5-56 アルザ・ガタール

 ツウェリツーチェは空を泳いでいるかのように、優雅に数度羽を動かし飛んでいる。だが入り組んだ路地を進むシャインはその姿を追うのが容易ではない。


 何度前方から来る人間とぶつかりそうになったことか。

 路地を抜けるとそこは青い水平線が見える港だった。


 ツウェリツーチェの姿を探すと鳥は北の岬の方へと飛んでいく。シャインは路地から出て辺りをきょろきょろと伺った。市場が近いのかつんとした魚の臭気が漂っている。


 隙間なく港にロープで係留されている船はみなマストのない小船ばかりだ。沖へ出なくても港の近くで魚がよく獲れるのだろう。


 シャインは再びツウェリツーチェが飛び去った北の岬を眺めた。

 あの船がまだいる。虫の脚のようにいくつも船腹からかいを出した二本のマストを持つ大型船。


 ふわり。

 空に舞う花びらのように、ツウェリツーチェが大型船に近づいた。

 いや。

 シャインは息を飲んだ。


 大型船の手前に錨を下して停泊しているのは、まぎれもなくシャインのロワールハイネス号だった。三本の金色のマストに、エルシーアの碧海を模した青緑色の船体。誰が見間違えるものか。


 船の配色を考えたのはシャインだった。建造の時、設計図を書いたホープ船匠に「軍艦らしくない色だ」とため息交じりに言われたのを覚えている。


 シャインにはロワールハイネス号しか見えなかった。

 あそこに行けばロワールに会える。


「おっと。気持ちは分かるけど、ちょっと待てよ」


 誰かがシャインの腕を背後から掴んだ。

 路地に引き寄せられるように引っ張られる。

 シャインは後方を振り返った。

 はいつもそうだ。人に気配を感じさせず、唐突に姿を現す。


「ヴィズル」


 ヴィズルの夜色の目と合った。

 ヴィズルは大きめの唇を少し歪ませにやりと笑んだ。

 伸ばしっぱなしの銀髪ががっしりとした彼の肩の上に流れ落ちた。

 ヴィズルもまた、リュニス風のゆったりとした布の服を纏い、足は柔らかな山羊革のサンダル、頭には白い布をぐるりと巻きつけて、傍目にはリュニス人の青年といった風貌だ。


「元気そうだね」

「そっちもな」


 短く言葉を交わすと、シャインは肩をすくめ疑惑の視線をヴィズルに向けた。


「君はアノリアにいるんだとばかり思っていたけど」

「ああいたさ。でもバーミリオンがきやがったからな。今アノリアは完全にリュニスの手に落ちたぜ」


 ヴィズルの言葉にシャインは唇を噛みしめた。


「まさかバーミリオン皇子がアノリアを攻めるとは思わなかった。俺もあの時、アノリアにいたんだ」


「何?」


「でも、バーミリオン皇子がアノリアを攻めたのは、戦争を起こすためじゃない」

「どういうことだ、それは」


 シャインはヴィズルにこれまでの経緯を話そうとしたが、気になるものが視界に入ったので思わず口を閉じた。


「ヴィズル、あれを見てみろ」

「……ほお?」


 シャインとヴィズルは路地の壁に背中をつけるようにして、北の岬の麓に停泊しているくだんの船から上陸用の小船が下されるのを見た。

 船には黒の軍服を纏ったリュニスの兵士達と、紫紺のマントを翻した金髪の人物――リュニスで紫のそれを纏うことができるのは世継ぎの証だ――リュニス皇帝の実弟バーミリオンが一番最後に乗るのが見えた。


「アノリアの指揮を誰かに任せて、帰ってきたみたいだな」


 ヴィズルの言葉を聞きながらシャインは黙ってうなずいた。


「それにしてもやっかいだな。港には至る所にリュニス兵が立ってやがる。ロワールハイネス号は、完全にリュニス軍の管轄に入ったようだな」

「それには心配いらないよ」


 壁際に背中をつけたままシャインは口を開いた。


「リュニス皇帝からロワール号を返却するという念書をここに持っている。彼女はもう、俺の手に戻った」

「……馬鹿野郎が。だから、お前は甘いんだよ」


 ヴィズルの細く鋭い瞳がシャインを見下す。


「言っておくが、皇帝の念書は贋物じゃない。俺は今、リュニス皇軍の近衛兵なんだ」

「ばーか、ばーか! そういう意味じゃねぇよ!」


 ヴィズルは鋭く舌打ちした。


「お前ほど甘ちゃんで、世間知らずで、安易に他人を信用する奴はいないだろうよ! リュニスの宮殿に上手いこと入り込めた幸運は褒めてやるが、シャイン、その念書は罠だろうぜ」

「えっ」


 ヴィズルは鼻で不機嫌そうに笑うと、港で哨戒任務に当たっているリュニス軍の兵士の姿を睨みつけた。


「シャイン、場所を変えるぞ。ここは長話をするのに適した所じゃねぇ」


 シャインはヴィズルに反論しようとしたが、その不満を大人の良心でぐっとこらえ、素直に彼の言うことに従った。ロワールのいるロワールハイネス号は目と鼻の先だが、下手にリュニスの兵士とごたごたを起こして、行動の自由を奪われでもしたら元も子もない。ヴィズルは暗にその危険をシャインに示唆したのだ。


「よし、じゃ、ついてきな」

「……」



 シャインは名残り惜しげに、一目だけロワールハイネス号の金色のマストをみやると、背中を向けて路地を悠々と歩きだすヴィズルの後をついていった。




 ◇◇◇




 曲がりくねった狭い路地を抜けると、そこは色鮮やかな衣服や青果、日用品を売る市場へと出た。馬車が二台すれ違いに走れるほどの広い道の両脇に、行商人がリュニスの強い日差しを遮る天幕を張って、その影の下で商売をしている。


「今日は酉の市! すべての商品が三割引きだ!」

「今上がったばかりのホキを山盛りにした、ウチの海鮮丼はいかが?」


 市場は多くの人で賑わっていた。籠を手にした女達が、行商人に負けないくらいの大声で、商品を指差し値切りの交渉をしている。


「ここがリュニス本島の繁華街――アルザ・ガタールさ。庶民の台所ってやつで、何でも揃う」


 シャインは新参者に見られないように、あちこちきょろきょろ見回すという行動はしなかった。これも商船での商売に長けたヴィズルの教えである。


 なるべくゆっくりと歩く。けれど、周囲には注意を怠らず、現地の人たちの様子を探る。その土地の雰囲気を素早くつかみ、自分の気配をそこに溶け込ませる。


「……ほらよ」

「えっ」


 不意にシャインの頭上に、ふわりと白い布が舞った。

 それを漠然と掴むと、隣にはヴィズルが立っていた。


「ほら、俺みたいにそいつを頭に被れ。日差しも遮れるし、お前のエルシーア人っぽい顔も見えにくくなる」


 シャインはヴィズルの言うとおり、もらった布で手早く頭を覆い、余った布を右肩に流すように結び目を作った。


「……ざっと見た所、リュニスにはいろんな肌や髪の色をした人が多くて、俺も君も特に違和感はないと思うけど」


 ヴィズルの言う事に異論を唱える気はないが、シャインは自分がリュニス人である母親似ということもあり、ここまで警戒しなくてもと正直思っていた。


「まあ、リュニスには様々な国の人間が来てるからな。俺も海賊時代、ここに潜伏してエルシーア海軍の目をすり抜けたこともあったぜ。だがな」


 ヴィズルはシャインと並んで歩きながら、そっと声を潜ませた。


「顔は前を向けたままで、俺の言う方向を見てみろ。右の露天――緑の天幕を張った果物屋の隣――銀シュロの樹の下――目つきの悪い男の商人が、煙管で煙草を吸いながら通行人を見てるだろ」


「……ああ」

「あいつらは奴隷商人さ」

「――奴隷?」


 男達はヴィズルの言うとおり、市場を行き交う通行人をながめていた。


「一番高値が付くのはやっぱり子供だが、お前みたいな、ぽやーんとした坊ちゃんも奴らからみたら格好のさ。奴隷の買い手は貴族だから、若くて見目がいい者から売れる。お前はエルシーア語を話せるから、アノリアに連れて行かれて、そこでエルシーア人に売られるかもしれないぜ」


「ヴィズル。ちょっと待ってくれ」


 温和なシャインも流石にかちんときた。


「そのために、布を被れといったのか?」


 ヴィズルは鼻でシャインの抗議をあしらった。


「それもある。何事も用心するに越したことはねぇ」

「俺は……」


 シャインは再びヴィズルに抗議した。


「君の用心深さはよくわかる。何しろ、あの人――アドビス・グラヴェールに復讐しようとして、二十年恨み続けた執念深さだからね。ノーブルブルーを壊滅させるために、自分の手下を海兵として長期間乗り込ませ、エルシーア海軍を油断させた計画は見事だったよ」


「その事はお互いあまり思い出したくないはずだがな、シャイン」


 ヴィズルの目の光が険しさを帯びた。


「そうさ。俺はいきあたりばったりなお前と違って、物事の先の先をみている。だから、お前の何歩でも先を常にいくことができるのさ。しかし……」


 ヴィズルは布を巻いた頭に手をやり、それをかきむしろうとしてできないことに、ぎりと唇を噛みしめた。


「――ここだ。こっちで互いに熱くなった頭を冷まそうぜ」

「えっ……あっ……!」


 ヴィズルがシャインの襟首を猫の子を掴む様にしてひっぱった。

 再び煉瓦で作られた建物の影が覆う路地へ入る。


「なじみの店だ。ここなら気にせず話をすることができる」


 奥まった路地の蔭に、角灯を模した木の看板がぶら下がった酒場が見える。

 あきらかに営業している気配はない。表の扉はぴたりと閉じられている。それはそうだろう。太陽の角度から察するに、これから正午を迎える真昼間だからだ。


 だがヴィズルはシャインをひきずるようにして歩かせると、看板が出ている木の扉ではなく、ぐるりと裏に回った。十個ほど店の壁に寄せられるように、酒樽と空になった瓶が木箱に詰められ置かれている。ヴィズルは裏口と思しき扉に近づくと、拳を作って何度か不規則な間隔でそれを叩いた。

 しばらく何の物音もしなかったが、扉がきしみながら少しだけ開いた。

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