5-45 皇帝の秘密

 薄いヴェール越しに見えるリュニス皇帝が身じろぎした。


「何だと? それはつまり、そなたが……」


「はい。私の父はエルシーア人ですが、母はリュニス人なのです。ですが母は早くに亡くなり、私を育ててくれたのが母の妹です。私は彼女からリュニス語を習いました」


「ほう……そうか。時に訊ねるが、そなたの母親と妹は、リュニスのどこの出身だ?」


 シャインは記憶を辿りながら答えた。けれどシャインは母親の事は勿論、リオーネの過去も含め殆ど知らない。物心つく頃アドビスに訊ねたことはあるが、教えてくれなかったので、もうどうでもいいと思っていたのだ。


「リュニス本島から遠く離れた、クレスタという小さな島だと聞いています。ただ母は私が赤子の頃に亡くなり、叔母も昔の事は話したがらないので、これ以上のことは知りません」


 シャインはそこまで語って、はっと我に返った。

 亡命を望む理由にリュニスの親族がいるという話はあまりにもありふれていて、嘘だと思われても仕方がないということに気付いたのだ。

 時既に遅しだが。


「なるほど。か。クレスタ……。よく、わかった……」


 皇帝の口調が少し重いものへと変わった。

 何かよくないことを言ってしまっただろうか。


 シャインは息を潜めながら皇帝の姿を隠す、薄いヴェールの影を凝視した。

 こめかみに冷たい嫌な汗が浮いてくる。


 不意に皇帝の姿を隠す薄いヴェールが波立つように揺れた。それが中央から二つに分かれて、するすると奥へ畳まれていく。


「……」


 シャインは露になったリュニス皇帝の姿に釘付けになった。

 金色の玉座に座っているのは、シャインが思っていたよりも若い青年だった。

 年の頃は三十代前半ぐらいに見受けられる。


 リュニス皇帝は、紫の衣に金糸と銀糸で豪奢な海竜の刺繍を施した衣装を纏い、右手に見覚えのある古ぼけた赤い表紙の本を持っていた。


「これがそなたの乗ってきた船の中にあった。リュニス本島では使われていない旧語体のリュニス語で書かれていて、リュニス人がエルシーア語を覚えるために勉強していたものと思われる」


 シャインは顔を見せた皇帝に、自らの動揺を悟られないよう平静を保つのに内心必死だった。努めて物静かな口調で返事をする。


「それは私の叔母リオーネの物です。私がリュニス語を覚えるために、その本を譲ってくれたのです」

「……うむ」


 リュニス皇帝は、バーミリオンと同じ眩しい金色の髪をかき揚げ、本を手にしたまま立ち上がった。


「事情は。こうしてみてみると、そなたの顔立ちはリュニス人の方に良く似ているな。そなたの亡命、受け入れても良い」


「本当ですか!」

「だが……」


 青年皇帝の顔に影が落ちた。


「そなたをリュニスの民として迎えるにはいくつか条件がある。ここがそなたの祖国となるのだから、エルシーアのことは忘れてもらう。あちらにいる家族にも会う事は許されぬ」


「御意」


「それに伴いエルシーアでの名も不要だ。捨ててもらう」

「御意」


 皇帝が玉座から衣擦れの音と共に立ち上がり、紫の絨毯が敷かれた大理石の階段を下りてきた。シャインは膝を付いたまま咄嗟に顔を伏せた。

 鮮やかな金糸で飾られた皇帝の靴が視界に入る。その歩みがシャインの前で止まった。


「きいたところによると、そなた。あのバーミリオンに膝を付かせたそうだな」

「それは……」


 シャインは俯いたまま小さく頭を振った。


「運が良かっただけです。皇子殿下は……強い」


「まあ、そなたがエルシーア海軍の軍人ならば、その技量、合点がいく。そこで余からの提案なのだが、そなた、近衛兵としてバーミリオンに仕えぬか?


そなたも思う所あってリュニスにきたのだろうが、たった一人で商船を操り、バーミリオンの軍艦の鼻先をかすめたその技、今度は祖国リュニスへ貢献して欲しい。


リュニスは島国故、造船の技術はあるが、島々を巡る交易が発展しているので、エルシーアのように長期航海に耐える大型船を作る必要がないのだ。

だが船匠だいく達は造船技術の向上のためにも、エルシーアの船に大きな興味を持っている。そなたの持ってきたエルシーアの軍艦の図面を、奪い合うようにして見ていたそうだ」


「皇帝陛下……」


 シャインは顔を上げた。リオーネの新緑の瞳に似た皇帝の鋭い眼が、じっとシャインの返答を待っている。


「ありがとうございます。身に余る待遇です。喜んでお受けいたします」


「うむ。それはよかった。では、そなたを正式に我がリュニスの民として迎え入れよう。近衛兵隊長サセッティには、そなたのことを申し伝えておく」


「御意」


 衣の裾をひらめかせて、皇帝は玉座への階段を上がろうとしたが歩みを止めた。シャインの方へ振り返る。


「そうそう、忘れる所であった。リュニスの民となったそなたに名を授けねばならなかった。我が国では、貴族と一部の特権階級のみ、家名を名乗る事ができる。だから、そなたも今は名前のみだが、今後の働きによって家名を名乗ることができる身分を手に入れる事ができよう。しっかり励め」


「御意」


 シャインは膝を付いたまま頭を垂れた。

 皇帝が再び近付いてくる衣擦れの音がして、唐突に右肩に重みを感じた。

 皇帝自らがシャインの肩に手を置いたのだ。

 耳元で囁くように告げられたその名前を、シャインは黙ったまま聞いていた。


「リースフェルト」


「そう。それがそなたのだ。リュニスでは、そなたのように青緑の目を持つ者は、海界との関わりが深いと信じられている。実際、『深海の青』の衣を纏ったそなたを見ていると、そなたは深海の青き闇の中でも自ら光を放つ真珠のようだ。我が一族にも、その海の色が似合う者がいた。リースフェルト。


その者は女の身であったが、自ら男の名を名乗り、軍艦に乗り込み各諸島の内乱を制圧した偉大な武人だ。そなたをみると彼女を思い出す。よかったら彼女の名を受け継いで欲しい。きっとそなたを守るであろう」


「はい……」


 シャインはやっとの思いで返事をした。

 どんな名前をつけられるのか、その危惧以前に、リュニス皇帝との謁見の緊張が頂点へと達していくのが感じられたからだ。だから皇帝が自分に与えてくれた名前の所以ゆえんについて語るのも、ほぼ聞き流すようにして聞いていた。


 すべてが順調すぎて恐ろしいくらいだった。

 ただ一つ、を除いて。


「ではそなたに、早速協力して欲しい事がある」


 玉座に戻った皇帝が威厳のある声で呼びかけてきた。


「そなたはアノリアに行った事があるか?」

「はい。リュニスへ行く前に、補給のために立ち寄りました」

「そうか。では訊ねるが、アノリアで何か変わった事を見聞きしてはいないか?」


 シャインはリュニス皇帝の問いに胸騒ぎを覚えた。

 そもそも何故アノリアについて訊ねられるのか。


 シャインがエルシーアにいられなくなったのは事実だが(世間には死んだと思われているため)、そもそもリュニスに来たのは、ダールベルク伯爵家に向かっていた、アリスティド公爵令嬢ディアナの船が、リュニスの軍艦に襲われたかどうかを探るためである。


「いえ。夕刻港に入りましたが、至って普通だったと思います。ただ、街には上陸せず、知り合いの船から補給物資を受け取ったので、詳細はよくわかりません」


 皇帝は眉間をしかめ、口元に握りしめた拳を添えながら頷いた。


「なるほど。ではアノリア領主、ダールベルク伯爵に会った事は?」


 シャインはごくりと生唾を飲み込んだ。

 シャインを射るような目つきで眺めるリュニス皇帝の顔は、シャインにとって知らぬ者ではなかった。


 いや、皇帝に会うのは初めてだが、その顔は


 アノリア領主、ダールベルク伯爵の嫡男であり、現在エルシーア海軍参謀司令官であるノイエ・ダールベルクと瓜二つなそのを。

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