5-88 もう一つの命
「アドビス・グラヴェール殿」
それはまぎれもなくリュニス皇帝アルベリヒの声である。
アドビスは船縁に近寄った。
アルベリヒが警備の者を誰もつけず、青の女王号の舷側の前に立っている。
「私に何か――」
アルベリヒに呼ばれる理由がわからず、アドビスは戸惑いながら彼の言葉を待った。
「そなたが我が父――先帝ロードが恐れた『エルシーアの金鷹』なのだな」
「……」
まさかアルベリヒからその名を聞くとは思わず、アドビスはすぐに返答できなかった。彼がロードの息子であったとは。
先代のリュニス皇帝ロードとは、二十年ほど前に遡るが、アドビスにとって因縁ある人物だった。
妻リュイーシャの父親カイゼルが、ロードと異母兄弟であった。リュニスの皇位争いの陰謀でリュイーシャの父はロードに殺され、リュイーシャもまた、権力を強めようとするロードの手に落ちようとしていたところをアドビスが助けたのだ。
そんな昔の出来事が脳裏を過って動揺するアドビスに気付くことなく、アルベリヒは言葉を続けた。
「そなたがいるかぎり、我がリュニスはアノリアの領海を越えることができぬらしい」
「お戯れを。皇帝陛下の英断で、戦を回避できたことに心より感謝いたします」
アルベリヒが眉間を一瞬曇らせた。
「そうだな。実を言えばアノリアを我らの手に取り戻したかったが、そなたの息子――リースフェルトに先を越され我らは敗けたのだ。そして彼のおかげで、私は双子の弟と巡り合うことができ、その間にあった大きな誤解を解くことができた。今回ダールベルク家が何故このような暴挙に出たのか、エティエンヌがエルシーアの密偵であった事実等、それらの理由は改めてノイエに聞きたいと思うが、そなたの息子の命に免じて、今回我らはアノリアから手を引く」
アドビスははっと目を見開いた。
「シャインの命に免じてとは、どういう意味か」
皇帝アルベリヒの唇が僅かに歪む。何かを悔いるように。
「リースフェルトはそなたの密偵だった。そなたも彼を我が国に送り込んだ時から、こうなることは覚悟していたはず」
アルベリヒは瞳を伏せアドビスに軽く頭を下げた。そして薄紫の衣の裾を翻し、背を向けて舷側から離れた。
「……待て! リュニス皇帝!!」
アドビスはあらんかぎりの声を上げてアルベリヒを呼んだ。
頭の中ではわかっている。
リュニス皇帝が何を言わんとしたか。
けれどアドビス自身がそれを認めたくない。
アドビスの呼び声虚しく、リュニス皇帝の乗った『青の女王』号は、暗闇の海を自国目指して走り出した。
「……シャイン」
指先がしびれるほど強く舷側を掴みながら、アドビスは不吉な考えを必死で追い払っていた。
もう二度と失いたくないのだ。
失わせないと誓ったのだ。
その想いはアドビスの体中を血液よりも熱く駆け巡った。
アドビスは足早に、ノイエが休息を取るために籠ったサロンへと向かった。
扉を手加減なしにどんどんと叩くと、明らかに不機嫌なノイエの顔が現れた。
「どうした騒々しい。甲板はあなたに任せると言ったはずだぞ」
「申し訳ないが統括将閣下。私が閣下の傍を一時離れることをお許し願いたい」
「何? どうしたのだ」
ノイエはただ事ではないアドビスの様子に顔をしかめた。
「ひょっとしてリュニスが攻めてきたのか?」
「いいえ」
アドビスはノイエの目を見ながら心の底からの想いを口に出した。
「
◇◇◇
青い青い闇の中へ――。
ただ下へと落ちていく感覚が懐かしいと何故かシャインは思った。
そういえば十代の少年だった頃、士官候補生として一番最初に乗った海軍の船・アルスター号が嵐に遭って座礁し沈没した。
あの時もこうして海に投げ出され、青い闇の中に沈んだような記憶がある。
後から人に聞いた話だが、シャインが唯一の生存者だったそうだ。
けれど何故自分だけが助かったのか、その時の記憶はない。
シャインはどんどん遠くなる海面をただ見上げた。
もはやそれは手を伸ばしても届くことが叶わないほどの高みにあった。
日没とともに青い闇は深みを増して、海上の光が失われていく。
それでも不思議と心は凪のように静まり返っている。
左舷船体に穴が開いたロワールハイネス号の痛みも、サセッティの刃で受けた胸の痛みも感じない。
それは青い闇の海の中に落ちていけばいくほど薄らいでいったが、棘のように一つの感情だけが心に突き刺さっていて離れなかった。
『ロワール。こんな形で君を巻き込みたくなかった』
唯一の後悔。船が沈む時は自分も共に。
シャインはいつもその想いを心の片隅に置いていた。
だが違う。
俺が本当に”望んで”いたのは。
シャインは足元で青みを帯びた眩い光が瞬くのを見た。
同時に自分の右手にはめたブルーエイジの指輪が同じように青い光を放ちながら明滅するのに気付いた。
あそこにロワールハイネス号の『
あそこに『
行かなくては。
『
シャインは無我夢中で体に絡みついたロープを振りほどいた。
海底に沈みゆく『船鐘』に向かって泳いでいく。
ロワール。消えないでくれ。
君があっての俺の『生』だった。
ただ一心不乱に水をかく。
『船鐘』さえこの手に掴むことができれば。
執念にも似たシャインの想いが通じたのか、海底に沈む速度が鈍ったように思えた。ただ青く光っていたそれが鐘の形を帯び、鐘を打ち鳴らすためにつけられた白いロープが魚のようにひらひらと舞っている。
いや、あれはただのロープではない。
自分とロワールをつなぐ『命綱』そのものだ。
右手をロープへと伸ばす。確かな手ごたえを感じてシャインはそれを握りしめた。
ロープを手繰り寄せて『船鐘』を胸に抱える。
もう一つの命だ。これは。
感じる。彼女の――ロワールの気配がする。
「シャイン」
ささやき声が聞こえた。周囲は深い群青の闇に覆われている。ただ唯一の灯は胸に抱いた『船鐘』のみ。顔を上げると鐘から透き通った青い光があふれてロワールの姿になった。
海の闇の中でも彼女の黄昏色の長い髪が煌き、星の瞬きを閉じ込めた水色の瞳がシャインを見つめている。シャインの姿に安堵したようにその顔は、静かな微笑みを浮かべている。
「私のことはいいから『船鐘』を捨てて早く浮上して。あなたの息が続かない」
「そんなことできない。君を置いていくことなんて」
「言ったでしょ。私はもう存在しない。今あなたの前にいるのは、あなたの魂に刻まれた、『船の精霊・ロワール』の記憶……」
シャインは左手で『船鐘』を抱き、右手を目の前のロワールへと伸ばした。
彼女の丸みを帯びた肩を引き寄せて顔を寄せた。
「君と、一緒に行く」
彼女は本当に俺が作り出した『船の精霊・ロワール』なのか?
それでもいい。何故ならそれは――。
「ここしか俺の居場所はなかった。君の傍しか」
「駄目よ。あなたには大事な家族がいるわ。それから仲間もいる。ヴィズルやジャーヴィス艦長だって」
「俺の望みは君の傍にいることだ。ずっと傍にいたいんだ。アイル号の黄昏の甲板で初めて君を見た時、俺の世界は変わったんだ。本当に俺を必要としてくれる人の傍にいることが、これほど心地が良く安心できると思わなかった。俺は家族でその感覚は得られなかった。これからそうなるとしても、君がいない世界で、君を想いながら、自分の心を偽って生きる事なんか望まない!」
「――シャイン」
「君は……俺と一緒にいるのが嫌なのかい?」
ロワールは答えなかった。でも返事の代わりに、伸ばされた手がシャインの肩を抱き、ぎゅっと強く握りしめられるのを感じた。
ロワールの言う通り、父アドビスとの関係は修復されつつある。
シャインには確かにアドビスがいる。
けれどロワールには?
気が遠くなるほどの長い長い時間を、『船鐘』という存在に捕らわれている彼女には、誰が傍にいるというのだ? そしてあとどれだけの時を一人で過ごさなくてはならないのか?
「ありがとう、シャイン。私もあなたの傍にずっといる」
「ああ」
シャインはロワールの顔だけを見つめ続けた。
そうしている間も体は海の底へ沈み続けているのだろう。
視界が薄暗くなる。眠りにも似た静寂が辺りを包む。
とっくに息絶えて死者の夢を見ているのかもしれない。
けれど何よりもロワールが傍にいる。これほど幸せに思ったことはない。
意識が途切れようとした時だった。
「やれやれ。お前たちは勝手なことばかりしてくれる」
海の底に向かって沈みつつあるシャインとロワールを、大きな気配が取り巻いた。見覚えのある女性がシャインを見つめている。
その髪は海の中でも更に青く、色とりどりの真珠で飾られていた。
溜息にも似た口調で女性が語り掛けてくる。頭の中へ直接。
「二人して海の底に落ちるつもりか」
「それが運命なら」
「海の底がどれほど深く、そして恐ろしい所か知りもせぬくせに」
「ストレーシア――」
シャインは目を開き周囲を見回した。自分たちが守られるように海中で浮いていることを。周囲を銀色の海流が渦を描くように流れている。
「どういうことなの……?」
ロワールがシャインに身を寄せ、海の中で浮かぶ女性とシャインの顔を交互に見比べる。
「ストレーシアは海神・青の女王だ」
「ストレーシア……この人が!」
「ふふ……やっと思い出したか。そなたが子供の頃、海に沈んだ時助けてやったが、まだあれから数年しか経っておらぬというのに」
海神ストレーシアはシャインが覚えている少し意地悪な笑みを口元に浮かべた。
だがその笑みはすぐに消え去った。
「海の底は救いに
「ならば、あなたの御手で我々を救って下さるというのですか?」
「そうでなければここには来ぬ。シャイン、そなたは『巫女の指輪』の継承者。そしてロワール。『
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