5-108 石の声(1)

「えっ……」


 シャインは驚きのあまり息を止めた。

 ミリーも未だにその時の驚きを忘れられないのか、声がわずかに震えている。


「エルガード号が沈んで、主人は海を漂流していたそうです。そこに通りがかった東方連国の商船に救い上げられたんですが、運悪く奴隷商人の船で、各地を一年ほど転々とした挙句、脱走してエルシーアまで戻ってきたんです」


 シャインは思い出したかのように息を吸って吐いた。


「そう……ですか。ご主人が無事で、本当によかった……」

「私も最初は何が起きたのかわからなくて……家に入ってきた主人を幽霊呼ばわりしてしまいました……」


 ミリーは目に浮かんだ涙を指で拭い取り、「さ、こちらへ」とシャインを椅子に案内した。

 シャインは被っていた帽子を取り、勧められた「大きい」椅子に腰を下ろした。ロワールは「中くらい」の椅子へ。居間の暖炉には煤で黒くなったヤカンが白い蒸気を上げていた。


「今、お茶をお持ちします。ミリカは……きっと外で遊んでいるから、呼んでこなくっちゃ」


 ミリーはてきぱきとお茶の支度を整え、縁が欠けていない真っ白なカップに茶を注いだ。

 シャインは目を閉じ漂ってきた茶の香りに意識を集中させた。

 そういえば茶を商ってみたいと思っていたのだ。


「うわ……なんか幸せ一杯~っていうかんじのお花の香りがする」


 ロワールが両手を合わせてつぶやいた。


「そうだね。これは花茶ヒルローズティーだと思うのですが、独自の茶葉の配合がなされてますね? 苺と柑橘の香りもします」


 ミリーはティーポットを卓上に置いてにっこりと笑みを浮かべた。


「よくおわかりね。これは我がルウム家秘伝のレシピで香りづけしたヒルローズティーなの。ヒルローズの花は年中咲いてますから、いくらでも作り置きがあるの」


 シャインは鮮やかな橙色の茶の中で、ほんのりと桃色に薄付き、水中花のように開いた花に視線を落した後、口を付けた。予想を違わず口の中で広がる甘酸っぱい果実の味と花の香りが上品だ。


「味も優雅ですね。見た目も美しいですし、問屋に持っていってみてはどうです? 俺だったらぜひ商ってみたい茶です」


 するとぷっとミリーが口元に手を当てて吹き出した。


「もう! からかうのはやめて下さい!」


 シャインは真面目な顔でミリーを見つめた。


「いえ、俺は本気ですよ。ロワール、君の感想は?」

「お茶の中にお花が咲いていてとってもきれい。香りも豊かで私はとても好きだわ」


 ロワールはシャインと顔を見合わせた。


「女性客に受けると思うんですよね。ご覧の通り。お茶問屋に知り合いクラウスがいますから、帰りに寄って、試飲の話を持ち掛けてみようかな」


「あの、グラヴェールさん。私はそんなこと、ちっとも考えては――」

「あっ! シャインお兄ちゃん!!」


 どたどたと走って来る音が聞こえた途端、相変わらず金色の髪を鳥の巣のように絡ませたミリカが、シャインの姿を見て弾丸のように飛び込んできた。ミリカはシャインの首筋に飛びついた。


「こ、こら! ミリカったら!」


 シャインはかろうじて椅子から転げ落ちることなく、ミリカの体を捕まえた。

 相変わらず元気な様子に安堵しながら。


「こんにちは、ミリカ。君に預けていたものを受け取りに来たんだ」


 ミリカは青い瞳をきらきらさせて何度も大きくうなずいた。


「うん! ミリカ、ぜったいシャインお兄ちゃんが取りに来るってしってたもん! あ……」


 ミリカはシャインの隣に座るロワールをしげしげと見た。


「こんにちは、ミリカちゃん。私はシャインの友だちのロワールっていいます」


 ミリカはじっとロワールの顔を見ていた。徐に右手を挙げて、ロワールの肩から流れる髪のひと房を手にとった。


「お姉ちゃんの髪の毛きれい。夕日みたいに赤くて光ってる」

「そお? エルシーアでは赤い髪の人、滅多にいないもんね。でもミリカちゃんの金髪もお日様の光みたいできれいよ」


 ロワールが手を伸ばして、ミリカの頭をそっとなでる。


「シャインお兄ちゃん、もうケガはなおったの?」


 ふと気が付いたようにミリカがシャインを見上げている。


「ああ。心配かけてごめん」

「わかったわ。じゃ、ゆびわ返すね!」


 ミリカは肌身離さず持っているのか、首から下げた青い小袋のついた鎖を引っ張った。袋の口を開いてミリカが鎖をたぐりよせると、星の輝きにも似た、淡い紫色の宝石がついた指輪が現れた。


「ミリカ、なくさないように、ずっと、ずっと気をつけて持ってたの」


 シャインはこくりとうなずいてみせた。

 するとミリカはじっとシャインの顔をのぞきこむように見つめていた。

 初めて会った時のように、シャインの頬に小さな両手を添えて。


「……うん。お兄ちゃん、大丈夫そう。ミリカにこの指輪を渡してくれた時、ほんとうにつらそうな顔してた」


 シャインは目を伏せ気弱な笑みを浮かべた。


「そうかい。でも今は大丈夫だよ。彼女――ロワールが俺の力になってくれたから。だからこの指輪の光を受け入れるだけの勇気を持てるようになったんだ」

「ふーん……」


 ミリカはわかったように小首をかしげたが、ぱっと満面の笑みを顔に浮かべた。


「そうだ! シャインお兄ちゃんは、ミリカがつらいときでも笑えるように、力になってくれるからっていって、あの指輪を渡してくれた。あのね、あのね……それ、本当だったよ」


「えっ」


「あの指輪がきっとミリカに『いいこと』を運んできてくれたの。シャインお兄ちゃんがミリカに指輪を渡してくれた次の日の夜。おとうさんが帰ってきたんだから!!」


 シャインは青緑の瞳を細めた。じわりと胸に安堵感が湧いてくる。


「本当よ。おとうさん、遠い遠い海にいたから、ものすごく帰ってくるのが遅くなったけど、元気だった。ミリカとおかあさんを『ぎゅー』って抱きしめて、おっきな腕で、たかいたかいしてくれたんだよ!」


「……そうか。よかったね、ミリカ。本当に」


 シャインは手を伸ばしてミリカの頭を胸に抱えた。この子の父親が戻ってきたことがとても嬉しかった。隣でロワールも大きくうなずいているのが見えた。


「うん! だから今度はシャインお兄ちゃんにも『いいこと』が来るんだから!」


 ミリカは指輪を通した鎖を首から外した。


「おかあさん、ゆびわを取って」

「はいはい」


 ミリーが手を伸ばしてミリカから鎖を受け取り、留め金を外して指輪をそれから抜いた。


「ありがとう。じゃ、シャインお兄ちゃん、指を出して。ミリカがはめてあげる」


 ミリカはちらりとロワールを見つめた。そして再びシャインの顔を見た。


「もう一個ゆびわがあったら、お兄ちゃんがお姉ちゃんにはめてあげられるのにね。ほら、はなよめさんにするみたいに」


「え?」

「えっ?」


 ロワールが驚きの声を上げ、シャインはミリカに向かって伸ばした右手を一瞬ぎこちなく止めた。


「あらやだ、この子ったら。グラヴェールさん、気にしないで。大聖堂で時々結婚式があるんだけど、その時にこの子、指輪を運ぶ手伝いを神官様から頼まれることがあるんです」


 ミリカは指輪を手にしてシャインの右手を自分の方へ引き寄せ、薬指に「よいしょ」とはめた。


「えへへ~やっぱりゆびわは、指にするほうがきれいだね。ね、おかあさん」


 シャインから離れ、甘えるようにミリーのスカートにまとわりついたミリカは、はにかんだように笑った。シャインもつられて笑みを浮かべた。


「あれ……?」


 ミリカがふとロワールを指さした。


「お姉さんの手にも、ゆびわと同じお星様がある」

「あ、これ?」


 ロワールは右手首をあげてブレスレットをミリカに見せた。


「いいでしょ~。実はこれ、シャインの指輪とお揃いなの」

「ふうーん……」


 ミリカは右手を寂しそうに口元へ持っていった。


「あ、ミリカ。大事なものを忘れていたよ」


 シャインは椅子から立ち上がった。ミリカの前に膝をついて、目線が彼女と同じになる高さで話しかける。上着の内ポケットに手を入れ、赤や青、橙色をした飴が入った瓶を取り出した。

 その口には可愛らしい赤色のリボンが巻かれている。

 シャインは飴の入った瓶をミリカに手渡した。


「君には本当に世話になった。ありがとう。宝石は食べられないからね――これは指輪を預かってくれたお礼だよ」

「うわーきれいー!」


 ミリカは飴が入った瓶をみて嬉しそうに声を上げた。


「じゃミリーさん。今日はまだ行くところがあるので、これでお暇します」

「グラヴェールさん。わざわざ来て下さってありがとうございました」


 シャインは立ち上がった。その隣にロワールが並ぶ。


「ミリカちゃん、また遊びにきていいかな。お母さんのお茶がとっても美味しかったの。今度、私お菓子を作って持ってくるね」

「うん!」


 ミリカが両手で飴の瓶を抱えながら大きくうなずいた。


「シャインお兄ちゃんも、また良かったら来てね!」

「ああ。ロワールと一緒に来るよ」


 シャインは目でミリーに暇を告げた。

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