5-1 呼び声
「何故俺を呼ぶ――ストレーシア」
シャインは口走った自分の言葉に驚いて目を開けた。
「……」
息を詰めて周囲を見回す。まもなく夜明けのせいか、ロワールハイネス号の船長室は薄明かりの青い闇に包まれている。
シャインは仮眠をとるために、いつも横になるお気に入りの長椅子の上で、灯の消えてしまったランプが載っている卓上をぼんやりと見つめた。
「随分と、懐かしい夢を見た気がする……」
シャインは眠気を払うように両手で顔を滑らせ、目にかかる前髪を払いのけた。長椅子に寝そべったまま、船長室の低い天井を見上げる。
あれは十六才の時だった。
エルシーア王立海軍士官学校を卒業して、士官候補生として最初に配属されたのがあのアルスター号だった。
盛りを過ぎた酷い老朽艦で、船倉は嵐の度に浸水し、いつ沈没するだろうかと、会食の席でオーギュスト艦長自らが、ベリル副長や他の士官たちと賭けをしていたこともあった。
――本当に酷い船だった。
シャインは小さな胸のうずきを感じて右手を握りしめた。
海軍は完全な縦社会だ。貴族の子息や将官を身内に持つ一部の特権階級の者達が士官として君臨している。よほどの事がないかぎり民間人は士官になれない。
ただ特例で、ある程度の金を払えば海軍の官職は買う事ができた。
戦時ではない故、年々、国が海軍にかける予算は減り続け、その不足分を補うために官職の売買が暗黙の了解でなされているのだ。
アルスター号にはロ-レルと言うシャインと同い年の士官候補生がいたが、彼はアスラトルでも裕福な商家の息子だった。
先任士官候補生のキーファや、彼と同じ貴族であるアルスが、ことあるごとにローレルに『お前と我々は住む世界が違うんだ』と、侮蔑をこめて嫌がらせをしていた。
けれど裏を返せば、キ-ファやアルスが煙たがっていたのは、自分の存在ではなかっただろうかとシャインは思う。
オーギュスト艦長は明らかにシャインに気を遣っていた。アドビスの指摘がなければ、シャインは艦長付きの士官候補生として別室を与えられ、キーファたちとは別待遇でアルスター号に乗ることになっていたのだ。
勿論これはオーギュスト艦長の独断だ。
シャインがアルスター号でなんらかの功績をあげれは、それは師である艦長の功績にもなる。オーギュスト艦長の依怙贔屓にシャインは辟易し、同時にそれを見抜いているキーファ達の視線は冷たく、士官候補生部屋で居心地の悪い思いをしていたのは言う間でもない。
だからこそ、ローレルの笑顔には何度も励まされた。
彼は決して士官候補生として優秀だったわけではない。頭が良くて計算が得意だったが、集中力が長く続かず、商港で流行っている小歌を甲板で歌ったり、気さくに水兵達と雑談に応じたりしていた。
その度にベリル副長に怒られて、何度も懲罰を受けるのだけれども、「これがぼくの性格だから仕方がない」そういって、態度を改めるよう忠告したシャインに笑顔を向けた。
君が羨ましかったよ。
どんなに苦しい時も自分を偽らない、その強さが――。
シャインは長椅子から体を起こした。
何故こんな夢を今頃見たのだろう。
アリスティド統括将からもらった一年間の休暇がまもなく終わるせいだろうか。
そして、海軍に戻らなくてはならないからだろうか。
辞めても良かったのだ。
海軍に入ったのはそもそも自分の意思ではない。
けれど最後の最後で思い止まった。
海軍を辞めるという事は、今までの自分から『逃げる』ということと同じだと思うから。
アスラトルのグラヴェール家といえば、歴代海軍将校を排出している事で有名だ。だからシャインは、海軍に入れられたのは必然で、国に奉仕する事がグラヴェール家に生まれた自分の義務だと思って反発しなかった。
けれど実際はそんな覚悟だけでは足りなかった。
自分の役目を果たさなければいけない。そう思えば思う程、現実の厳しさから目を背けたくなる事が何度もあった。
アルスター号の士官候補生達の間で行われた、陰険な虐めもそうだ。
シャインがいなければひょっとしたらローレルは、あそこまで他の士官候補生達に酷い扱いを受けなかったかもしれない。
見て見ぬ振りをしていれば、彼等はローレルとシャインを雑用艇に乗せて海に流すという暴挙に出なかったかもしれない。
かの船は皮肉な事に、シャイン達が巻き込まれた同じ嵐のせいで海に沈んだ。舵が荒波で壊れ、操船不能となった所で暗礁に乗り上げ大破したのだ。
海はアルスター号の乗組員244名を容赦なく飲み込んだ。
シャインはアルスター号が大破した暗礁から少し離れた浜に倒れていた。
唯一の生存者だった。
俺は何故、こんな所にいるのだろう。
そう思う度シャインは自らにいいきかせた。
海軍にいるのは自分が望んだ事じゃない。アドビスの意思だ。
父の意思から自分は逃れる事ができないのだ――と。
「……」
シャインは両手を組み額を押し付けると目を閉じた。
当時は子供だったとはいえ、責任転嫁も甚だしい。
けれど今それを問われたら。
シャインは組んだ両手に額を押し付けたまま唇に笑みを浮かべた。
今はある。
苦しくとも海軍を辞められない
グラヴェール家の男達が海軍に執着するように、シャインもまた自らの船に執着していた。
海軍に在籍しなければ出会えなかった船。ロワールハイネス号。
その姿はシャインを魅了してやまなかった。
設計図を友人である造船主任のホープに見せてもらった時から。
士官学校を卒業して以来、士官が五人以上いる等級の大きな船ばかり乗っていたので、通称『使い走り』と揶揄されるこの小さなスクーナー船は、シャインが忘れていた純粋に自ら船を操ることの楽しさを思い出させてくれた。
そしてこの船に乗っている時だけが、シャインがシャインでいられる唯一の場所だったのだ。
人に言えば笑われるかもしれないが、彼女だけがシャインの思いを受け止め、暖かく見守ってくれたのだ。この世で誰よりも。
建造に参加して、一から彼女の誕生を見てきたせいかもしれない。
単に過剰な思い入れなのかもしれない。
でも、これだけはいえる。
ロワールハイネス号は、俺の船だ。
俺の分かたれた魂が宿る、もう一つの『自分』だ。
彼女との別離はありえない。
彼女が海に沈む時は自分も一緒なのだから。
『あなたが海で死ぬ時は、私が必ず迎えに行く――』
シャインは脳裏に声が響いたような気がしてはっと息を詰めた。ここ数日、記憶の底から湧きあがるように暗い過去の夢を見る。
誰かがシャインを呼んでいる。
夢を見ている時は誰だかわかっているのに、目が覚めるといつも忘れてしまう。
「あら起きてたの? シャイン」
シャインは顔を上げた。今の声は現実のものだ。夢ではない。
その証拠に、目の前には淡い微光に包まれた一人の小柄な少女が立っている。
否。
少女は妖精のようにつま先を床から少し浮かせて佇んでいた。
船には人の強い想いで精霊が宿るといわれている。
目の前に現れた彼女こそが、このロワールハイネス号に宿る船の魂であり、船乗り達に『船の
彼女は十七才ぐらいのやや幼さを感じる顔に、夕焼けを思わせる鮮やかな長い紅の髪を揺らし、ほっそりとした両手を腰に当ててじっとシャインの顔をのぞきこんでいた。気の強そうな透き通った水色の瞳には、僅かに戸惑いと苛立ちが感じられる。
「ロワール。あ、すまない。そろそろ甲板に上がって操船を替わるよ」
シャインは寝過ごしたことをロワールに詫びた。
実はロワールハイネス号は、操船に必要な人手が絶対的に不足していた。
乗組員は船長であるシャインの他に、臨時の航海長として乗り込んでいる友人ヴィズルと、海軍の時から水兵として在籍しているエリック。そして料理担当の少年ルミル――この四人しかいない。
どうして四人になってしまったのか、その理由を端的にまとめると、ひとえにシャインの懐事情のせいだった。
シャインは実感していた。いや思い知らされた。
この一年ロワール号を商船として動かしてみた結果、自分に全く商才がないということを。
軍人あがりのシャインは決して交易に明るくない。仲買人たちは狡猾で、少し話しただけでシャインが全くの素人である事を見抜いてしまう。
そしてロワールハイネス号が諸国をめぐる航海へ出た本当の理由は、『青き悪魔』と言われ人の魂を飲み込む恐ろしい魔鉱石ブルーエイジで作られた『
その事に気をとられたせいだろう。
商品の仕入れを任せた会計係に現金を持ち逃げされたことも数回――。
偽物をつかまされ、代金を踏み倒され、商品の品質にいいがかりをつけられたこともあった。
こちらも甘い認識だった。
商船が気楽でいいと思っていた自分をシャインは恥じた。
その結果、交易で収益を上げられないロワールハイネス号から水夫たちは去っていった。乗組員はエリックと、料理担当の少年一人しか残らなかった。
流石にこの人数では船を動かす事ができない。
シャインはやむを得ず、休暇が後三カ月で終わるという時に、友人ヴィズルの手を借りた。
取引を何度かして知り合いになった、王都ミレンディルアの金属加工の工房から、とある鉱石の仕入を依頼されたのだ。現在はその仕事を無事に終え、アスラトルに帰る航海の途中である。
ロワールハイネス号は青緑色を帯びた懐かしいエルシーア海に入り、風さえこのまま続いてくれれば、今日の夕方には母港アスラトルに着く予定だ。
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