4-99 父と子

 シャインは口を開いた。

 無意識の内に声が出た。

 今まで何度も言おうとしたけれど、言う事ができなかった、その想いを――。


「今更、どうしてそんな事を言うのですか? どうして聞かせるのですか? そこまで俺の事を思って下さっていたのなら、何故あなたは、今まで俺と向き合ってくれなかったのですか!」


 アドビスが虚を突かれたように両目を見開いた。それをにシャインは睨み付けながら、心の奥底から湧いてくる鬱積した感情が、嵐のように体内を駆け巡るのを感じた。


 もう抑えきれない。抑えるつもりもない。

 こうなったら成り行きだ。

 シャインは青緑の瞳を細め、アドビスを見やった。


「あなたは一方的に、俺とは常に距離を置いて接してきました。理由を告げることなく。俺はあなたが何故そのような態度をとるのか、ずっと悩んでいました。あなたは、母の事を口にするのを嫌っていたから、詮索する俺の事が疎ましいのだと思っていました。けれど……」


 シャインはアドビスの寝台の側に両膝をついたまま、今は厳しさが消えて青ざめた父親の顔を見つめた。


「屋敷の敷地にある岬で会った時の事を覚えていますか? あなたはあの時、ご自分を憎むよう俺に言いました。でもそれは、母を死なせた負い目を感じていたから、あんなことを言ったのでしょう?」


 アドビスは唇を噛みしめたまま、声を出さず小さくうなずいた。

 シャインはそれを見てゆっくりと息を吐き出しながら言葉を続けた。


「けれど俺は……」


 シャインはうつむき、頭を振った。


「俺には、あなたに母を奪われたのだという感情は湧きませんでした。だって、赤子の時に死に別れた俺にとって、母という存在はどんなものであるかよくわからなかったのですから。俺にとって必要だったのは、この世にいないではなく、こうして顔を見ることができる、だった……」


「……」


 シャインは指輪を握りしめたまま、その上に置かれているアドビスの大きな左手に視線を落とした。動揺しているのか小刻みに震えているのがわかる。

 それが傷のせいなのか、感情のせいなのかはわからないが。


「俺はあなたに避けられることが辛かった。何故避けられるのか、その理由を何度も聞こうと思いました。でも、あなたに本当に拒まれるのが怖くて。ツヴァイス司令から、俺が亡き母に似ていると聞かされた時、そのせいであなたに受け入れてもらえないのだと思いました」


「……シャイン」


 今まで黙ってシャインの話を聞いていたアドビスが、体をシャインの方へ動かしてその顔を見つめた。


「確かに、お前の中にはリュイーシャの面影を強く感じる。だが、お前を避けていたのはそんな理由ではない。私が……私の心が弱かったせいなのだ」

「……心?」

「そうだ」


 アドビスは静かに目を伏せて嘆息した後、再び青灰色の瞳を開いた。左腰に受けた傷の痛みもあるせいだろうが、額に浮いた小さな汗の粒が、アドビスの顔に強い焦燥感を漂わせている。


「リュイーシャを失ってから、私は恐れていた。誰かを再び深く愛することを。愛すればそれは私にとって、大切なになる。それを再び失う苦しみを、私は味わいたくなかったのだ……」


 アドビスはシャインの左手を握りしめた。

 言葉と共に強く、強く握りしめる。


「だから愚かな私は、リュイーシャを失ったあの夜二十年前、心に決めた。もう二度と、人を愛すまいと。私にとって大切な者を、二度と作るまいと――」


 アドビスは見つめ返すシャインの視線に耐えられないのか、思わず身じろぎして顔を背けた。語尾がかすれて震えていた。顔を背けたままアドビスは言葉を続けた。


「私は自らの苦痛を逃れるために、お前の気持ちを知りながら、お前の心を今まで傷つけてきた。そんな私に、お前を愛する資格はない。けれど……」


 アドビスはなんとか気力を振り絞って、再びシャインの方を向いた。気恥ずかしそうにアドビスは目をしばたいたが、穏やかな光をたたえたその目は、信じられない程優しさに満ちている。

 シャインは黙ったままアドビスの視線を受け止めた。


「シャイン、今こそ私は自分の気持ちにでありたい。私はお前を失いたくなかった。私の命に代えても。お前は、私の大切な息子だから」

「……」


 シャインは唇を噛みしめ頭を垂れた。アドビスの顔が不意に揺らいで見えた。

 涙だった。

 まばたきをするとそれは頬を静かに伝って流れた。

 アドビスの本心を知ったせいか、それとも望んでいた言葉を聞くことができたせいか、胸がつまって言葉が出ない。


 確かにアドビスはシャインを避けていた。

 けれどそれは、リュイーシャを死なせた良心の呵責からくる罪悪感と、愛する者を失った喪失感ゆえの行動だったのだ。本当にシャインのことを疎ましく思っていたのなら、それこそ赤子の時に遠くの親戚にでも養子として出していたはずである。


「……」


 アドビスに言いたい言葉があるのに、やはり胸に込み上げる感情のせいで声が出ない。唇が震えて舌が凍り付いたように動かない。


 その時、左手を握りしめていたアドビスの手が離れたかと思うと、それはシャインの右肩に触れた。子供の頃感じたように、大きなアドビスの手のひらがシャインの頭を包み込み、そっと、けれど力強く懐へ引き寄せた。


 シャインは黙ったまま、頬に当たるアドビスの体温を感じていた。

 今まで感じたことがないくらい、目眩がするほどの大きな安心感に、心が満たされていくのがわかる。


「シャイン。私はお前にふさわしい父親ではなかった。だからお前も、私の事は今まで通り意識せず、これからも自分の意志を強く持って生きていけばいい」


 アドビスは伏せたシャインの頭に手を置くと、優しく華奢な金髪を梳いた。


「お前の心は私の側になくても、お前が物事を自分の力で判断し、その足で前に進んでいく姿を、傍らで見守るだけで私は幸せだった。それが誇らしくうれしかった」


 シャインはアドビスの声を聞きながら、左手に力を込め、ようやく伏せていた顔を上げた。流れた涙のせいで頬が濡れ、前髪が数本張り付いて酷い有り様だ。

 それを手で払いのけ、アドビスを見つめる。

 そこには今まで感じたような距離感はなかった。

 シャインに対して後ろめたい気持ちはあるようだが、その青灰色の双眸は彫の深い眼底の奥で優しく光っていた。


 自分の存在を受け入れてもらえている。初めてそう思った。思えた。

 シャインは母親の形見の指輪を握りしめながら、アドビスに向かって幾分硬いが、唇に今できる精一杯の笑みを浮かべた。


「俺はあなたに欲しかった。あなたの息子として、欲しかった」


 アドビスが目を細め、静かにうなずいた。

 胸につかえた氷塊が解けていく。

 シャインは勇気を出して言葉を続けた。


「ですから、これからも俺の事を見守って下さい。お願いです。……父上」


 肩に回されたアドビスの手がぎごちなく震えたかと思うと、ぐっと再びそれに力がこもり、アドビスが顔を背けるのが見えた。

 そして押し殺した小さな嗚咽が静かに聞こえてきた。




   ◇◇◇




 それから一時間後。

 ロワールハイネス号からエアリエル号に乗り込んできたリオーネは、ジャーヴィスに案内されてサロンまでやってきた。


「二人とも無事で安心しました。眠っていると思いますから、顔だけ見て参りますわね」


それを聞いたジャーヴィスは一瞬顔をしかめ、数秒遅れてリオーネに向かってうなずいた。


「どうぞ。私はでお待ちしております」

「どうかしました? 一瞬顔をしかめたりして」


 ジャーヴィスはなんでもないという風に首を振った。その態度にますます怪しさを感じたが、リオーネはふんわりと柔らかな笑みを浮かべたまま、サロンの木の扉の把手に手をかけた。


「まあいいわ。あなたも今日はちゃんとお休みなさい。ジャーヴィス副長」

「はっ……」


 リオーネはジャーヴィスをたしなめるようにそう言うと、サロンの扉を開けて中に入った。

 ジャーヴィスから聞いたとおり、カーテンが引かれた部屋の奥の方に、二つの寝台が並べて置かれていて、向かって左側のそれにアドビスが裸足の足を突き出して眠っている。


「まあ……」


 リオーネはアドビスの寝台に近付いて、思わず微笑を浮かべた。

 シャインが航海服姿のまま、アドビスの寝台の傍らに座り込んで、その枕元に頭を乗せて眠り込んでいる。微熱があるせいかその頬は少し上気しているが、薄い唇にはうっすらと微笑が浮かび、まるで幼い子供のように安心しきった、あどけない寝顔だ。


 そのシャインの肩にはアドビスの左手が乗っていた。アドビスもまた肩に引き寄せたシャインの方に顔を向け、穏やかな表情で眠りに落ちている。


 いつもひきしめられている口元のしわも、深く刻まれた眉間にあるそれも、余計な力が抜けて、昔、リュイーシャが生きていた頃のアドビスに戻ったようにリオーネは一瞬錯角した。こんなに満ち足りた表情のアドビスの顔を見ることは久しくなかったことだ。


 リオーネはしばし、アドビスとシャインの顔に見入っていた。

 そしてきびすを返すと、再び静かにサロンの扉を開けて部屋を後にした。


 外に出ると、そこには何となく落ち着かない様子のジャーヴィスが立っていた。

 リオーネは直感した。


 口元に微笑を浮かべ、自分の顔を意味ありげに見つめるジャーヴィスに声をかける。


「知っていたのね」


 ジャーヴィスは肩をそびやかし、けれどリオーネの表情を見て観念したように小さくうなずいた。


「心配だったので、つい先程。……すみません」


 リオーネはジャーヴィスの背に手を回し、何度か軽く叩いてから連れ立ってその場を後にした。


 ジャーヴィスはそれ以上の言葉を言おうとしなかった。

 彼もきっと、自分と同じことを感じたのだと思う。

 口に出したら、その美しい印象が薄れてしまいそうだから――。


 リオーネは再び騒がしい上甲板への階段を昇りながら、もどかしい思いで見つめ続けていた、親子の寝顔を思い浮かべた。


 互いが血を流した心の傷を癒すように、今はただ眠り続ける父と子を。


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