5-20 ミリアスの真意
ミリアスは右手の甲を押さえた。鈍く広がる痛みを堪え、辛うじて銃を取り落とす事だけは我慢する。
邪魔された。
ミリアスの撃った弾丸はシャインを外れ黄昏の虚空に飛び去った。
「……まあ早まるなよ」
半ばおどけたような声が後方から響いた。振り返ると、夕焼けを背に長い黒髪を一つにまとめた大柄な労働者風の男が立っている。必要があればまたミリアスに投げ付ける事ができるように、小石を左手に持って、時折それを中空に投げては片手で受け止めている。
「誰だ!」
ミリアスは男に向かって呼び掛けた。一方シャインは、その男が何者かわかっているかのように、強ばった顔をさらにひきつらせていた。
「何、手間はとらせねぇ。ちょっとこいつに話があるんだ」
黒髪の男は浅黒い肌の上からでもわかるくらい頬を上気させ、夜色の瞳を刃のように光らせてシャインに近付いた。
「どうして……」
生唾を飲み込んで、シャインが亡霊でも見るように黒髪の男を凝視する。
シャインの前に立った男は彼の肩に右手を置き、顔を近付けると親し気な口調で話しかけた。
「お前、俺のいうことを聞いてなかったのか? 気をつけて帰れよって、言っただろーが」
「……」
シャインは返事をしなかった。
いや、彼にはできなかったのだ。
ミリアスは男がシャインの鳩尾に拳を見舞うのを見た。瞬きすれば見逃すほど、素早い洗練された見事な一撃だった。
シャインは男の足元に膝をつき、ゆっくりと崩れ落ちた。男は小さく溜息をついてそれを一瞥すると、握りしめた左手の拳を解いた。それをひらひらとミリアスに振って、軽い口調で口を開く。
「待たせたな。だが、こいつにきかれたくない話があんたにあるんでね」
「誰なの? あなたは」
地面に伏せていた妹のミリーが起き上がり、ミリアスの隣に寄ってきた。
ミリアスは双子の妹と視線を合わせた。彼女の不安が痛いほど良くわかる。
男はおどけた風貌を潜め、ミリアスの心情を探るように目を細めた。
「俺のことは後で話す。それよりもあんた……あんたはわざとシャインを撃とうとしただろう」
男は片手を上げて、背後の緩やかな斜面の丘に生えている木立を指差した。
「あそこに潜んでいた奴にみせつけるため……か?」
ミリアスは黒髪の男に警戒心を強めた。
「何故それを知っている?」
黒髪の男は何でもないという風ににやりと笑んだ。
「それは簡単さ。シャインを尾行するあの男を追って、あんたがここに来たのを俺は見ていたからな」
ミリアスは唇を噛んだ。
それほど前から自分がこの黒髪の男につけられていたとは。
全く気付かなかった。
「……偶然だったんだ。僕が大聖堂に入るシャイン・グラヴェールの姿を見たのは。そして彼の後をつける、あの黒服の男が気になったんだ」
「じゃ、あんたはあいつが何者か知らなかったのか」
黒髪の男は意外そうに口笛を吹いた。
「いや……」
ミリアスは油断なく黒髪の男を見つめた。
「妹とグラヴェールが話をしていたとき、あの男が木の茂みに潜んで銃を手にしているのを見た。あの男はグラヴェールを狙っていた。きっと彼にあの事件の事をしゃべらせないよう、海軍省の放った刺客に違いない。僕はそう思って先手を打っただけだ。グラヴェールを僕が撃てば、あいつが彼を撃つ事はできないだろう? そうだ。あいつはどうした?」
「もういない。俺の気配を察して逃げた」
黒髪の男は悔しそうに息を吐いた。
「じゃ、お前はあの男が何者なのか知っているのか?」
ミリアスの問いに黒髪の男は唇を歪めて頷いた。
「知っている。昼間、シャインと一緒にいた司法局の男さ。ラビエルといったか。でもその正体は殺し屋だぜ?」
「何だって?」
ミリアスとミリーは顔を見合わせた。黒髪の男は噛み付くように、その名を言うのも汚らわしいというように、嫌悪感を隠す事なく吐き捨てた。
「頭が良いやつでね。社交界や経済界に精通していて、貴族や裏世界の大物の依頼しか相手にしない。そうか……シャインの奴。とんでもないやつに目をつけられたな。だが、あいつに気付いたあんたの勘も大したものだ」
「そんなことはどうでもいい。それより、お前は一体何者なんだ?」
ミリアスは目の前に突然現れた黒髪の男に銃を向けた。
そんな殺し屋の存在を、普通の一般市民が知るはずがない。
ミリアスの考えをわかっているのか、黒髪の男は困ったようにぽりぽりと頭をかいた。
「通りすがりの『良く気が付く通行人』じゃ駄目か?」
「当たり前だ!」
馬鹿じゃないだろうか。いや、馬鹿にされているのだろうか。
半ば憤慨しながらミリアスは叫んだ。隣にいるミリーも驚きのあまり唇を震わせて、ぎゅっとミリアスの腕を掴んでいる。
「ここは墓地よ。通行人って言い張ること自体無理があるわ」
ミリーの言葉に黒髪の男は「それはそうか」と苦笑し俯いたが、再び顔を上げたその面からはふざけた表情が消えていた。男は大真面目でミリアスとミリーに呟いた。
「俺にはあいつに――シャインに借りがある。おそらく一生を費やしても払いきれないほどのな」
「シャイン・グラヴェールの関係者か」
ミリアスが問うと男は再び困ったように眉間を寄せた。
「なんだよ。そのカタイ言い方。思い出したくない奴を思い出しちまった。……まあ、世間一般的な言い方をすれば、奴の友達ってとこだ。いや、商船の仲間って言ったほうがいいか。ちなみに俺の名はヴィズルだ」
「……それで?」
ヴィズルは言葉を続けた。
「シャインはとかく他人の面倒に巻き込まれる奴でね。ちょっと気になることがあるから、ずっとあいつに張り付いてたのさ。そうしたら殺し屋だの、あんただの、あんたの妹だのと……ぞろぞろあいつの様子をうかがっているじゃないか」
ヴィズルは呆れたように肩を竦めて両手を広げた。
「まあ、あいつの友人としての興味本位できくんだがな、誰がシャインの命を狙っている? あんたは殺し屋の目をあざむくために、わざとシャインを撃とうとした。ま、ラビエルは逃げたから邪魔させてもらったがな」
ミリアスは感心したように息を吐く。
「……ただ者じゃないな。あんた」
「俺は『よく気が付く通りすがり』だって言っただろう。海軍の坊や」
ミリアスはヴィズルの言い方に唇を歪めた。
子供扱いされたことをぐっと堪えてヴィズルに言い返す。
「気付きすぎだ。僕にその話をさせるために、グラヴェールを殴ったのか」
「最初に言っただろう? シャインに聞かせたくないから殴ったのさ」
「何故」
ヴィズルはほとほと困ったように肩を竦めた。
「奴に知られない方が都合がいいんじゃないかと思っただけさ。話がややこしくなるからな。あいつは馬鹿が百個以上付くほどお人好しなんだ。さっきだって、こいつは本気でお前に殺されるつもりだったんだぜ? わかるだろ?」
ミリーが息を詰めてヴィズルに殴り倒されたシャインを見つめている。
妹が彼に同情しているのが、ミリアスにはなんとなくわかった。
銃口をシャインに向けた時、彼は何かを悟ったように静謐な表情を浮かべ、右手に持った黒百合に視線を落としていた。
ミリアスはシャインに殺意を持っていたわけではない。
あくまでも彼を狙う殺し屋を欺くためにやった演技だ。寧ろ気分は吐き気がするほど最悪だった。
それは無抵抗の人間に銃口を向けたせいではない。シャインが自分に向かって赦しを乞うなり命乞いをする姿を見る事ができれば、真実を追求する自らの行動が正しかったのだと思えたのだ。
けれどシャインは何も語らなかった。
そしてその沈黙こそが彼の答えだった。
ミリアスは苦々しい思いが喉元まで込み上げてくるのを無理矢理飲み込んだ。
「……シャイン・グラヴェールには話してもらわなくてはならないことがある。でもそれを善しと思わぬ者が海軍省にいて、僕は彼の命を守るために、司法局に連行するつもりだった」
重い息を吐いてミリアスはヴィズルから顔を背けた。
「そうか」
ヴィズルは短く返事をした。
「でもそうしなくてよかったな。司法局にはラビエルが潜り込んでいたから、シャインを連れていったら、今頃奴の命はなかっただろうよ」
ミリアスは先程から抱き続けている疑問を再びヴィズルにぶつけた。
「本当にお前は、一体何者なんだ?」
ヴィズルは大きめの口を意味ありげに歪めて呟いた。
「時が来たら俺の事を話してもいいがな」
「どういうことだ」
「一つだけ言いたい事がある。海軍の坊や」
ヴィズルは倒れているシャインの所に近付き、憐れむように視線を落とした。
ミリアスはむっとしたようにヴィズルを睨み付けた。
「さっきから坊や坊やって言うが、僕の名はミリアスだ」
「そうかい。そりゃ悪かったな。ミリアス」
軽い言葉とは裏腹に、ヴィズルの夜色の瞳には殺気にも似た鋭利な刃のような気が籠っている。それを向けられたミリアスは一瞬たじろいだ。
「あんたは海軍の軍人だ。いわば、戦う事が仕事だな?」
「……だから、何だって言うんだ」
ヴィズルの目の中に浮かぶ気迫に捕われそうな気がして、ミリアスは生唾を飲み込んだ。ごくり、とその音が周囲に響き渡っていると錯角するほど大きく聞こえる。
「俺が言いたいのは、シャインはその使命に誰よりも忠実だったってことだ」
「……何……?」
ミリアスはひりついてきた唇を舌で湿らせた。
「見事な戦いぶりだった。船は沈んだが、シャインがエルガード号を沈めなければ、ファスガード号はもっと大きな痛手を受けて、全員が海の底に沈んでいただろう」
「あんた……何故それを……!」
ミリアスは声を震わせた。ぐっと右手の銃を強く握りしめる。
「あんたも父さんの船に乗っていたのか? グラヴェールの友人として?」
ヴィズルはミリアスを軽蔑するような、露骨に敵意を剥き出した冷たい瞳を向けた。吐き捨てるように呟く。
「俺のどこが軍人に見えるんだよ? 殴るぞ? 言っとくがな、ミリアス。俺はシャインに借りがある。ただそれだけだ。おまえらの駆け引きや悲嘆話に興味はねぇ。泣こうがわめこうが人間死ぬ時はみんな死ぬんだ。取りあえず今日の所は、俺がシャインをグラヴェール屋敷に連れていく」
「グラヴェール屋敷だと?」
ミリアスは顔を強ばらせた。けれどヴィズルは涼やかな顔で頷いた。
「司法局へ連れていくなんて今更言うなよ? あそこには海軍省の息がかかった刺客がいるってわかったんだからな。小難しい法のことはわからないが、シャインの身の安全を考えるなら、アドビス・グラヴェールに話しておいた方がいい」
ミリアスはぎょっとしてヴィズルに叫んだ。
「ちょっと待て! アドビス・グラヴェールは、アリスティド統括将の直属の補佐役だぞ! 信用できるもんか! 僕にとって彼は敵なんだからな」
ヴィズルは夜色の瞳を細めながら、ふんと鼻を鳴らした。
「あんたはそうかもしれないが、アドビスはシャインの『父親』だ」
「……」
ミリアスは息を飲んだ。
父親、という言葉をきいて、ふと脳裏に在りし日の父の姿――ファスガード号の甲板に立ち、自分と同じ道を選んだミリアスを嬉しそうに眺めていた――その光景がよみがえった。
黙っているミリアスを無視して、しゃがみこんだヴィズルは、シャインの腕を掴み自らの肩にそれを回した。
「昔のあの男ならやりかねないが今は違う。海軍省の体面を守るために、アドビスがシャインを殺そうとするとは思えねぇ。そうだろう? えっ?」
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