5-42 リュニス式のもてなし
バーミリオンの乗艦する『青の女王』号が徐々に速度を落とし、投錨するためにたてた派手な水音を、シャインは暗い船倉で聞いていた。
両手首を背中に回された状態で縛られているので、臭いは気になるが、直接床に俯せるより楽な体勢でいられる。バーミリオンに斬り付けられた左腕の切り傷は、
「心配するな。深い傷じゃない」
三十代半ばと見受けられる近衛兵が、手際よく作業を終えてシャインに話しかけてきた。彼の話すリュニス語はバーミリオンのそれよりもくだけた言い方で聞き取りやすかった。シャインは近衛兵に礼を述べた。
「ありがとうございます。お陰であまり痛みは感じなくなりました」
「そうか。それはよかった」
包帯や薬が入った小箱の蓋を閉めながら、近衛兵が意味ありげにシャインの顔を見つめた。
「しかし……なんだ。まさかあんたが、あのバーミリオン皇子に膝を付かせるとは思ってもみなかったぜ」
近衛兵の問いにシャインは一瞬視線を宙に彷徨わせた。
「はは。もう無我夢中でしたから、たまたま運がよかっただけですよ」
シャインは近衛兵に笑ってみせた。だが近衛兵は真剣な顔でシャインを見つめている。笑う事が許されないといわんばかりに彼の目が険悪な光を帯びているので、シャインは唇を引きつらせて笑顔を作るのをやめた。
「どうしたんですか? さっきから怖い顔してますけど?」
シャインが訊ねると中年の近衛兵は不意に唇を歪めて頭を振った。
「本当に、お前は運が良い」
しみじみと近衛兵が呟いた。
「そ、それは俺も思います。バーミリオン皇子殿下は凄い剣の使い手で……」
「いや、そうじゃない」
近衛兵が渋い顔をしながら、じっとシャインの顔をのぞきこんだ。
「バーミリオン皇子の剣にはな、普段は『毒』が塗ってあるのだ。お前が未だにぴんぴんしている所からして、たまたまいつもの佩剣ではなく、予備の剣をお使いだったのだろう。本当についている奴だ」
「……」
シャインは近衛兵の言葉を聞いて苦い生唾を飲み込んだ。
背中を冷えた汗が伝い、顔から一斉に血の気が引いた。
「……じゃ、ここで大人しくするんだぞ」
「ええ。わかっています」
近衛兵はシャインの狼狽ぶりに気付く事なく船倉から出ていった。
ガチャリと下りた重い錠の音を聞きながら、シャインは早まる心臓の鼓動を落ち着かせようと深呼吸した。
万一相手を倒す事ができなくても体のどこかを剣で傷付ければ、刃に塗った毒で殺す事ができる。外見に似合わない華奢な細剣をバーミリオンが使う理由はそこにあるのか。
一筋縄ではいかない注意するべき人物だろう。彼は。
尤も、リュニス皇帝に会うという目的は、彼のお陰でなんとかなりそうだが。
シャインの望む『その時』は、それほど待たされることなくやってきた。
アドビスが持たせてくれたアストリッド号の設計図の写しのお陰か。
果てまたロワールハイネス号に乗っていたのが自分一人だったせいか。
バーミリオンとの試合で運良く勝つことができたせいか。
いづれにせよ、リュニス皇帝がシャインに興味を持ち、謁見の許可を得られた事は願ってもない好機である。
『青の女王』号の船倉に閉じ込められてから約二日後の夜、シャインはリュニス皇帝が住まう宮殿に連れて来られた。エルシーアと国交がないせいでリュニスは未知の国だった。大小様々な数百の島が東西に渡って点在する南の郡島国家リュニス。
その皇帝が住まう宮殿は残念ながら、目隠しをして連れて来られたせいで見る事ができなかった。
シャインの腕を取り、宮殿内のとある部屋まで連れてきたのは、『青の女王』号の甲板で顔を合わせた近衛兵隊長のサセッティという男だった。
バーミリオン皇子も背の高い方だったが、三十路を過ぎたサセッティも父アドビスを彷佛させるような大男で、かつ澱みない目をした武人だった。試合のために借りた彼の剣は標準より長く、それだけ重量が増し、扱いづらかった。
けれど今にして思えば、バーミリオンがシャインに剣の試合を挑んできたのは、明らかにその素性を探るためだったというのがわかる。
目隠しをされる時、サセッティが後ろ手に縛った縄を解いてくれた。
その時にシャインの掌を見たサセッティが小さくつぶやいた。
「剣タコだな。エルシーアでは海賊が駆逐されたときいたが、商人が剣の鍛練をしなくてはならないほど、まだ北の海は物騒なのか」
シャインのことを商人だと微塵にも思ってはいないくせに。
サセッティの心情を察しつつも、そして本当は『軍人上がりの』商人だと説明したい気持ちを抑えてシャインは言った。
「良く似ていますが、それは剣の鍛練でできたものではなく、船の操船のために長年ロープを引っ張ってできたものです。俺は十四才の頃から船に乗っていますから」
「なるほど……そうか」
サセッティはそれ以上、深く追及しようとしてこなかった。
どうやら目的の場所についたらしい。
ふわりとした花のような清楚な香りと、湿った空気が周囲に満ちているのを感じる。シャインはサセッティが腕を引っ張ったので足を止めた。
「よし、止まれ。それから目隠しを外すぞ。皇帝陛下の謁見の前に、準備してもらわねばならんのでね」
「……準備?」
目隠しの黒い布を外されて、シャインは暫し、周囲の眩しさに耐えかねて何度も瞬きを繰り返した。
床や天井、それを支える柱までもが、真っ白な大理石で作られた広い空間。
弧を描く天井からは黄金の燭台が幾つも吊り下げられ、沢山の蝋燭が燃えている。
シャインの前方の通路には、白い更紗のゆったりとした衣を纏った使用人と思しき数名の女性が、紫紺の絨毯が敷かれた床の上に膝を付いている。
「お前からは潮と鉄のにおいがする」
シャインは内心ひやりとしつつ、サセッティの顔を見上げた。
「ここは沐浴所だ。わが神聖なるリュニス皇帝陛下に謁見を賜わるからには、ここで身を清めてもらわねばならない。ついでに、まだ渡してもらってない武器も預からせてもらう」
サセッティが二度、軽く両手を打ち鳴らした。すると待機していた使用人の女性の一人が、植物の皮で編んだ籠を手にこちらへとやってきた。
長い黒髪を一つの三つ編みにして結い上げた柳腰の女性だ。後ろで控えている他の使用人の女性達も同じような髪型をしている。
「こちらにお入れ下さい」
シャインは苦い笑みを浮かべた。
もとより抵抗するつもりはない。
「わかりました……あの」
黒の
「服はこちらに。洗濯して袖を繕っておきます」
「うわぁ!」
使用人の女性がいつのまにかシャインの背後に回り、ほっそりとした指を短衣にかけている。距離が近いせいか、女性の髪から仄かに立ちのぼる甘い香油の香りが鼻に付いた。
「あ、刃物を持ってますので、危ないですから、近付かないで下さいっ!」
シャインは半ば後方に飛びずさるようにして使用人の女性と距離を離した。
「あらあら。そんなに驚かれなくても。私どもは慣れておりますから。ねえ、サセッティ様?」
女性の伏した褐色の瞳が緩やかな弧を描いて細くなった。
こほんとサセッティが咳をした。
「メリージュ、この者の武器を全部取り上げるまでは離れていろ。尤も、お前がこの者の人質になったところで、私は迷う事なく二人とも切り捨てるがな」
サセッティは用心深く、腰に帯びた長剣の柄を軽く叩いてみせた。
「あなた方に危害を加えるつもりは毛頭ありませんよ! ただ自分の事はできますので、それ以上近付かないで欲しいだけです」
メリージュという使用人の女性が困惑したように、艶っぽい唇をすぼめて首を傾げた。
「そんなに恥ずかしがらなくても。お客様の身の回りのお手伝いをするのが私どもの仕事ですし」
「いや、十分に恥ずかしいですよ! リュニスでは普通かもしれませんが、俺はエルシーアの人間ですから」
「あら。でもここはリュニスですわよ。できればこちらの慣習も、理解していただけると助かりますわ」
他人に服を脱がされるのと、人前で服を脱ぐのはどちらが恥ずかしいか。
シャインはメリージュが近寄る前に、殆ど左袖が千切れそうなシャツを脱いで、右腕に帯で巻き付けていた細剣の止め紐を外した。手伝おうと手を伸ばしたメリージュのそれに、シャツと細剣を押し付けるようにして渡す。
「ええと、まだありますから」
シャインは膝上まである愛用の
「ただの商人風情が……随分沢山の刃物を隠し持っているじゃないか」
腕を組んだサセッティの顔が意味ありげにしかめられた。
メリージュがシャインの長靴を拾い上げ、傍らに控えていた別の使用人の女性に渡した。短剣は刃に直接触れないように、布で掴んでそれで包む。
「いろいろありまして、護身のために必要だったんです」
シャインは咄嗟にそう口走った。嘘ではない。
ヴィズルが言っていた事ではないが、シャインのこれまで生きてきた二十一年間の人生において、災難に遭いやすい星の下に生まれた事は否定できない事実であった。
挙げ句の果てが、実の父親の陰謀によってエルシーアにいられなくなり、リュニスに亡命を求める始末だ。改めて、何故こんなことになったのかと問いたくなる。自分はただ、あのロワールハイネス号と共に、自由に海を往くことだけが望みだというのに。
「……成程。それだけ刀傷を受ければ、武装の必要もあるということか」
一瞬物思いに耽っていたシャインの思考はサセッティの声で破られた。
実際、十四才の頃から海軍の軍艦暮らしだったシャインには、それを証明するしるしが体中に刻まれている。操船のため多くのロープを扱った両手は一般人に比べて掌が厚くなっているし、荒天時の航海で、体のあちこちに打ち身や切り傷をこしらえることは日常茶飯事だった。
海軍にいる以上、海賊との戦闘にもなれば刀傷も免れない。昔の傷はよくみないとわからないほど薄いものが殆どだが、シャインの痩身に目立つ傷は今の所、左肩から鎖骨にかけて走るものが一つだけ。
一年前に、海賊スカーヴィズの正体を明かしたヴィズルと刃を交え、彼の剣の勢いに押されて受けてしまった些細なものだ。
傷は完治して線を引いたように白い跡になっているが、嵐が来る前とか、冷たい風が吹く時はここがしくしく痛む時がある。シャインはサセッティの鋭い目が、鎖骨についた刀傷の跡を訝しげに眺めるのに気付いた。
「俺は個人の海運業をやってますから、護衛船なんて雇えません。海賊に襲われたら自分の身は自分で守るしかないでしょう?」
こんな見え透いた言い訳でサセッティの目は誤魔化せないだろうが。何はともあれ、シャインにとって大事な事は、リュニス皇帝に自分の真意を伝える事ができるかどうかだ。亡命が許されればリュニスの民として受け入れられる事ができる。
サセッティ達の態度も次第に軟化していくであろう。
疑り深いサセッティの瞳が不意に閉じられた。
「わかった。ええと、もう武器は隠し持っていないな?」
「持っていませんよ。ご覧の通り」
全ての衣服を脱ぎ捨て一糸纏わぬ姿になると、ようやくサセッティの渋面は和らいだ。
「メリージュ、あとはまかせた」
「はい」
メリージュが柔らかな白い布をシャインの肩にかけてくれた。体を覆うのには十分すぎるその布を、シャインはいそいそと巻き付けた。メリージュの褐色の瞳が微笑む。
「湯殿はこちらでございます」
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