5-104 審議の時間

 ロワールとリオーネが夕食を作るために部屋を出ていった。シャインは手紙をしたため、執事エイブリーに預けた。それから居間の長椅子で横になり、一人微睡んでいた。


 今日は少し疲れたかもしれない。 

 いや――今まで心にずっしりとのしかかっていた罪の意識が、ほんの少しだけど薄らいだ。


 ミリアス・ルウムと和解できたのは本当にうれしかった。

 けれど彼以外に大切な人を失ってしまった人はたくさんいる。

 俺がその人たちにするべきことは、ただ一つしかない。


「何かあったらいつでも俺を呼べよ、シャイン」


 シャインは懐かしい声を聴いた気がして目を開けた。

 黄昏の光が差し込む応接机の上に、真っ赤なリンゴが一つだけ置かれていた。

 誰がそこに置いたのかはわからない。

 けれどシャインはヴィズルを思い出した。

 彼とは一週間前、ロワールハイネス号がアスラトルの港に着いた時に別れたのだった。

 しっかり今回の『仕事』の報酬をアドビスからもらったのだろう。ヴィズルの精悍な顔には満面の笑みが浮かんでいた。

 

「ヴィズル……」


 シャインは長椅子のクッションに頭を沈めたまま彼の横顔に想いを馳せた。 

 忘れはしない。彼には何度も窮地を救われた。

 けれどヴィズルはシャインに見返りを求めることがなかった。さもシャインを助けるのが当然だと言わんばかりに。


 ミリアスが言っていた。

 それはヴィズルなりの贖罪しょくざいだったのだ、と。

 彼が海賊をやめることができたのは、シャインのおかげだったのだ、と。


「俺は君に何もしていない。でもこれで本当に君が君らしく生きていけるのなら俺は……」



 俺は君の人生の重荷でありたくない。

 そしていつか――再びどこかで会えることを心から願うよ。




 シャインは身じろぎして長椅子から上半身を起こした。

 気配がしたのだ。顔を居間の扉へ向けると、ランプを灯したアドビスが、静かに中へ入ってくる所だった。アドビスは中将位を表す黒の将官服姿だった。


「起きていたのか」


 やや掠れたアドビスの声は安堵の色が混じっていた。

 シャインはゆっくりと頷いた。

 アドビスは暖炉の上の蝋燭に火を灯し、シャインが横になっている長椅子の隣の肘掛け椅子へと腰を下ろした。様子をうかがうようにシャインの顔を覗き込む。


「少しは食べられるようになったのか?」

「ええ。ロワールが一生懸命、あれこれ作ってくれますから。流石に食べないと」


 シャインははにかみながら返事をした。

 グラヴェール屋敷に戻ってからも、シャインは微睡んでいる時間が多かった。

 サセッティから受けた胸の傷は快方に向かっている。それよりもシャインの意識を濁らせるのは体の倦怠感だった。

 きっと魂の力を一気に失ったため、生命力に影響しているのだろう。術者であるリオーネがそうシャインに話してくれた。焦らず無理をしなければ、元の体力は取り戻せるとも言った。


 そして時折アドビスが様子を見に来ていたことを感じていたが、こうして会話をするのは久しぶりだった。アドビスはノイエ・ダールベルクの代わりに海軍省へ詰めており、なかなか屋敷へ帰ってこられない日々が続いていた。


「いい娘だ。彼女がいるから家の中が明るい……」


 アドビスは肘掛椅子から勢いよく立ちあがった。


「じゃあ今夜の夕食もちゃんと取るのだぞ。お前が早く良くならないと、ロワールの負担は増すばかりだからな」

「父上、あの……!」


 アドビスは居間の扉まで近づくと取っ手に手をかけた。

 シャインはその大きな背中に向かって呼びかけた。

 アドビスに言わなくてはならないことがあった。


「待って下さい父上! お話があるのです」


 アドビスはゆっくりと振り返った。

 そして再びシャインの横たわる長椅子まで近付いてきた。


「どうした」


 応接机の上に置かれたランプの光に照らされたアドビスの瞳は猛禽のように鋭利に光っている。

 また仕事に向かう時の目だ。

 シャインはアドビスを見上げた。その鋭い青灰色の瞳を射抜くように。


「ジャーヴィス艦長から、海軍省を告発した話を聞きました。俺にも関係があることです。いえ……俺の証言が必要なはずです。審議の場に俺も同行させて下さい。お願いです」


 アドビスは静かにシャインの顔を見下していた。

 シャインはアドビスの顔がかぎりなく穏やかで優しげな様子に気付いた。

 ふっと目の前を影が過る。アドビスの大きな掌がシャインの頭の上にかざされたかと思うと、何度か軽く叩かれた。


「お前は何もしなくていい。すべて順調にいっている」

「しかし、あなたが海軍卿の方々を告発したということは、司法取引をされたのではないのですか? あなたも参謀司令官をお辞めになることを条件に――」


 アドビスは困った様に口元を歪めた。


「やれやれジャーヴィスの奴め。お前には話さぬよう釘を刺しておくのだった」

「父上。彼はきっと俺やあなたのことを心配して、それで」


 アドビスは怒った様に目を細めた。鋭く突き離すようにつぶやく。


「ああ、すべてお前が察している通りだ。そうしなければ、海軍卿を退陣させることなどできぬ。だから心配するなと言ったのだ」

「ですが、それでは――」

「くどいぞ、シャイン」


 シャインは息を詰めた。

 何かが違うと自分の心が叫んでいる。

 これでいいのかと。


 シャインはアドビスの顔を見上げた。心を空っぽにして見上げた。

 そうしなければ口にできない想いがあるからだ。

 誰にも言うことができなかった、自分だけが知る罪を。


「俺はただ……自分のやったことを、己の胸に抱いて生きることが怖いのです」

「シャイン」


 アドビスが肘掛椅子を長椅子に近づけそこに腰を下ろした。


「お前のその感情は人間として当然のことだ。成した選択は正しかったのか、誤っていたのか。私ごときがそれを判断することはできない。まさに神のみぞ知る。だが審判の日は必ず訪れる。その日までお前は生かされた命を精一杯生きることだ。だから二度と自らの命を粗末に扱うな。生きることを選んだお前は、わかっているはずだ」


「……はい」


 シャインは声にならない声で返事をした。

 アドビスが大きな手でシャインの右手を握りしめた。

 その温もりを感じていると、自分は決して一人ではないのだと思えた。


「証言をしたいのなら……一緒に連れていってもいい。だが明日だ。お前の体力が持たないときは馬車に詰めて屋敷へ送り返す。それでいいな?」

「はい」


 アドビスは、シャインがその意思表示をするまで、握りしめた手を離さなかった。




 ◇◇◇



 

「今度はどこの馬鹿だ! よりにもよって、我ら海軍卿エルシャン=シー・ロードを訴えるなど、気が狂っているとしか思えん!」


 広い横幅の体を司法局の貴賓室の椅子に沈め、艦船部門の長バスク・エスクィア中将は特徴的なワシ鼻を鳴らし不機嫌も露に叫んだ。


 その隣で苦々しく口元を歪めているのは、総務部の長トリニティ中将。

 ぴんと立った自慢の口髭を、骨ばった指先で撫で付けながら呆れたように口を開く。


「そうは言ってもエスクィア。海軍の不祥事はまだある。あの女狐――ロヤントは、海軍の金を20億リュール横領して逃亡したらしいからな」


 トリニティの隣でシシリー酒をすする諜報部の長、オーラメンガー中将が薄くなった頭髪を震わせて付け加えた。


「しかも我らがアリスティド閣下を統括将の座から引きずり降ろしたダールベルクの子せがれが、なんとリュニス皇帝と双子の兄弟であったとかなかったとか」

「ははは、エルシャン=シー・ロード(六卿)の威厳は、あの二人のお陰で地に落ちたな」


 細巻き煙草をくわえて、一番若い主計部の長コルムが紫煙を吐いた。


「馬鹿者! 笑い事ではすまされんぞコルム! 海軍省全体の面子に関わる問題だ!」

「おお、またエスクィア山の噴火が始まった」


 コルムが茶化したように呟く。


「噴火とはなんだ、噴火とは! そもそもお前はいつも他人事のように物事を見るな。コルム!」


 エスクィアが叫び出すとまともに相手をするだけ時間の無駄だ。

 それを知っているトリニティは秀でた額に片手を置き、鋭利な眼付きでオーラメンガーに話しかけた。


トリニティお前オーラメンガー、そしてエスクィア、コルム、ダールベルクに、ロヤント。これがかつての<六卿>。だが、参謀司令官だったダールベルクは統括将になったから、あと一人足りぬ」


 オーラメンガーが唇を引きつらせてトリニティを見た。


「今の参謀司令官――アドビス・グラヴェールか? そういえばまだ姿を見せんな。先日アノリアから帰って来たらしいが」


 ぎりと唇を噛みトリニティはうなずいた。


「オーラメンガー、今度の査問会では覚悟することだな。お前に諜報部の長たる資格なし、という判定をつけねばならん」


 ムッとしてオーラメンガーが顔を赤くさせた。


「どういうことだトリニティ!」


 トリニティは席を立った。そして、ぎろりとエスクィアとコルムにも、こちらを見るように言った。


「海軍省の意志を決定する我々海軍卿を裁ける者は一体誰だ? 海軍統括将と参謀司令官しかおるまい」


 はっとオーラメンガーが息を飲んだ。


「アドビスが来ないのは……まさか……」

「そのまさかにやっと気付いたか。禿げ頭め」

「だが、アドビス・グラヴェールは我々を裁けないぞ!」


 コルムがトリニティに向かって言った。

 トリニティが神妙な顔をして声を潜める。


「ミリアス・ルウム、及びアマランス号艦長ジャーヴィスは海軍省を訴えている。よって海軍統括将と参謀司令官は、と判断され我々を裁く資格がない。だから今回は、アスラトル領主アリスティド公が審問長として参加されるであろう……下手をすれば、王都へ召喚を受けるやも」

「……」


 脅しには屈しない。落ち着き払ったコルムが二本目の煙草に火を点ける。


「お、おのれ! おのれ!」


 エスクィアが豪奢な椅子から巨体を持ち上げ立ちあがった。


「我々が何故告発されなければならんのだ! あの忌まわしい『ノーブルブルー襲撃事件』――巷では『ノーブルブルーの悲劇』と美化された言い方が通っておるが――その真相を故意に公表しなかったから我々にとががある? 元はといえば、アドビスの息子が安易にエルガード号を砲撃したせいではないか! 是非ともこの罪はあの金鷹アドビスめに引き受けさせねばならん」


 オーラメンガーも椅子から身を乗り出した。


「そうだ! 我々はあの事件とは関係ない!」

「……果たしてそうだろうか。海軍卿の方々」


 落ち着きはらった声が、司法局の貴賓室の中に響いた。


「きっ、貴様……アドビス・グラヴェール!」


 エスクィアの罵声を受けても、貴賓室の豪奢な扉の前に立つアドビスは顔の筋肉一つ動かさず、冷徹な眼差しで海軍卿の面々をながめていた。

 常人より遥かに背が高く、黒の将官服に中将位を表す金鎖を肩に這わせたアドビスは、いつになく威圧的な態度で声を荒げたエスクィアを睨みつけた。


「審議の時間が来た。なお、貴官達を訴えたのは参謀司令官のだ。審理の場でアリスティド公爵閣下がお待ちだ。言いたいことはそちらで好きなだけ言えば良い」


「くっ……」


 エスクィアが歯ぎしりをした。

 トリニティはいまいましげに舌打ちし、コルムは黙って細巻煙草の火を手で消した。オーラメンガーは両手を組み、渋々貴賓室の豪奢な椅子から立ち上がった。

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