5-43 思いがけない名
流石リュニスの宮殿の湯殿だ。
背中を流しましょうかというメリージュの申し出を必死に断り、ようやく一人になれたシャインは、自らの状況を一時忘れる程寛いでしまっていた。
湯殿も白い大理石で作られ、海竜の形をした彫像の口からは、程よい温度の温水が絶える事なく流れ出している。乳白色をした水面には、色鮮やかな南国の花々が睡蓮のように沢山浮かべられている。そこから立ちのぼる香りを嗅ぐと、うっかり眠ってしまうのではないかと思うほどである。
船上では真水が貴重で、なかなか体を洗う事に使えない。衣服は海水で洗うとごわついてしまうので、やむを得ず真水を使うが、それも上陸のめどがついたときぐらいにしかできない。なので普段は直接海に飛び込んで、風呂の代わりにするのだ。
「
ここぞとばかり体と髪をすみずみまで洗って、生まれ変わったような、さっぱりとした気分のシャインを待っていたのは、メリージュを筆頭にずらりと並んだ使用人達だった。
「私共が着替えのお手伝いをさせていただきます」
ぺこりと頭を下げたメリージュに、シャインは再び「一人で大丈夫だから……」と言おうとしたが、今度はそれを言う暇もなかった。
「えっ、あ、ちょっと……!」
あっという間に体を包んでいた布がメリージュに剥ぎ取られ、別の使用人の女性が「袖を通して下さい」と見慣れぬ衣服を広げて、素早くシャインにそれを着せる。同時に別の使用人がシャインの濡れた髪を布で包み水気を取る。
どこからともなく小物や飾り帯や靴が現れ、シャインは着せ替え人形よろしくその場に突っ立ったまま半ば硬直していた。
折角風呂に入ったというのに、シャインの額には汗のしずくが浮いていた。
それを目ざとく見つけたメリージュが手にしていた布でぬぐい取り、満足そうな笑みを浮かべてシャインの顔を覗き込む。メリージュは傍らに控える金髪の女性の名を呼んだ。
「アリサ、髪用の香油を用意して頂戴」
「はい」
「お客様、どうぞこちらの椅子にお掛け下さい」
「あ、はい……」
シャインは半ば呆然となる気力を振り払い、メリージュに手を引かれるままとある一室へと案内された。白を基調とした造りはそのままで、太い籐の蔓で編まれた背もたれのない椅子が置いてある。そこは湯殿の隣にあるテラスで、鬱蒼とした木々の間から細く昇る双子の月――金のドゥリンと銀のソリンが見えた。
メリージュに呼ばれたアリサが、シャインに向かって愛らしいえくぼを作りながら微笑んだ。
「不思議。あなたは異国の方なのに、ぜんぜんそんな雰囲気がしない。リュニスの衣装をお召しになったせいかしら」
アリサは手にしていた硝子の壷の蓋を開けた。とろりとした淡い蜂蜜色をした香油からは、月光を浴びる森林の中にいるような香りがした。
「そうですか? 俺はさっきからリュニス流のもてなしに、驚きっぱなしですけどね」
冗談を言う余裕があったのか。自問自答しつつシャインは答えた。
「失礼いたします」
背後に回ったアリサがシャインの半ば乾いていない髪に手を伸ばす。
「リュニスは日差しと海風が強いですから、香油を塗って髪を保護するんです。香油といっても、つけた後はべたべたしませんからご安心を。お月様の光を溶かしたような綺麗な髪ですもの、ちゃんと手入れして下さいね」
「……」
シャインは返答に困った。
髪が痛んでしまうのは、常に海風に晒される船乗りの宿命と思っていたし、髪ごときにそこまで気を遣ったこともないからだ。
「さあ、支度が整いましたわ。髪を編んでもいいですけど、しばらくこのまま乾かしたほうが傷まなくていいですから」
シャインは黙って頷いた。
もうどうにでもしてくれ。そんな気持ちで一杯だった。
アリサがシャインの髪を整えて背に流し、「こんなかんじかしら」と傍らに立つメリージュに向かってつぶやいた。
「やっぱり、『深海の青』の色重ねにして正解だったかしら。アリサ」
「私もそう思いますわ、メリージュ。この方を見た時、絶対にあの青がお似合いになると思いましたもの」
二人の女使用人は満足げに仕事の成果を確認した。
シャインの目にはそう見えた。
「『深海の青』の衣装を着こなせる方はそうそういらっしゃいませんのよ」
アリサがシャインを立ち上がらせ、壁際の大きな姿見の前に連れていく。
シャインはしげしげと異国の服を見つめた。
エルシーア海軍の外洋を模した青よりも深いそれは、まるで海の深さを濃淡で表しているかのように、服の裾の方にいくに従って濃くなっている。上着の袖は、手首が見えるぐらいのやや短かめで、わざと下に着ている白い服の袖をみせるつくりになっている。上着は銀糸の刺繍で縁取られ、腰に巻かれた飾り帯もリュニス独特の文様が浮かび上がる銀色だった。
「本当にお似合いだわ。バーミリオン様も青がお似合いだけど、あなたより濃い金髪だから紫の方がより栄えてみえるの。だからこの重ねの色は一度しか着られなかった」
衣装の細かい皺を直しながら、ようやく満足したアリサがメリージュに言った。
「お支度が整った事を、サセッティ様に伝えてきます」
「え、ええ……」
メリージュの返事はどこかぎこちないものがあった。
アリサはそれに気付く事なく、湯殿の外で待機している近衛兵隊長の元に行くため部屋から出ていった。
「深海の青……月影色の髪……」
「メリージュ、さん?」
シャインは自分の顔を凝視するメリージュのそれが、生気が抜けたように青ざめていくのを見た。
「大丈夫ですか?」
シャインは呆然としたメリージュの肩に手を伸ばした。
メリージュは唇を震わせ、褐色の瞳を大きく見開いてシャインを凝視していた。足に力が入らないのか、シャインに触れられて、メリージュの膝が突如がくんと沈んだ。
「メリージュさん!」
シャインはメリージュの体を支えてその場に膝を付いた。メリージュの額には冷たい汗が浮かび、息遣いも荒い。シャインはアリサを呼んで来ようと思った。
「具合が悪いのなら、このままじっとしていてください。アリサさんを呼んできます」
立ち上がりかけたシャインの手を、メリージュが弱々しく掴んだ。
「リュイーシャ、さま」
シャインはメリージュの唇から出た思いがけない名に息を飲んだ。
「……そうよ、あの方と同じ……青緑の瞳。あなたは、誰?」
「メリージュさん」
メリージュの目はシャインを見ているようで、見ていない。その姿を誰かと重ねあうように、彼女の視線はシャインではない何かを見つめていた。
「……!」
突如メリージュが立ち上がった。
「メリージュ、サセッティ様をお連れした……メリージュ!?」
部屋の入口に姿を見せたアリサとぶつかるようにしながら、メリージュがよろめきながら走って出ていった。
「何がありましたの? お客様?」
メリージュが走って出ていった事に目を丸くしつつ、アリサが言った。
「わからない」
立ち上がりシャインはふっと息をついた。
どうしてだろう。
このリュニスの宮殿で、母を知っている人間に会おうとは。
しかもあの狼狽ぶりはただ事ではない。
例えば、死んだ人間が目の前に現れたのを見たような――。
「支度が整ったのなら、早速謁見の間に案内するが」
「はい」
こほんとサセッティが咳払いをしたので、シャインはそそくさと彼の元へ歩いていった。
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