5-81 ノイエの誤算


 ◇◇◇



「――逃げられたか」


 ノイエは遠ざかるロワールハイネス号の姿を甲板から眺めた。


「別に大したことありませんわ。あの坊やは『どこにも』行けっこないんですから」


 ノイエの隣でロヤントが落ち着き払った口調でつぶやいた。そうしている間にも、ロワールハイネス号の白い帆は水平線の彼方へ吸い込まれるように消えていく。


「そうだな」


 ロヤントの言うことは正しい。

 彼には行く所などない。

 少なくともエルシーアとリュニスには戻れない。

 ノイエは翻る軍服のマントを手で払いのけ、ロヤントを誘い、下甲板のサロンへと再び戻った。


「ロヤント書記官。グラヴェール参謀司令官に、アノリア奪還の段取りがどこまでできたか報告するようきいてきてくれないか」


 ロヤントは優雅に膝を折り頭を垂れた。


「わかりました」


 ロヤントの小柄な背中を見送って、ノイエは再び作戦会議室として使っているサロンに入った。そのまま奥の自分の椅子へと腰を下ろす。


「……」


 一人きりになったノイエは、ふと右手の強ばりを意識した。

 指の一本一本が引きつったように硬く感じる。

 その不快な感覚を和らげるために、左手でさする。


 ――この私が、あの青年にか。


 そうなのかもしれない。

 ディアナ様の心には、私より彼の存在の方が、何倍も大きく占められているのだから。


  

 ◇



『君は、ディアナ様を愛しているのか?』


 ノイエとて、ディアナとの婚姻は、エルシーア海軍統括将の地位を得るための手段で、愛はないはずだった。けれどアノリアを――ひいてはダールベルク家をリュニスの侵攻から守るために、ノイエはなんとしてでも海軍の軍艦をアノリアに配備するという目的があった。


 そのためには海軍の要職へ自らが就くのが手っ取り早い。王宮でロヤント海軍書記官や、弟が海軍統括将のアリスティド公爵と懇意になるために、様々な犠牲を払ったし、人を踏み台にもしてきた。


 そんな自分に嫌気がさし、精神的に疲れていた昨年のある日――アリスティド公爵夫人の誕生会へと誘われた。その時に出会ったのが、公爵の末娘ディアナだった。


 ノイエは三十二になったばかり。ディアナは二十才。十才以上年が離れていたが、ディアナは公爵令嬢という立場を意識して、実年齢より二、三才大人びて見える落ち着いた女性だった。


 母親がエルシーアの北方、シルダリア国の出身ということもあり、ほぼ銀に近い美しい髪と淡い菫色の瞳が余計彼女の気品を際立たせていて、儚げに見えたのを覚えている。


 ノイエはディアナと意識して会う機会を設けた。遠乗りに誘ったり、王宮の夜会にもディアナが来る日は必ず参加するようにした。


 ディアナは社交界では有名な『高嶺の花』だったのである。

 貴族の娘は大抵二十才までに社交界でそれなりの爵位を持つ男性に見染められて結婚する。だがディアナは二十を迎えたというのに、未だどこにも嫁いでいなかった。


 アリスティド公爵が厳格で、娘が幸せになれる相手じゃなければ結婚を許さなかったらしいとか、金髪(或いは栗色の髪)に青い目、というエルシーア人の特徴とはかけ離れたディアナの容姿のせいではないかとか、ノイエは醜聞好きの友人からそんな噂をきいていた。


 ノイエは何度かディアナと会ううちに、またとない好機に巡りあう。

 ある日、彼女がエルシーア人とかけ離れた容姿に、悩んでいることを相談されたのだ。


 彼女は以前同じことを、知り合いに打ち明けたことを告白した。同時にその人物に好意を持っていて、想いを告白したが、あっさり振られてしまったことも話してくれた。その時のディアナの横顔は気にしていないと言いながらも、とても寂しそうで、このまま一人にしてはおけない雰囲気があった。


 ディアナに取り入るには絶好の機会だった。

 こうしてディアナとの交際は順調に進み、ノイエ自身もロヤントのお陰で、空席だった海軍参謀司令官の座に就くことができた。


 それで心に余裕ができたのだろう。

 初めは目的を達成するためであったが、いつしかノイエはディアナに好意を持つようになった。


 理由は、似た者同士――。

 どこが彼女と似ているのか。ノイエはそれを口にしなかった。

 いや、口にできない秘密があったのだ。

 それを守るためにも、アノリアには海軍の軍艦が必要なのだ。


 紆余曲折の後、ディアナと婚約することができたが、彼女は未だにかつての想い人を忘れられないでいる。いや、忘れようとしてノイエと結婚することを決めたのだ。愛がないのはディアナの方なのだ。


 それを思うと、ノイエは自らの心が石となって冷えゆく感覚に身震いする。

 愛はないはずだったのに。

 自らその術中に陥ってしまったのは確かに誤算だった。


 だがこんな不毛な思いで自己嫌悪に陥るのも、後少しの辛抱だ。

 ノイエは我ながら、己の血が氷でできているのではないかと思った。


 ディアナの想い人は、もう二度とエルシーアへ戻ってこれない。

 リュニスとエルシーアを敵に回したのだから。

 普通の人間であれば、他国へ逃亡する。

 そうすれば、もう二度と彼に嫉妬することもないのだ。

 もう二度と――。



 ◇◇◇



 完全に風が絶えた。

 ロワールハイネス号の帆はすべて生気を失ってだらりと垂れ下がっている。

 シャインは無駄と知りつつ舵輪を回した。案の定ロワールハイネス号は何の反応も示さない。


「……ロワール」


 シャインは誰もいない甲板に向かって気だるい催促の声を上げた。

 その視線の先には、アーチ状の波をかたどった鐘楼があり、銀色の光を放つ船鐘がぶら下がっている。


『ダメよ。もう船を動かす気力なんかなくなったわ。シャインだってそうでしょ?』


 シャインの耳にロワールのささやき声が木霊のように通り過ぎていく。


「……ああ……」


 シャインはずっと握りしめていた舵輪の柄から手を放した。指の関節が強わばって、動かすとカクカク音を鳴らしそうだ。


 ウインガード号から逃げ出してどれだけの時間が過ぎただろうか。

 本当は僅か二時間といった所なのに、シャインには丸一日が過ぎたように思われた。


 シャインはしばし水平線しか見えない海上を眺め、やがてその場に座り込んだ。

 体中の重みがすべて足に引っ張られるような感じがする。シャインはそれに促されるまま甲板へ仰向けに寝転んだ。


 ゆらり。 ゆらり。

 風を失い動くことをやめたロワールハイネス号が、海のうねりを受けてゆりかごのように揺れている。頭上に広がる空はどこまでも高く遠く澄み渡り、辺りはしんと静まり返っていた。


 その虚空を見つめていると一瞬、自分の生きる世界はこれほど美しかったのかと――無意識に思った。

 シャインは塞がりそうになる目蓋を何とか押し上げつつ唇に笑みを浮かべた。


「ロワール。俺を眠らせる気かい?」

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