこれ。食べさせてあげようか?」


「け、結構です。当然の事をしたまでですから……」


「そう? あぁ、ユキナは食べ慣れてるもんね。ここの料理。僕はあんまり口に合わなくてさぁ……」


「あ、はは……」


 愛想笑いをそこそこに、ユキナは視線をルナに向けた。

 少し怒ったような表情だ。何してんの? とでも言わんばかりである。

 同時に、呆れられている様に見えた。


 ユキナはそんな彼女を見ながら、考えた。


(ルナ様が、世界を救ったら居なくなるなんて……どうやって? ルナ様はシスル様の一番のお気に入りですし、正妻となられる事が決まっているお方。絶対に離してくれないでしょうに……いや、確かにシスル様は少々変態ですけど……!)


初めて純潔を捧げてから半年。何度も務めた夜伽の事を思い出し、またユキナは茹で上がった。

 シーツを握りしめて、はしたなく嬌声を上げる自分は、第三者が見たらどう思うだろう。


 (見られたら、死ぬ……特にシーナには絶対に見られたくないなぁ……)


村に到着してすぐ。今晩は可愛がってあげる、と言われた事を思い出しユキナは肩を落とした。

今晩泊まるのは生まれてから成人するまで過ごした自分の家だ。当然、両親も居る。

更に隣はシーナの家だ。

互いに家は粗末で小さな木造で、相当古い。常に隙間風や雨漏りが絶えないのは当然だ。

少し大きな声を出せば容易に聞こえてしまう。


(本当はシーナにあげて、シーナだけに見せる筈の身体だったのに……シーナ、絶対怒るよね……)


幼い頃、何度かシーナが自分に怒った姿が脳裏に浮かぶ。

特に村へ到着したばかりの時の態度が一番鮮明に出てきた。


(パパとママ、やっぱり話したんだろうなぁ)


お前はもういらない。

そう告げているような冷たい雰囲気を纏っていたシーナの様子に心当たりがあり、ユキナは目を伏せた。


「まぁ、今日は君の故郷だし楽しんでよ。それにしてもシーナくん遅いなぁ。何してんだろ……」


 勇者が明後日を見た瞬間、ユキナの耳元にルナが口元を寄せた。


「そう言えば、あんたの幼馴染。かなり良い男だったわね?  平民なのに言葉遣いも綺麗だし、それなりに教養があるみたい。何よりあの綺麗な顔。シスル様に全然負けてないじゃない。身体はちょっと細過ぎで背もあまり高くないけど……その割には結構逞しい感じしたわ」


「……お分かりになられますか」


ふふん、とユキナは鼻を鳴らした。

やはり自分の幼馴染は格好良いのだと改めて認識したのである。

元々貴族で自分と根本から価値観が大きく違い、いつも見習えと言われている女性が認めるなら、疑う要素など皆無だった。

何故ならルナは賢者。世界で一番賢い女性なのだから。


「えぇ。あんな平民、見た事ない。あれは数年後が楽しみね。今より絶対、何倍も良い男になるわ。世界救った後でもフリーだったら、私が貰っといてあげる。良い執事になるでしょうし」


「えっ? はっ……ちょっ! ルナ様……っ!」


 慌てて叫ぼうとすると、ルナが口元を塞いできて、しー! と指を立てる。

 村人達は何人かその姿を見ているのだが、ユキナは本当に剣聖で、貴族と立場が一緒になり仲良くなったんだなぁ、くらいに考えていた。

もう、自分達とは違う存在なのだと。


 ルナがまた、ユキナへ口元を寄せる。


「それが嫌なら、ちゃんと話しなさい。なんでも勇者の言う通りになってたら、本当に一生自由ないわよ? 剣聖さん。ま、あんたにはそれがお似合いかもしれないけどね。おにんぎょーさん?」


 馬鹿にされた様な口振りに、ユキナの頭にかぁ、と血が昇った。

 腰の剣に触れば剣聖のスキルが発動して、いつでも仕返し出来るんだぞ思いながら、意地悪な笑顔を睨み……。

ユキナはすぐにしゅんと肩を落とした。


 彼女の言う通りだからだ。


 剣聖。

 そう言われて皆から親しまれ、尊敬され、信用され、願われている。

 そんな自分だけど、実際は人形と一緒だ。

 綺麗な洋服と立場を与えられ、美しく振る舞う。

 同じく与えられた筋書きの上を踊らされ、偽りの幻想を国民に抱かせている。

そして命令があれば、顔も知らない誰かの為に命を賭けて戦う。

 それが生きた伝説になったユキナの仕事だった。


(……皆が欲しいのは私じゃなくて、剣聖の職業と力)


改めて自分の現状を認識し、ユキナは拳を握った。


 そんな自分を、変えたい。

ずっとそう思っていた。

 ふと、ユキナは今がそのチャンスなのではないかと気付いた。

と、急いでルナの耳に口を寄せようとして、ユキナは唇に指を添えられる。

 軽く首を振った賢者ルナは、ウインクを一つして手を離しグラスを持って明後日の方向を向いてしまった。


『もうヒントはあげない。だめ、終わり』


ルナは、そう言った気がした。

眉を寄せたユキナは構わず口を寄せ、 意地悪しないで下さいと言おうとして……。


「ユキナ、もう一杯」


 差し出された杯に慌て、ビクッと跳ねた。

身体を振り返らせれば、杯を差し出しているのは当然。勇者シスルだった。

 だからユキナは一度息を吐いて落ち着いた後。優雅な仕草で酒瓶を取り、精一杯の笑顔を。


「はい、シスル様。喜んで」


偽りの仮面を被ったのだ。





 暫くすると、宴会が終わった。

 当然片付けは村人達の仕事なので、勇者シスルが締めの挨拶をして解散の運びになった。

 村の宴会で片付けしなくて良いなんて、ユキナは初めての経験だ。また不思議な違和感を感じた。


「あ、ええと……ほら、あんた。早くしな……っ!」


「あ、あぁ。こ、これからユキナ様の……勇者様方にお泊り頂く家にご案内致します。こ、こちらです」


 ペコペコしている両親が、勇者パーティーを先導している。

 自分の両親までが勇者や他の皆だけでなく、実の娘にまで様付けで敬意を払っているのを見て、


(や、やめて……パパ、ママ! ユキナ様なんて、言わないで……っ!)


一瞬でユキナは泣きそうになった。

 それも、この村に来て最初。一年振りの再会がこれだ。

 朝に到着してから時間があった筈なのに、二人は遠巻きにユキナをずっと見つめていた。

 気付いて少し手を振れば、二人は自分の娘に手を振られただけなのに、そわそわしていた。

 近付いて文句を言いたくなったが、勝手な行動は許されていない。

 他の人に何を言われるか分からなくて恐かった。

 自分の故郷で、生まれ育った場所。何も変わらない風景なのに、やっぱり自由がない。

 折角帰って来たのに、その事がユキナを更に苦しめただけだった。


「結局。シーナくんは見つからず、だっけ? ちょっと無礼じゃないかなぁ……? 勇者一行だよ?久々に会う幼馴染の元恋人だよ? 普通来るでしょ?  ったくぅ」


「まぁまぁ、シスル様。落ち着いて……」

「シスル様、はしたないですわよ」

「シスル、うるさいですわよ」


「全員で言わないでよ……」


 パーティーメンバー全員に指摘されて、勇者シスルはつまらなさそうにしていた。

 ユキナはそんな彼と、にこにこ笑みを浮かべている賢者ルナを見比べた。


 私もルナ様みたいに、少し我儘になるべきなんだろうか?


 考えてみるが、すぐそれは駄目だと頭を振る。

 彼女は貴族令嬢で、自分は平民。

 確かに有名度で言えば勇者に次ぐ剣聖だが、履き違えては駄目なのだ。

 英雄の一人で共に旅する仲間と言っても、身分の差があるのだから。


(だけど、なんでシーナは来てくれなかったんだろう……本当に私の事、どうでも良くなっちゃったの? 確かに、私はシーナを裏切った。急に居なくなって、寂しい思いをさせたかもしれない。シーナにあげる筈だった始めても、勇者様にあげちゃったし……今は勇者様の婚約者。 これからも一緒に居れない。昔みたいに二人きりで笑って生きるなんて出来ない。シーナのお嫁さんにはもう……なれない。今は立場も力も違う。私は剣聖でやらなければならない使命があるし、シーナは見た目は綺麗だけど普通の平民だから。だけど、それは。それは全部、全部……元を辿れば剣聖の職と魔人達のせいであって、本当の私は……! 私の気持ちは……!)


「こちらが、我が家でございます。ささ、どうぞこちらへ」


 父親の声に、はっとしたユキナは顔を上げた。

目の前にあるのは、一年前まで住んでいた自分の家。

古く小さな、木造の一軒家。


(あぁ、私の家だ。やっと……やっと帰って来た!)


 ユキナは感慨深く思い、深く息を吐く。


(……本当にまだ、帰ってないんだ)


 だけどそれより、シーナの家が真っ暗なのが妙に気になった。


「成る程、これは古いな。あぁ、ユキナ。シーナくんとは、確か家も隣同士だったね」


 ユキナの反応を見ていたのか、勇者シスルはニコッと笑いながら言う。


「え、えと……は、はい。そうでございます」


「そっ。なら……どうやらまだ帰ってないみたいだから、帰って来たら二人で行こうね」


「……はい」


 途端、ユキナは表情を深く沈ませた。

 あぁ、遂に言わなければならない。

 彼が帰って来たら、あの言葉を。


 私はもう、あなたを好きじゃない。

 私と貴方では、既に住んでいる世界が違う。

 私は剣聖で、貴方は唯の平民。

 どう見ても釣り合わないのだから、別れてください。


 勇者と一緒にシーナに会って、言えと言われた言葉を思い浮かべる。

 これを言ってしまったら、シーナはどんな顔をするだろう。

 もう会うこともなくなってしまうだろう。

 ユキナの胸が、強く酷く痛んだ。


(やだよぉ……! 少しで良いから、二人きりで話したいよぉ……!)


 それも叶わない事に、ユキナは絶望を覚え……、


「あれ、なんだこれ」


 不意に父の声を聞いた。

 見て見れば、父が手に何か持っている。

 それは、封筒だった。

 ユキナはそれに、身に覚えがあった。

 この村に唯一売りに来る封筒で、彼が短い期間だったが、送って来てくれていたものだ。


「あっ、あ……っ」


 駄目だ、はしたない。

 戦闘中以外で走ってはならない。

 そう言われて来て、必死に守って来た躾が。枷が。ユキナの身体をぐるぐる巻きにしている鎖が、その瞬間だけ。


「ん? なにそれ……」


「私のですっ!!」


 勇者の言葉を遮るのは、初めてだった。

 更にこんな夜中に。いや夜中でなくても、戦闘以外でこんな声を張り上げたのは、いつ以来だっただろう。

 昔はこの隣の家で、毎日大声で笑っていたのに。


 全員が驚いた顔でユキナを見る。

 ユキナは形振り構わず小走りで掛けると、父の手から手紙を奪って家に入った。

 階段を駆け上り二階へ行って、自分の部屋に篭りマッチで蝋燭に火を灯す。

 一年振りの自室の中など、どうでも良かった。

 封筒を裏返したユキナは『ユキナへ、シーナ』と抱えた文字を見て、震える手で封を切った。


「はぁ……」


 開く前に、一つ深く息を吐き出す。


 そして、ゆっくりと丁寧に開いた。


『拝啓、ユキナ様へ。


 シーナです。

 約一年ぶりの再会、大変嬉しく思いました。

 お恥ずかしながら告白しますと、久しく会っていませんでしたので、最初誰だかわかりませんでした。

 それは貴女の愛らしさに美しさが備わり、内から滲み出た気品が、私にそんな幻影を見せたのでしょう。

 さて、私はと言いますが、もうこの村には居ません。

 朝に申しました通り、私は冒険者になろうと思います。

 明日の朝、出立の予定でしたが、ユキナ様の御尊顔を一目拝見し、あぁ。私の役目は終わったのだな、と痛感致しました。

 なので、これ以上貴女様のお傍に居ることはご迷惑になると、勝手な浅慮をさせて頂きます事をお許し下さい。

 誠に失礼かと存じましたが、私は貴女様のご両親に、貴女の近況を拝聴させて頂きました。

 そして、あぁ。やはり、釣り合わなかった。と諦めました。

 ご存知の通り。私は幼い頃から、ユキナ様。貴女様だけを愛して居ました。

 身の程を弁えていなかった事は、まだ幼子だった頃から、存じているつもりでした。

 なのに私は、貴女様とたった二人きりなのだから、当然一緒になれる。自らの手で貴女様を幸せにしてあげられる。貴女様の笑顔だけがあれば、こんな何も無い村でも楽しくやっていける、と頑なに信じておりました。

 ですが、やはり貴女様は私という器に入りきるものでは無かった。

 剣聖に選ばれ、連れて行かれた貴女様を見たとき、私は必死に手を伸ばしました。

 ですが。私の未熟な手では貴女様の手を取れる事はなく、当然のように意味もなく、その手は宙を切りました。

 あの日、私の中の貴女様は……いや。俺のユキナは死んだんだ』


 ユキナはそこまで読んで、目を見開く。

 途中まで丁寧過ぎて、誰が書いているのだろう。

 これではまるで、貴族同士の手紙や書類だ。

 だけど内容が……とユキナは混乱していたのだ。

 その一文だけで、ユキナの涙腺は決壊した。


「待って……」


『ユキナ、好きだ。ずっと好きだった。でも、君は俺を裏切ったね』


「待ってよ ……っ!」


『昔から言っていたよね、俺は一度裏切られたら、二度とそいつを信じないって』


「お願い……っ!待って!」


 駄目だと分かっているのに、涙で視界がぼやけて読みにくく、手紙が濡れていくのが分かっているのに。


『だからユキナ。俺はもう、君を信じない』


「やめて……っ!」


 これがあの日の続き。

 ユキナが書いた、シーナへの最後の手紙の返事で。


『本当にずっと好きだった。好きだったよ、ユキナ。だけどもう、だった。過去だ』


「やめてよぉ!」


 彼からの、最後の手紙だと理解出来た。

 もう読みたく無い、読みたく無いのに、手と目が離れない。


『結論から言うよ。ユキナ。君は手紙に、別れてください。そう書いたらしいね?

でもごめん……その答えは、ノーだ』


「えっ……?」


 どういう事だ?

 許してくれるのだろうか。

 彼はまだ、自分の事が……


 淡く抱いた期待は、次の一文であっけなく崩される。


『俺からの答えは……全て無かったことにしてください、だ』


「え……っ?」


 ユキナの頭が、真っ白に染まった。


 これ、なんて、かいて、あるの?


『剣聖ユキナ。君と一緒に生まれた。育った。遊んだ。笑った。泣いた。慰めた。結婚の約束をした。そんな幼馴染は、最初から居なかった事にしてくれないか?』


「へ……? ま、待って」


『君もその方が都合が良いだろう。勇者の恋人で、剣聖で、美少女で。世界を救った平民の少女は、勇者様と結婚して幸せになりました。これで良いじゃないか』


「ま、待って! 待ってよ! シーナっ!」


 この手紙は、酷い。

 ユキナには思わず叫び続けてしまう、悪魔の手紙だった。


『ていうか、ぶっちゃけ。君の英雄譚が語り継がれるとしたら、それに一文だけ幼馴染。みたいに入るのすら嫌なんだよね。マジで。それくらい君と関係を切りたいんだよ。分かる? あんな可愛くて強い剣聖の幼馴染とか、いいなぁ。みたいに言われるのすら嫌な訳。正直、関わり合いたくも声を聞きたくも話す気なんてこれっぽちもないわ。 君と俺は全く関係ない人間、これでおしまい。いいな?』


「は、ぇ……ぁ……えっ……」


『だから気兼ねせずに、勝手に世界でもなんでも救ってとっとと幸せになってくれ。俺は俺で、幸せになるからさ。もうお前くらい可愛い子はうんざりだ。疲れる』


「ま、まって……! しー、な。や、めて……そんな事、いわな」


『ああ、もし偶然見かけても話し掛けないでね、剣聖な私に話し掛けられる凄いっ! とっても光栄っ! みたいに思ってるかもしれないし、実際話し掛けられたい人もいるだろうけど言っとく。あれ、実際やられると凄い迷惑だと思う訳よ。少なくとも俺はうざい。正直好きでもなんでもない相手に話し掛けられてもしゃーないし、変に注目集めるの嫌だからそこのとこよろしくな』


「は、はなし、かける、のすら……っ」


『じゃあ、そういう事で。いやー、良かった。いきなり村に来たのも俺を直に振って勇者の美談にするつもりとか、そーんなしょうもない理由だと思うから先に振ってやるわ。ざまぁみろ。村人に振られた剣聖とか前代未聞過ぎ! まじざまぁみろぉ!』


「ちが……っ! 私は、そんな!」


そんな事、思ってない。

そう言いたくても、言えなかった。

実際振りに来たのは本当なのだ。ちゃんとお別れして、私は勇者様と幸せになりますと言うつもりだった。

だがそれは、シーナも新しい人生を歩んで下さい。私に縛られないで下さいという想いを込めるつもりで……。


(……シーナは全部、お見通しだったんだ)


昔からそうだった、とユキナは唇を噛んだ。

何か悪戯をしようとしても、意地悪をしようと考えても、シーナはその全てを見破り逆に泣かされた。

今回のこの手紙も、そうだ。


(私はまた、シーナに泣かされてる。やっぱり、敵わないなぁ……)


また自分は、意地悪な事を言おうとした罰を受けたのだ。

そしてこれは、本当に最後なのだと認識させられた。


『って言えるくらい割り切れたら簡単なんだけどな』


「ひっく、ひっぐ……し、しーな?」


 幼馴染からの大分酷い言葉の暴力に泣きじゃくって居たユキナは、手紙の最後の一文に目を止めた。


(まだ続きがある……!)


 気付き、ユキナは慌てて紙を指で擦る。

 思った通り、二枚目が出て来た。

 インクが乾かぬ内に重ねて畳んだのだろう。くっ付いてしまっていたのだ。


『最後に。ユキナ……俺はまだ、君が好きなんだと思う。

 でもさ、お前といた時間。ずっと違和感はあったんだ。俺らは、間違いなく釣り合ってなかった。今はもう、誰が見ても明らかだ。だから、君の言う通り、別れよう。  

 そして、幼馴染なんて居なかった事にしてくれ。俺は、君の存在すら忘れるつもりでいる。既に君から貰った物は、全て破棄したから悪用もしない。安心してくれ』


「な、なんれ……? やだ、やだよぉ……っ!」


 ユキナは、この口調。優しく諭すような言葉使いを知っていた。

 幼馴染が本気で話している時の喋り方だった。

 つまりこれは、全部守るつもりでいるという事。

 これが聞きたくて、この村に来たのに……大好きな幼馴染の言葉が、刃のように突き刺さる。


 本当に彼は、他人になるつもりらしい。


『ユキナ。君にとって、俺の存在が邪魔に感じる時がきっと来る。だから君も俺を忘れて、素晴らしい剣聖になって世界を救い、後世に名を残し、勇者と幸せになってくれ。それを風の便りで聞くのを、待っている。

俺は俺で、幸せになれるように頑張るよ。冒険者として、お前が救おうとしている世界を旅する。自分の目で色々見て、感じて。立派な男になる。

だから俺の事は気にせず、頑張れ。

絶対死んだりするなよ。出来れば怪我もしないように、注意しろ。お前結構抜けてるから、心配だ。

まぁ側には勇者様達が居るから大丈夫か。

じゃあこの辺で。



 さようなら、愛しい人よ。


 シーナ』


 読み終えて、ユキナは呆然とした。

 便箋は既にぐしゃぐしゃで、目尻からは涙が溢れて溢れて仕方なかった。

 これで、本当に終わりらしい。

 一年も会えなかった幼馴染は結局、その声を聞かせてくれないまま、居なくなってしまった。


 変わったと思った彼は、変わって居なかった。

 あの態度は本性を隠してまで、自分に嫌われようとしたからだろう。

そして、邪魔にならないように去ったのだ。

だがその前に……幼馴染として。恋人として、この手紙を書いてくれたのだろう。

最後の最後まで、彼は……自分を剣聖ではなく、ユキナとして接してくれたのだ。

彼は最後まで、剣聖ではなく自分を必要とし、大切にしてくれた唯一の人だったのだ


(やっぱりシーナは勇者様と……皆と違う! シーナは本当に私を愛してくれてたっ!)


今更過ぎる事実に気付いて、ユキナは自らの愚かさを悔やんだ。

世界中の誰もが自分の持つ【剣聖】を必要とする中。

幼馴染の恋人だけは、【剣聖】なんて必要ない。俺は君が好きだったと言ってくれた。

そして自分は、そんな男の子を裏切ったのだと……悔やんだ。


 一年前は、自分だった。


 そして今度は、シーナが消えた。


 それだけの、事なのに。




 シーナの消えるは、永遠に帰ってこないと言う意味だった。


 俺の中のお前はもう死んだ、と言われた。


 (私は、ここにいるのにっ!)


 ユキナは思い出した。

 今朝。何故言葉を交わした彼の目が、あんなに冷たいものだったのか。

 それは……ただ嫌われる為という目的だけでは無く。


 心の底から彼が、自分を他人だと認識してしまっているからだ。


(……もう私。シーナの幼馴染でも恋人でもない、知らない他人で……!)


「そ、そんなのやだぁぁぁああ!!!」


 気付けばユキナは、神剣を引き抜いて部屋を飛び出して居た。

二階の窓から飛び出したユキナに玄関先で立っていた者達が気付く。


「ユキナッ!? どうしたんだっ!」


「っ……! 僕が追いかける、皆は追いつけないだろうから、来ないでっ」


 剣聖のスキルを使い、風のように駆けるユキナを勇者シスルは追う。



 (一番近い街……セリーヌだよね!? シーナの足なら二……三日くらい!? なら、今から急げばまだ追い付く! そうしたら、二人きりで話せるっ! ちゃんと話すんだ! 私はまだシーナが好きで、全部終わったら……ううん。これから二人で逃げよう、一緒に旅しようって、言うんだ! この力があれば、どこだってやっていける。私はシーナと二人で静かに暮らすんだっ! シーナは本当の私を見てくれる、唯一の人なんだからっ!)


 ユキナは走って走って、誰にも捕まらない様に走り抜けようとした。

 封じていた想いはもう、我慢出来なくなっていた。


(違うの、シーナ! 私は裏切りたくて、裏切ったんじゃないっ! こうするしかなかったから、諦めたのっ! こうするしかないって、言われてるのっ! 私だって本当はこの村で、ずっとシーナと一緒に居たいのにっ! シーナしか、本気で私を……剣聖じゃない私を愛してくれる人は居ないのっ!)


 それ程、今の恋人である勇者様とシーナ。たった一つ違いが、ユキナにとって大問題だったのだ。



(私だって、自由に生きたい。もうこんな生活、嫌だよぉ!)




 村の出口を駆け抜け、街道に出ようとした。

 そこでは、シーナの父親が目を丸くして居た。


「えっ!? ごっ……こほっ。ユ、ユキナちゃん? 何して……」

「あっ! おじさんっ! し、シーナは。シーナはどこに」


「ユキナ、止まれ」


聞き慣れた声が、唐突に響いた。

途端。びくっ、と身体が震えて止まる。


「えっ、あっ、え?」


 何が起きたか理解出来ず、ユキナは必死に身体を動かそうとした。

だが、動かない。上手く力が入らないのだ。


「もう、駄目じゃないか。いきなり剣を抜いて走り出したら……ユキナ」


「あ……っ」


 慌てていると、背後から声の主が現れた。

勇者シスルの登場だ。途端、ユキナは自分が何をされたのか理解した。

 自分達。剣聖の様な職業を与えられた者は、女神の使徒。英雄姫。と、様々な呼び名で呼ばれている。

 世間で英雄視され、確かに圧倒的な力を持つ【剣聖】は、その一人に過ぎないのだ。

そんな勇者一行の女の子達は、万が一の時の為か何なのか。勇者様の制止命令を無視出来ないようになっている。

効果はある程度、身体を強制操作される事。発動条件がある為に普段は使えないらしいが、今はそれを満たされているらしい。

 ユキナの身体が強制的に動かされ、神剣を鞘に納めさせられた。


「あっ……いやっ!」


 当然、ユキナは慌てた。

 今行かなければ、二度とシーナには会えない。

たとえ会えたとしても、彼は自分を他人として扱うだろう。シーナは一度決めたら相当意地っ張りなのだ。

話をして誤解を……いや。やってしまった事を正直に謝って話をして、許して貰えるかもしれない時は今しかない。

こんな所で立ち止まる訳にはいかないのだ。


「お、お願いですっ! お願い致しますシスル様! 一晩だけ、一晩だけお暇をくださいっ!」


「黙ろうね、ユキナ。黙ってお家に帰ろ? じゃないと今度は、伏せの命令をしなきゃいけなくなる」


「うっ……で、でも。私は、私はっ!」


「でもも何も無い。ったく……僕に手間を掛けさせるなんて、悪い子だね。罰として、君が読んだ手紙。僕も読むから……帰ったら持ってくるように」


「そ、それは嫌です! あ、あれは大切な。大切な人が私のために書いた、手紙なんですっ! シスル様! どうか、どうかご慈悲を……!」


「あぁもう、煩いな。ほら、帰るよ」


 また強制力に従わされて、ユキナの身体は勇者シスルへ従い村へと戻っていく。

 必死に抵抗を試みるが、どうにもならない。


(やだっ! やだっ! やだっ! 私はシーナと一緒がいい! もう離れ離れは嫌っ! 折角……折角帰って来たのに……! やっと会えたのにっ! こんな別れ方……あんまりだよぉ!)


 どうしようもなくなって、ユキナは泣いた。


「ひっぐ、ひぃっぐ……っ! し、しぃなぁ! しぃなぁああ! やだぁあっ!!」


 身体が固まって居て、手すら伸ばせない。

 顔も動かない。

 文字通りのお人形と化した剣聖は、大粒の涙を流し子供のように泣いた。









「ふふっ。どうやら先手を打たれたみたいだ。やってくれたね、シーナくん」


折角故郷へ戻ったのに無理矢理歩かされながら泣きじゃくる剣聖ユキナを見て、勇者シスルは微笑を浮かべやれやれと肩を竦めた。


自分の玩具になる筈だった村人とまともに話す事すらなく、傷付けるどころか大きな傷跡を残された勇者シスルは、



「次に会う時を楽しみにしてるよ」



微笑を浮かべ、再会を誓う。

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