5-21 お前の命は私のもの

 すべてが気に入らないが仕方がない。

 グラヴェール屋敷に戻ったアドビスは部屋着に着替え、居間で寝酒用のワインを飲みながら一人思案を巡らせていた。


 アリスティド公爵令嬢ディアナの婚約パーティーで、食事会の席にシャインの姿がないことに気付いていたが、ノイエ・ダールベルクから彼が司法局に向かったことを伝える手紙を受け取った。


 ノーブルブルーの事件は、いまだ終わっていないことをアドビスは痛感する。皮肉なことに、アドビスの部下でもあった亡きルウム艦長の息子ミリアスが、船を指揮したシャインの責任を追求するために彼を告訴したのだ。


 これはきっと現行の海軍省の体制に不満を持つ者が、あるいは、アリスティド統括将直属の『補佐役』として、海軍省に戻ったアドビスの事が気に入らない者が、ルウム艦長の息子に入れ知恵したに違いない。


 アドビスは知らず知らずの内に噛みしめていた口元を緩め、卓上のグラスに手を伸ばした。

 その時、居間のガラス窓が小さく鳴った。

 風のせいかと思ったが、再び小さな石が当たるような音が響く。

 アドビスは立ち上がり、正面の窓に近付いた。カーテンを引いていないそこには、見知った顔が部屋の中をうかがっている。


 褐色の肌の中で鋭く光る夜色の瞳。野生味を感じる精悍なヴィズルのそれがアドビスの視線を捉えたかと思うと、窓を開けるように要求してきた。アドビスは錠を外し、外開きの窓を少し開けた。


「表だと目立つんで裏庭から入った。こんな所で悪いが、荷物を受け取ってくれ」

「荷物だと?」

「あんたの大事な息子だよ」


 アドビスは窓を押し広げ、ヴィズルが肩に抱えているシャインの体を掴んだ。アドビスにもたれたシャインの体は、泥酔しているかのように全身の力が抜けている。


「一体これはどういうことだ」

「悪い。ちょっと邪魔するぜ」


 ヴィズルは窓から部屋の中に入ると素早くそれを閉めカーテンを引いた。明らかに何かを警戒している。その様子を目の端で捉えながら、アドビスはぐったりしたシャインの体を近くの長椅子に横たえた。

 シャインはディアナのパーティーに行った時に着ていた黒の盛装姿のままだった。


「シャイン」


 アドビスは低い声で呼びかけた。何度か軽く青白い頬を手ではたいてみるが、シャインのまぶたは動く気配がない。


「心配しなくても大丈夫だ。ちょっと腹立ったから、手加減忘れて殴っちまっただけなんだ。しばらく眠っててくれた方がいいから、そのまま寝かしてやって欲しい」


 アドビスは小さく息を吐いた。

 ヴィズルの事だ。きっと何か面倒をおこしたに違いない。


「ヴィズル。何があったのか話してもらおうか」


 窓の前で佇むヴィズルは黙ったまま頷いた。 


「わかっている。でも、話し声でシャインを起こしたくない。別室で頼む」

「では私の書斎に行こう。こっちだ」


 アドビスはヴィズルを伴い居間を出た。




 ◇◇◇



 

「……」


 シャインはふと目を開けた。

 薄暗いがどこか見慣れた部屋。白い壁。夜空のような藍色のカーテンが引かれた窓。グラヴェール屋敷の居間と良く似ている。

 シャインははっと飛び起きた。途端、左の脇腹にずんと鈍痛が走った。


「……ヴィズルの奴……」


 シャインは長椅子に身を起こしたまま、右手を脇腹に押し当てた。

 じわりと広がる痛みと共に曖昧だった記憶が脳裏に蘇ってくる。路地で別れたはずのヴィズルが再び現れて、不意に当て身を喰らわされたのだ。いつ放たれたかわからないほど素早く、息ができなくなるほど強烈な一撃だった。


「何が何だかさっぱりわからない……何がしたいんだ? ヴィズル?」


 ヴィズルに本気で殴られた事に一抹の苛立ちを感じつつ、シャインは誰もいない部屋の中を見回した。

 部屋が暗いのですっかり夜もけている事はわかるが。グラヴェール屋敷に自分を連れて帰ってきたのはおそらくヴィズルだろう。シャインは再び長椅子に体を横たえた。


「……俺にどうしろっていうんだ……」


 額に右手をのせて、シャインは力なく目を閉じた。

 自分の身には今何が起きているのだろう。すべてが唐突で理解できない。

 わかっていることは――。


「そうだ。司法局に行かないと――」


 シャインは再び重い息を吐いた。

 告訴内容はミリアスが言っていたから理解した。

 司法局に出頭したら待っているのは長い長い取り調べだ。

 語るべきなのか? 自分だけが知っている真実を。


『ノーブルブルーの悲劇』はすでに海軍省が調査を終えて、シャインも調査委員会の下した決定に基づき処分を受けたのだ。あの場で全てを語ったのに、一部しか遺族に伝えられなかったのは――情報操作をした海軍省の意思だ。


『また逃げるのか?』

 銃を突き付けたミリアスと不安と怯えに引きつった妹ミリーの顔が浮かんできた。

 ルウム艦長の遺児。二人とも成人に達した年に見えた。

 双子だから当然か。

 シャインは長い息を吐いた。

 自分がいかに弱い人間であるかを意識する。


 彼らが求めるまま一切合切話してしまえばいいのに、それが世間にどれだけ多くの影響を与えるかということを考えると恐ろしくなって躊躇ちゅうちょしてしまう。

 ならばすべてを語らず、ひっそりとこの世界から消えてしまった方がいいとも思う。それを一瞬でも願った自分の気持ちをシャインは否定しない。

 現にヴィズルが邪魔しなければ、命を失う代わりに、今頃この思いから解放されたかもしれないのだ。


「……」


 シャインはぼんやりと部屋の天井を仰いだ。

 そう。

 ふっと唇に笑みが浮かぶ。

 これが運命なら受け入れるつもりだったのに。

 そしてこれが死の誘惑というものか。

 望んではならないと思いつつ、心の底から囁きかけるその声を、完全に消し去ることはできなかった。危険な劇薬を飲んだように、じわじわと思考が麻痺していく。


「……あなたなら、この苦しみを奪ってくれるのだろうか。俺の魂と引き換えに」


 ――ストレーシア。

 シャインは声に出さず、唇にその名を呟く。

 ぼんやりとしか覚えてないが、彼女の声は潮騒しおさいのように遠く深く、今もこの耳に響いてくる。

 ロワールが『ストレーシア』って誰? と、鼻息荒く追及してきたけれど、シャインにもかの女が何者なのか良くわからなかった。


 ただ、これだけは覚えている。

 波のようにうねる紺碧の長い髪。夜の海の水面に輝く星の眼。

 すべての思いを包み込み、受け止める真珠色のかいな

 彼女の腕の中には確かな『安らぎ』があった。


「……」


 シャインは長椅子から起き上がった。

 無性に海が見たくなった。

 海を眺めれば、このざわついた気持ちも落ち着くのではないだろうか。


 シャインは居間を出て、玄関とは反対方向の台所へ向かった。裏口からエルシャンローズの咲き乱れる庭へと出て、岬に通じる木戸を押し開く。

 外は金と銀の兄弟月がやっと天頂まで昇ったところで、幻想的な淡い光が夜の海に向かって降り注いでいた。


 シャインは一本の真直ぐな木が生える岬に向かって歩いていった。足元に生えるやわらな緑の草を踏みしめ、緩い傾斜をともなった地面を歩く。数分でシャインは木の下にたどり着いた。ごつごつした幹に片手を添え、暫く銀の波頭を輝かせる夜の海を眺めていた。


 航行する船の姿はなかった。岬の下の方で磯にぶつかる波の音だけが、海の呼吸のように規則正しく響いている。

 シャインは木の下から離れ、岬の先の方に近付いた。穏やかに見える海だが、そこから下をうかがうと、大きな波が磯場に砕けて白い泡をいくつも水面にまき散らしている。


 ここから落ちたら無事では済まないだろう。

 そしてきっと死体もあがるまい。


 岬の下は意外と深く、ロワールハイネス号のような中型船でも航行できることをシャインは知っている。その時気配を感じた。

 岬の下から吹き上げる風に前髪を乱されながら、反射的に振り返る。


「そんな所で何をしている」


 やや掠れ気味の低い声は、まぎれもなくアドビスのものだった。

 いつ気付いたのだろう。シャインが岬に来た事を。


 それを訝しみつつシャインは、アドビスから顔を背け海に視線を向けた。

 ふと疑念が脳裏をかすめた。

 彼は知っているのだろうか。

 シャインが『ノーブルブルーの悲劇』と呼ばれるあの事件で、ミリアス・ルウムに告訴された事を。


 アドビスが左足をやや引きずりながら、やわらかな草を踏みしめて、こちらに近付いてくる足音が聞こえた。


「何でもありません」


 シャインは振り返り「ただ海がみたくなっただけです」とアドビスに告げた。


「しばらくしたら……部屋に戻ります」

「シャイン」


 アドビスがまた一歩近付いてきた。

 のみで岩盤を削ったような彫の深いアドビスの顔は、シャインの言葉を信用しないかのように険しい。いつも以上に鋭いアドビスの目をシャインは直視することができなかった。その心境を察するように、アドビスは淡々とした口調で話しかけてきた。


「お前が司法局に出頭を命じられている事は


 シャインは黙ったまま俯いていた。

 ひょっとしたらとは思っていたが。


「申し訳ありません。司法局に向かう途中で……その……」


 シャインは言葉を詰まらせた。

 ヴィズルに邪魔をされた、と言うわけにはいかなかった。その話をすれば、墓地でミリアスに会った事までアドビスに話さなければならない。

 ミリアスに銃口を向けられたことを、シャインはアドビスに知られたくなかった。

 もとより自分のことでアドビスの手を煩わせたくなかった。


「あなたにご迷惑をおかけして、申し訳ないと思っています。明日、ちゃんと司法局に行きます。だから……」

「その必要はない」


 夜の静寂を破るように答えたアドビスの言葉に、シャインは耳を疑った。


「……えっ?」


 アドビスは更に一歩シャインに近付いた。

 深い金色の髪がシャインと同じように潮風に吹かれて揺れている。


「あの事件は一年前に海軍省が調査済だ。だから再調査には海軍卿エルシャン・シー・ロード六名全員の承認がいる。お前の意思であの事件を語るのは、任務上の守秘義務に反する行為となる。明日、私からそれを司法局の局長に通達するので、お前はこのまま屋敷にいるのだ」


 シャインは顔を引きつらせてアドビスから離れた。


「しかし……それでは、酷すぎると思いませんか」

「酷い? なにが酷いというのだ?」


 シャインは喉元に手を当てた。声が震える。今まであの事件のことで、自分の考えを他人に話した事がなかったからだ。


「……俺は、あの事件の真相を語るべきだと思います。決して自分の判断が正しかったとは思いません。ですが、いい加減な気持ちでエルガード号を砲撃したつもりもありません。そのことに対する責任を取る覚悟もあります。遺族の人達は、何故、エルガード号とファスガード号があのような事件に巻き込まれたのかを知りたいだけなんです。それは肉親を失った人達にとって当然の気持ちですし、伝えるべきだと思います」


「シャイン。お前の気持ちはわからなくもない。だが海軍省の意思としてそれを認める訳にはいかぬ」


 シャインは唇を噛んだ。アドビスは父親としてシャインの気持ちを理解しようと、あるいはしつつあると思いはじめていたのに。


 この事件に関しては全く別なのだ。

 海軍を愛するアドビスは、やはり情報操作に絡む一人なのだろう。


「何故ですか。俺は、間違っているのですか?」


 アドビスは岩のように顔色一つ変えない。以前の冷徹な彼に戻ったようだった。


「軍人は戦う事が仕事であり使命だ。海賊に襲われようが、正当防衛で味方の船を沈める事になろうが、あの事件に関してお前に非はない。むしろお前はやるべきことをちゃんと果した。それが一番大切な事だ」


 シャインは近付いてきたアドビスと距離をとるために後退した。

 汗ばんだ首筋に、岬の下から吹き上げる風を感じた。


「……俺の事は、どうでもいい……」


 ミリーとミリアスの真実をきかせて欲しいと訴えかける声だけが、シャインの脳裏に響いている。


「海軍省の体面が大事なら、それこそ俺のせいにすればいいじゃないですか。俺は……海軍での人生に未練はありません。そうだ……それですべてを終わらせる事ができる」

「シャイン」


 今まで大きく表情を変えなかったアドビスの眉間が僅かに歪んだ。

 シャインは岬の先端まで後退して海を背にしていた。下から舞い上がる風のせいでバランスを崩したら、そこから海に転落しかねない危うい場所に立っていた。


「何のつもりだ」


 アドビスの問いかけに、シャインは暫し沈黙を保った。自分でも愚かな行為だというのはわかっている。けれど権力を振りかざすアドビスの言いなりになるのはまっぴらだった。

 シャインはひたとアドビスの青灰色の瞳を見つめた。


「全てを話す事ができないのなら、俺は死人と同じです」

「……死ぬ気か」

「望んではならないと、わかってはいます。でも……」


 シャインは込み上げる気持ちの昂りに思わず顔を背けた。

 全てを語ろうが、ここで海に飛び込もうが、どちらを選んでも自分に救いなどないのだ。ひょっとしたらミリアスのように、誰かに銃口を向けられる日が再び来るのかもしれない。


 どうすればいいのか、急にわからなくなった。

 自分は生きていてもいいのだろうか。それとも……。

 ふっとまぶたを閉じた視界で、アドビスが近付いてくるのが見えた。


『――来ないで下さい』

 咄嗟に後ずさった右足に地面の感覚はなかった。

 体が後ろに倒れていく。

 海に落ちるのだ。そして、二度と浮かぶ事はない。


 そんな考えが脳裏を過った途端、シャインは腕を誰かに掴まれて地面へと再び引き倒された。

 甘美なる死の幻想から現実へと力強い手がシャインを引き戻す。

 やわらかな草地に背中をぶつけ、倒れた衝撃で目を開けると、青灰色の瞳を見開いたアドビスの顔があった。


 普段手櫛で後方へかきあげている前髪を振り乱して、珍しく肩で大きく息をついている。

 シャインはただアドビスの顔を凝視していた。

 いや、動く事はもとより、声を出すこともできなかった。

 長年剣を握り、軍艦で海賊と戦い続けてきたアドビスのがっしりとした硬い手が、獲物を捕らえた鷹の太い足のようにシャインの喉元を押さえ付けていたからだ。

 シャインの顔を覗き込むアドビスのそれも死人のように青ざめていた。

 やがて、その強ばった口元が動いて、シャインの耳に囁きかけた。


「自ら手放すというのなら、その命、私が奪う。お前の命は今からだ」

「……」


 シャインは不思議とアドビスに抗う気持ちが薄れていく事に気付いた。

 何故か、安心した。

 できるものならやってみろ。

 そう言わんばかりに、唇に笑みを浮かべてシャインは目を閉じた。

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