5-55 お礼
兵舎で朝食をとっていたシャインは、突如サセッティ近衛兵隊長の呼び出しを受けた。
「リースフェルト、参上しました」
南宮殿の中央部にある彼の執務室に入ると、そこにはあいかわらずシャインを胡散臭い目つきでみる中年の男――サセッティ近衛兵隊長がいた。腰には常人より背が高い彼のための特注品の剣が、隊長の威厳を表すようにぶらさがっている。
シャインはサセッティ隊長の姿を見ると長身の父アドビスのことを思い出すのだった。それは近衛兵の軍服が黒を基調にしているせいかもしれない。エルシーア海軍の将官もリュニスと同じように黒い軍服を纏う。
「よく来たリースフェルト。お前は本日非番だ。それと皇帝陛下から外出許可が出ているから、街の方でも行ってみればいい」
「……え?」
シャインはすぐにまともな返事ができなかった。
その内容が到底信じられなかったからだ。
「え、ではない! なんだその拍子ぬけた面と覇気のない声は!」
「あ、す、すみません」
シャインは背筋を伸ばして靴のかかとを合わせ不動の姿勢をとった。寝ぼけているわけではないということを密かに態度で表わしたかったのである。
元々サセッティはシャインのことをよく思っていない。
その理由はわからない。ひょっとしたら、彼の主君であるバーミリオン皇子との試合に、シャインがちょっと公平ではないやり方で勝ったことが気に入らなくて、それで嫌われているのかもしれない。だが人間好き嫌いというものがある。
<ありがとうございます>
シャインは慌てて礼を述べたが、慌てすぎて口から出たのはエルシーア語だった。むっとした様子でサセッティが太い眉をしかめる。
「も、申し訳ありません。ありがとうございます。まだエルシーア語とリュニス語が、頭の中でごっちゃになってるので……すみません」
頭を下げるとサセッティは腕組みをして、仕方がなさそうに頭を振った。
「リュニスの民となったからには、言葉を早く覚えてもらわねばならん。私の命令を聞き間違えて馬鹿なことをしでかしたら、その時は、この栄誉ある近衛兵騎士団からお前を蹴り出してやるからな!」
「そうならないよう、努力します」
「わかったのなら行ってよし」
「失礼いたします」
シャインは再びサセッティに詫びを入れて彼の部屋から出ようとした。
「おっと。お前があまりにも抜けているので、私もそれが移ってしまった。リースフェルト! 宮殿の通行許可証と港への地図だ。持っていけ」
サセッティの呼びかけでシャインは踵を返した。
サセッティがシャインに青い布袋に入った包みを手渡す。
「まあ、リュニスの街を見てくるがいい。知っているだろうが、宮殿の外門は18時に閉門だ。逃げるのは勝手だが、私の許可なく無断外泊したものは、一週間ネズミだらけの営倉に入ってもらうからな」
「……わかりました」
包みを受け取ったシャインは足早にサセッティの部屋から外に出た。
そのまま宮殿の東側に隣接する兵舎に戻ろうとした時だった。
「リース様。ふふ……今日、外出許可もらえたでしょ?」
背後から聞こえたのはまぎれもなく女官アリサの声だ。シャインは敢えて後ろを振り向かず足を止めた。再びアリサの声が聞こえた。シャインだけに聞こえるように声を潜めている。
「昨日、茶器を運ぶ手伝いをして下さったお礼です。リュニスの街をゆっくりご覧になればいいですわ」
「ええ……あ、ありがとうございます……」
シャインはアリサに合わせ、礼を述べるだけに留めた。
「それから昨日はつい悪戯がすぎましたわ。ごめんなさい。でも、宮殿内に不審人物がいないか探るのも女官の仕事なんです。だから許してくださいね。リース様」
アリサはすれ違う時にシャインに会釈して、そのまま宮殿の通路の影へ消えていった。
「……ふう」
シャインは思い出したかのように息をついた。
正直ほっとした。
四六時中見張られるのではないかと思ったが、彼女が自分で言ったとおり、どうやら宮殿に配属された新人は女官達が一定期間監視をするようになっているのだろう。
興味本位の詮索ではなく、仕事というのがわかったのはシャインにとっても収穫だ。今以上に自分の動向には気をつけなければならない。
それを意識してから、シャインはサセッティに手渡された青い包みに視線を落とした。紐を解いて中を確認する。
厚めの黄色がかった紙が丸められた地図と、青銀製の腕輪。腕輪には上半身は獅子で魚の尾を持つ、神獣シーリウスのレリーフが彫刻されている。リュニスの国旗に描かれているものと同じものだ。
シャインはそれを左手首にはめた。他の近衛兵達がこれを身に着けているのを見て知っていたからである。これが宮殿に仕える職にある者の証だ。そして丸められた地図を広げた。
「……!」
出かかった感嘆の声をかろうじて喉の奥に押し込む。
地図はリュニスの宮殿と城下町付近を描いたものだが、そこには小さな紙切れがもう一枚挟まれていた。それを開くと驚いたことにエルシーア語で文面が書かれており、末尾にはリュニス皇帝アルベリヒの名があった。
シャインは皇帝の手紙にざっと目を通した。
ディアナの容体が今朝はずっとよくなっていることと、シャインはリュニスの国民になったのだから、その財産をいつまでも没収するわけにはいかないので、ロワールハイネス号を返還するとのことだった。ただし海に出ることは許せないが、船の様子を見に行くことはよいと書いてあった。
シャインはしばし皇帝の手紙から目を離すことができなかった。
ロワールハイネス号が自分の手元に戻ったことで胸が一杯になった。
シャインは駆け出したい気持ちを抑えて兵舎の自室に戻り、急いで近衛兵の軍服から私服へ着替えた。勿論一般的なリュニスの衣装の方である。エルシーアの服はいつでも着られるように、衣装箱の中にしまってある。バーミリオン皇子に切りつけられたせいで千切れかけていたシャツの左袖は、女官のメリージュがきれいに繕って返してくれた。彼女には本当にいろいろと世話になっている。
シャインは青い袋の中に入れた地図を持って宮殿の外門に向かった。
朱塗りの太い柱に屋根がついたどっしりとした外門には衛兵が槍を右手に持ち、腰には幅広の反りが入った太刀を下げて立っている。
シャインが左手首にはめた青銀の腕輪を見せると、衛兵はうらやましそうに笑みを浮かべ、「門限は18時だぞ」とつぶやいた。
リュニスの宮殿は本島の中央の高台にある。城下へ通じる道は白っぽい土で乾いており、南国の太陽がまばゆい光を周囲に振りまいていた。
細かな砂埃が舞う道を下りながら、シャインは色絵具をまぶしたように見える家々の屋根に視線を向けた。港への道はすぐにわかった。群青色をした海が屋根越しに見える。そこに何隻もの船が海の上に浮かんでいた。
アスラトルの港とほぼ同じくらいの規模だろうか。
比較的陸に近い所に小型の船が数十隻係留されている。シャインは久しぶりに嗅ぐ潮の匂いを思い出しながら、無意識のうちにロワールハイネス号の美しい金色のマストを探していた。
だが悲しいことに港まで距離がありすぎる。シャインは逸る心をなだめて息をついた。
「おや。あれは確か……」
シャインは北の岬に視線を向けた。何本もの木の櫂を虫の脚のように船腹から突き出した大型船が、今まさに港に入ろうとしている。かの船は見覚えがあった。リュニス本島へ来たその日にも同じ船を見たのだ。
「……」
エルシーアではもうほとんどみかけることがない、
でも、およそ五百はあるといわれている、島国リュニスでは生き残った。
数日あればどこかの島につくリュニスならではといったところだろうか。
帆船は風向きが悪いと港から出る事も叶わず予定を変更せざるを得ないが、あの船は櫂を漕いで海を往くことができる。
港についたら、あの船を間近で見る事ができるだろうか。
シャインは心持ち足を速めながら港に向かった。
◇
リュニス本島の城下町はとてつもなく広大だ。行き交う人々の肌の色や髪の色も様々で、通りすがりに聞こえる話し言葉も、シャインはほとんどが理解できなかった。
それでも木陰で煙草をくゆらせながら談笑する男たちや、頭に大きな荷物や壺を乗せた女性達の会話から、シャインはあらゆる所から様々な人間がここにやってくるというのを知った。
「宮殿では風があったから特に意識しなかったけど、やはり、暑いな」
南国の太陽は容赦なくシャインの頭上で輝き照りつけている。額から垂れる汗の雫を布でぬぐうと、頬にひやりとした空気を感じた。細い路地がある。
そこをのぞくと周囲は家の壁で覆われた広場らしき場所が見えた。壺を抱えた女性たちが幾人か集まっており、キコキコと音を立てながら手押しポンプで地下水を汲んでいた。
水の流れる音に誘われるまま近づくと、浅黒い肌をしたおばさんに声をかけられた。おばさんは太陽の光を遮るように、赤い布地を頭からすっぽりと被り、目元だけだしている。
「水が欲しーいのけー?」
「あ、いや……その……」
低くなまったリュニス語に戸惑いながらシャインは我に返った。
海軍を休職してからこの一年。ロワールハイネス号でさまざまな国と町を訪れた。それは主に東方連国だったけれど、共同井戸は大抵有料で、水源が乏しい国ほど金額も高く一度に汲める量も決まっている。
サセッティ隊長は通行証の腕輪と地図と皇帝の手紙をシャインにくれたが、リュニスの通貨はくれなかった。シャインはここリュニスでは無一文だったのだ。
太陽の日差しが屋根で隠れているせいか、井戸の周りは涼しかった。まだ大して歩いてもいないので、シャインはにこやかにほほ笑みながら「道に迷ってしまいまして」と、声をかけてきた色黒のおばさんに港への道を訊ねた。
「何? 港へ行きたいってぇ? ああ、あっちさの道を真っ直ぐ三百歩ぐらい歩いたらっぺさ、右に降りる石段があるけぇ、そうしたら港へ行けるってしょ」
やや角張った細長い指を前方の路地に向けて、おばさんは群青色の瞳を細めた。
「喉乾いてるっしょ。こりゃーはオレの奢りだっぺから」
おばさんは壺の中に浮かんでいる木の椀を掴み、水を汲むとシャインへ突き出した。
「あ、ありがとうございます」
「うんうん。リュニスは暑いかんねー。ちゃんと水飲まねぇと、ぶっ倒れっちまうよ」
おばさんはがらがらと笑った。
よく冷えた井戸水はなによりのご馳走だ。水を飲み干したシャインはおばさんに再び礼を言って椀を返し、教えてもらった道を辿ることにした。
その時、頭上で羽音が聞こえたような気がした。ふと空を見上げると、一羽の細長い首をした鳥が港の方に向かって飛んでいる。
「あれはひょっとして、ツウェリツーチェじゃないか?」
シャインは確信を持って鳥の姿を追った。
ヴィズルとの連絡用に使うかの鳥がこの界隈にいるのなら、当然、ロワールハイネス号も近くにあるということだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます