5-33【回想】リュニスへ至る道(1)
あの時は確かに平静の自分ではなかった。
『自ら手放すというのならその命、私が奪う。お前の命は今から私のものだ』
アドビスらしい実に回りくどい言い方。以前のシャインだったら全力を持って、彼を殴りつけてでもその場から逃げ出したであろう。
けれど今ならわかる。
あれはアドビスがシャインの父親として、決して自分を見捨てることはないという意思表示の表れなのだと。
シャインはアドビスに連れられるままグラヴェール屋敷に戻った。
岬から落ちかけたのをアドビスに止められて以来、シャインはグラヴェール屋敷の自室でほぼ軟禁状態にあった。
窓の鎧戸は閉められ、しかも開けないように外側から板を打ち付けられていた。部屋の扉にも鍵がかけられ、三度の食事と掃除の為にリオーネが来る時しか開かれなかった。何故屋敷でこそこそと隠れるような真似をしなくてはならないのか。
あれから一向にアドビスが姿を現わさないので、シャインはリオーネに悪いと思いつつ、彼女と一言も会話をしなかったし、出された食事にも手をつけなかった。
部屋に閉じ込められてから五日目。ようやくアドビスがやってきた。
アドビスは淡々と、ミリアス・ルウムの裁判が中止になったことを告げた。
「何故ですか」
寝台の上でアドビスに背を向けたままシャインは訊ねた。
「被告人が死んでしまっては、裁判などできぬからな」
「どういうことです!」
シャインは振り返り、寝台の傍らに佇むアドビスを見上げた。アドビスは海軍省から帰ったばかりなのか、黒い上着を纏ったままの礼装姿だった。薄い青灰色の瞳が、シャインをなぞるように一瞥し、やがてその視線は卓上に置かれた、冷えきった夕食の皿に注がれた。
「その前に、私もまだ夕食が済んでないのだ。シャイン、今宵は食堂に降りて、リオーネと一緒に食べる事にしよう」
「……」
「こんなところで一人で食べる食事は、確かに美味しくは感じられないだろうからな」
シャインは黙ったままアドビスの顔を睨み付けた。
「お言葉ですが、食欲がありません」
「ならばお前は、本当に死人になりたいというのか」
「ええ、俺を死人にしたのはあなたでしょう!?」
アドビスの青灰色の瞳が凄むように細くなった。
「シャイン、今度はお前が自分のやったことから目を背けるのか? 私に、自分が選択したことについて、その責任を取る覚悟があると言ったが、その言葉も偽りなのか?」
「……それは」
「私も、自分が過去犯した愚かな行為を少しでも
アドビスがそっとシャインの肩に右手を載せた。
シャインは震える唇を噛みしめながらアドビスを見上げた。
「自分を
「……」
「まあいい」
一息ついて、おもむろにアドビスがシャインの寝台に腰を下ろした。広い背中を向けて独り言を話すような口調で口を開く。
「シャイン。お前を世間から抹消したのには理由がある。私に……いや、ある方のために力を借してくれないか」
シャインは黙っていた。
アドビスはシャインに背を向けたまま座っていたが、ゆっくりと、深い金色の髪を後方にかき上げた頭が動いてこちらを見た。
「結婚式の準備の為にアノリアに向かっていた、ディアナ公爵令嬢を乗せた船が消息を断った。勿論、ディアナ様は現在もアノリアのダールベルク伯爵邸に到着していない」
「それは本当なのですか?」
掠れた声でシャインはアドビスに訊ねた。
シャインに顔を向けたまま、アドビスは眉間を曇らせ頷いた。
「本来なら今日、アノリアに着く予定らしいのだが、付近を航海していたエルシーアの諜報船が、一昨日漆黒の国旗を掲げたリュニスの軍艦が航行しているのを目撃したという。そしてかの軍艦がいた海域に、ディアナ様を乗せたダールベルク家の船の破片や荷物などが漂流していたそうだ」
「……信じられません」
「ああ。私だって信じられん。それが本当なら、リュニスは不可侵条約を破ってエルシーアの客船を襲撃した事になる」
「ディアナ様の安否は?」
シャインは無意識の内に体を起こし、熱っぽくアドビスに問いかけた。
「まだ不明だ。でも、リュニスが関わっていることは確かだろう」
ディアナの安否は不明といいつつも、アドビスの口調には確信めいたものが感じられた。恐らくアドビスは隣国リュニスの不隠を昔(参謀司令官時代)の伝手を利用して事前に知っていたに違いない。でなければ、海軍の軍艦一隻配備されていないアノリア近海に、諜報任務を受けた船がいるはずがないのだ。
「一つだけ教えて下さい。何故、それを俺に話したのか」
「それはすでに言った。お前の力を貸して欲しいからだ」
シャインは唐突にアドビスの意図を理解した。
本来はミリアス・ルウムの起こした裁判を回避するためだったのだろうが、同時にシャインをエルシーア国内から追い出すためでもあったのだ。
「俺はここに……エルシーアにいない方がいいんですね」
アドビスが珍しく
「そう。お前はここにはいられない。それにずっと屋敷で隠れ続ける事も嫌だろう」
シャインは小さく息を吐いた。
胸に風が吹くような物悲しさと僅かな痛みを感じた。
家に居場所を感じた事は今までなかった。でも一年前アドビスと和解し、互いの事を理解しあおうと少しずつ歩み寄ってきた。
海を忘れる事はできないが、ここは――家は自分の帰る場所の一つだと、最近になって意識する事ができるようになったのに。
シャインは乾いた唇を噛みしめ俯いた。
これは誰のせいでもない。
自らの選択が招いた結果なのだ。
「わかりました。でも……」
正直アドビスが自分に担わそうとしている役割が重い。
万一それが失敗したとき、ミリアス・ルウムの起こした裁判のように、アドビスを巻き込み、彼の身にも危険が及ぶことは十分考えられる。
「どうしても、その任に赴かなくてはなりませんか? 二度とエルシーアに戻れなくても構いません。ロワールハイネス号さえあれば、俺は何も望みません。それでは、それではだめなのですか?」
「そうしてやりたいのはやまやまだ」
アドビス自身も悩むように唇を歪ませていた。
「だが他に任せられる者がいない。前にも言った事があったが、海軍省の内部は混沌としている。もっと言えば、アリスティド統括将の失脚を狙い、陰謀を企て、暗躍している者達がいるのだ。今回のディアナ様の件も、ひょっとしたら彼等がリュニスと通じて行った事かもしれない。だから海軍省の人間は誰も信用できない」
アドビスの最後の言葉に、シャインは父の苦悩の深さを知った。
一年前、参謀司令官として睨みをきかせていた頃とは違い、統括将の補佐という、直接作戦の指示に関わる事ができない、ごく限られた権限に縛り付けられている苛立ちが、言葉尻にまで込められているのを感じた。
『じゃあ約束して下さいます? もしもアノリアに来ることがあったら、私を訪ねて下さるって?』
目を閉じると、アリスティド公爵邸の庭園で言葉を交わしたディアナの顔が浮かんできた。
見知らぬ土地――アノリアに嫁ぐ事が不安で、何度もシャインの来訪を念押しした。気丈な女性だが、それはアスラトル領主の娘としての教育を受け、自らの立場を常に意識しているにすぎない。不安という薄雲に包まれれば、いかな彼女でも月のように光を失う。
もしも本当にディアナがリュニスの船に拉致されたのなら――その安否と、彼女を拉致した者達の意図を誰かが探りに行かなければならない。そしてアドビスの言う事が本当なら、それは海軍省の息がかかっていない人間の方がいいに決まっている。
何故なら、リュニス側にディアナの乗った船の事を誰かが報せていなければ、都合良くリュニスの軍艦があの海域に現れる事もないからだ。
「わかりました。どこまで俺が、あなたの期待に応えられるかわかりませんが……」
シャインは僅かに口元をほころばせたアドビスに頷いてみせた。
「ディアナ様と約束していたんです。アノリアに行く事があったら、必ず
「シャイン」
シャインは寝台の縁に体を滑らせ静かに立ち上がった。
が、飲食を断ち殆ど動かさなかった体は、シャインの意思に反して言う事をきかない。周りの壁が不安定な弧を描いてぐるりと回る。
「慌て者。そんな体調で急に立ち上がるからだ」
シャインは咄嗟に伸ばされたアドビスの腕にすがった。岬の先に生える大木のように、それはどっしりとシャインの体を受け止めた。
「大丈夫です。空腹で……目が回りました」
「ならば食事はリオーネに持ってきてもらう事にするか」
「いいえ。食堂まで行きます」
アドビスの腕から手を放し、自らの足で立ち上がったシャインは、そろそろと部屋の扉まで歩いていった。やると決めたからには、ここでもたもたする時間はない。
リュニスも意図があってディアナを拉致したのだろうから、まさかその身に危害を加えないだろうが、囚われの彼女は日々恐ろしい思いをしているかもしれないのだ。
誰が彼女をこんな陰謀に巻き込んだのかは知らないが、アドビスがそれを突き止められなかった時は、自分がどんな手段を使ってでも調べて首謀者を暴いてみせる。
シャインは気分が高揚するのを感じた。
澱んだ血液が一気に体中を駆け巡って流れているようだ。
「……ふん。やっとマシな顔になったな」
シャインはアドビスが自分の顔を見ている事に気付いた。
心なしか普段は冷たい青灰色の目が愉しげに笑っているようにも見える。
けれどシャインはアドビスの笑みを睨み付けた。
「勘違いしないで下さい。俺は、あなたのためにリュニスに行くのではありません。ディアナ様が心配だから――」
「ああ、それでいい。今はな」
アドビスは簡潔にそう言うと、長い腕を伸ばしてシャインが触れるよりも先に、部屋の扉の把手を握った。
「では、詳しい内容は食事の後話すとしよう。お前にはやってもらわねばならないことが沢山あるのだ」
扉を開いたアドビスにうながされ、シャインは先に部屋の外に出た。
「そうだ。丁度客が来ていたのだ」
「客ですって?」
シャインは思わず足を止めた。
自分は世間から死んだ者と思われているのではなかったのか。
訝しむように目を細めたシャインへ、アドビスは珍しく口元を歪めながら笑みを浮かべた。
「心配するな。お前の協力者だ。食堂で待っている」
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