5-18 贖罪の黒百合
俺はここにいる。早く見つけたらどうだ。
シャインは石畳の大通りを悠々と歩いていた。司法局に向かうためである。
取りあえず出頭して嫌疑の内容を確認しなければならない。
空は茜色に染まり、夕刻五時を告げる大聖堂の重々しい鐘の音が響いていた。
シャインは顔をしかめた。
大聖堂の前を通るつもりではなかったから。
単に司法局と方向が同じだったのでここまで来てしまったのだ。
「お花はいかがですか」
西日の逆光で黒い影となった大聖堂を仰ぎ見るシャインに、十才ぐらいの少女が声をかけてきた。
先を急ぐと言おうとしたが、少女の左腕に抱えられた花籠を一瞥して、シャインは上着のポケットを探った。
「一輪くれるかい? その黒百合を」
「ありがとう。……今日は黒百合がよく売れるの」
500リュール硬貨を一枚手渡し、シャインは少女から花を受け取った。少女の抱える花籠の半分は黒百合だった。香のような独特の薫りを放つ黒百合を右手に持ち、シャインは人気を感じない静まり返った大聖堂の中に入った。
忘れていたわけではない。
でも、避けていたのかと問われれば否定できない。
『ノーブルブルーの悲劇』が起きたのは、一年前の今月のことだった。
呪われし一夜。あの海戦を、自分は一生心の奥底に沈み込ませたまま生きなければならない。それが例え神でも赦されぬ、生きる者と死ぬ者を選んだ代償なのだ。
「……申し訳ないですが、本日の献花の時間は終わっております」
緋衣に円筒形の帽子を被った若い神官が、祭壇に近付いたシャインに言った。
「明日、葬儀の予定が入りまして、これから準備をしなければならないのです」
「そうですか。それはお邪魔してすみません」
シャインは神官に頭を下げた。祭壇で献花できないのなら仕方がない。右手に黒百合を携えたまま、シャインは大聖堂の西側にある通用口の扉へ向かった。ここから墓地へ行くことができるのだ。
祭壇で祈りの言葉を口にできるとは、未だシャインには思えない。一年前、あの事件の犠牲者の数だけ黒百合を供え、彼等の冥福を祈ろうとしたのだが、祭壇の前に跪くことだけしかできなかった。
あの夜にこれほどの数の人間が亡くなっていたなんて。
シャインは跪いた自分の上に、覆い被さるほどの黒百合の花でそれを認識した。
だから、今日もそれを意識するために墓地に行く。
緑の野で草をはむ羊の群れのように、角を丸くした四角い墓石が、黄昏の光の中で金色に染まっていた。真新しい白い墓石には、染みのように黒百合の花が置かれている。花がない墓を見つけるのが難しいくらいに。
シャインはその場に佇み、ここでは無駄と知りつつ黙祷を捧げた。
彼等は海で死んだ。この墓地には誰も眠ってはいない。
ただ彼等が生きたことを証明するために墓が存在するだけだ。
シャインは海神「青の女王」が、海で亡くなった彼等の魂を救ってくれることを祈った。
「……」
目を開けると、ふと、黒百合が置かれていない墓石が一つ見えた。
遺族が忙しくて墓参りに来れなかったのかもしれない。
シャインは吸い寄せられるように、下方に向かって緩やかに傾斜する道を降りた。やはりあの事件で亡くなった者の墓だ。墓石がまだ白くて新しい。シャインは無意識の内に彫り込まれている名前を見た。
「アースシー・ルウム……」
シャインは墓石を眺めながら、ファスガード号の艦長だった彼のことに思いを馳せた。ルウム艦長には本当に世話になった。
ノーブルブルーへ命令書を届ける任務に着いたシャインだったが、その航海中嵐に遭遇し、海に投げ出されてしまった。漂流するシャインを見つけてファスガード号に救助してくれたのが、ルウム艦長だったのだ。
彼の軍歴は父アドビスと同じぐらい長い。ノーブルブルーが設立された時、旗艦アストリッド号の副長として艦長であるアドビスを支えたし、地方軍港司令官にもなれる功績をあげながら、彼は第一線の現場でいることにこだわり、二十年の長きに渡って海賊を駆逐してきたのだ。
アドビスと同じように、ひょっとしたらルウム艦長にも個人的な理由があって、海賊撲滅に執念を抱いていたのかもしれない。
「……」
シャインは右手に持った黒百合を墓に供えるため跪いた。
「やめて。ここに父はいないんだから」
背後から突き放したような、冷ややかな女性の声がした。
シャインは黒百合を手にしたまま立ち上がった。誰と問うことなく振り返る。
薄紫に暮れていく空を背に、一人のほっそりとした若い女性が立っていた。
肩で切り揃えた焦茶色の髪を風に靡かせ、澄んだ水色の瞳が射るような視線でシャインを見つめている。
「貴女は」
女性は昂った気持ちを抑えるように、きゅっと口元を噛みしめてからこちらに歩いて来た。
「私はミリーといいます。ファスガード号艦長だった、アースシー・ルウムの娘です」
「……」
ルウム艦長の娘。
どこかで見たことがある女性だと意識しつつ、シャインは彼女を凝視した。
シャインが黙っていると、ミリーは「私の事を覚えていますか?」と訊ねて来た。
「……覚えて、います」
一年前の記憶が蘇ってくる。掠れた声でシャインは答えた。
「大聖堂の祭壇に献花をしたとき、あなたが花を飾って下さった」
ミリーはゆっくりと頭を動かしうなずいた。
「そうです。けれど私はあの時、父が死んだ『ノーブルブルーの悲劇』に、あなたが関与していることを知りませんでした。グラヴェール艦長」
シャインは黙ったまま乾いてきた唇を湿らせた。
「お父上が亡くなられたこと、非常に遺憾に思います」
「グラヴェール艦長……」
シャインは冷ややかにミリーを見つめた。
「今は休職中で、今後その身分にいるかどうかはわかりません。では、行かなければならない所がありますので、申し訳ありませんが、これにて……」
「待って!」
シャインはミリーの切迫した声と悲痛なまなざしに足を止めた。
「お願いです。父は……そして夫が乗っていたエルガード号には一体何があったのですか? 教えて下さい」
シャインはミリーの『夫』という言葉に息を詰めた。彼女は父親以外にもあの海戦で大切な人を失っていたのか。
無意識の内に黒百合を握りしめる右手に力が入る。
ミリーのすがる瞳を直視できなくてシャインは顔を背けた。
「――海軍省の最終報告書に、すべてが記載されています」
「海賊との戦闘で船が沈んだのはわかったわ。でも何故海賊がノーブルブルーを襲撃したの? 二十年間、無敗だったのよ? 父の船は。あんな紙切れ一枚で、すべてを納得しろというの!?」
「……」
「私はあなたを責めているんじゃない。ただ、本当の事が知りたいだけなんです」
「……すみません」
シャインは取りすがるミリーの手を振り払い、
全てをここで語ることができたらどんなに楽だろう。
けれど事はシャインだけの問題ではない。
「ミリー。聞くだけ無駄なことだ。あいつは『あの事件』について語ることを禁じられているんだ。そして律儀に守ってるのさ。いまいましい海軍省に義理立てしてね」
シャインは立ち去りかけた足を止めた。
その行く手を遮るように、青いエルシーア海軍の軍服を纏った金髪の青年が立っていたからだ。二十ぐらいの年とおぼしき青年は、どこかで見覚えのある風貌をしていた。前髪を右側で分けて肩口で切りそろえた髪型。鋭い水色の瞳。
「ミリアス兄さん!」
ミリーが弾かれたように、軍服を纏った金髪の青年に向かって叫んだ。
彼の隣に並んだミリーを見てシャインは気付いた。
彼女の髪は焦茶色だが、目の色は青年と同じ。前髪の分け目が彼とは逆の左側。
男女なので体つきに差はあるが、彼等は双子の兄妹だ。
そして兄ミリアスの手には、小型の単発銃が握りしめられていた。
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