4-85 すれ違う心
ロワールハイネス号がアスラトルへの帰港を取り止め、急遽エアリエル号の元へ戻るよう進路変更して四時間あまりがすぎた。
その移動時間を利用して、シャインはリオーネ、ジャーヴィスと共に、艦長室で久しぶりにまともな朝食を取りながら、これまでの経緯をざっと話して聞かせたのだった。
ロワールハイネス号は上げられる帆を全て上げ、後方から吹き付ける東風に船体を斜めに傾斜させ、マストをびりびりと震わせながら、碧海を滑るように走っている。
そう、シャインは急いでいた。
アドビスと海賊の戦闘が始まってしまったら、エアリエル号には近付けないかもしれない。そうすれば捕まっているであろうヴィズルを助けるために、エアリエル号へ乗り込む事ができないからだ。
だが事情を知ったリオーネの態度は実に協力的だった。早くエアリエル号の所に戻れるように自らの力を行使して、必要な強い東風を呼び寄せてくれたのだ。
おまけにロワールも、早くエアリエル号の元へ行きたいシャインの気持ちを汲んで、自分なりに考え、速度が増すよう、船体や帆の角度を調節してくれたらしい。
それらのおかげでロワールハイネス号は、夜半一杯かかった行程を四時間に短縮して走ってきたのだった。
「グラヴェール艦長」
控えめなノックの音と共に艦長室の扉が開き、航海服姿のジャーヴィスが部屋に入ってきた。シャインは応接用の長椅子に腰掛け、肘かけに左腕を乗せて目を閉じていたが、ジャーヴィスの声で身じろぎをし、目蓋を開いた。
食後に飲んだ解熱薬のせいで、何時の間にか眠り込んでしまったらしい。
多分眠っていたのは三十分ほどだと思いながら、左腕を上に向かって突き出し、伸びをして、出てきた欠伸を噛み殺す。
「起こしたくなかったのですが、島が見えてきましたので。それにどうやら戦闘が始まっているようです」
近付いてきたジャーヴィスと目を合わせ、シャインは眠気を払うようにゆっくりと首を振った。
「本当かい?」
「はい。エアリエル号とおぼしき船が島の東の方へ止まっていて、あちこち白い煙が上がっております」
シャインは汗ばんだ額に貼り付いた前髪を無造作にかき上げて、思わずため息を漏らした。戦闘は始まったばかりだろうか。それとも決着がついてしまったのだろうか。
「ジャーヴィス副長。それじゃあ、エアリエル号に乗り込む段取りを確認しておこうか」
いつもは大きく表情を崩さないジャーヴィスが、一瞬何かを言おうと口を開きかけ、けれど考え直したのか薄い唇を噛みしめた。
「ジャーヴィス副長?」
「あ、はい。すみません」
シャインは何時ものジャーヴィスらしくない態度にひっかかるものを覚えた。
だがジャーヴィスはすっかりすました顔で軽く頭を下げると、シャインの向かい側の椅子に腰を下ろした。
事情を話したとはいえ、ジャーヴィスもジャーヴィスで胸の内は色々と思うことがあるだろう。毎度ながらジャーヴィスには迷惑をかけている事を、実感せずにはいられない。
シャインは心の中でこれが最後だからと呟き、晴れ渡った空のようなジャーヴィスの瞳を見つめた。
「ロワールハイネス号をエアリエル号に接舷させて、俺と君が船に乗り込む。ロワールハイネス号は一旦、戦闘海域から離脱させる」
シャインの言葉にジャーヴィスは軽くうなずいた。
「中将閣下は船倉へヴィズルを閉じ込めるよう、おっしゃっていました。とにかく船に乗り込んだら、下に降りてヴィズルを探しましょう」
「ああ」
シャインはジャーヴィスの言う事に同意した。
「問題は……助けたヴィズルが、素直に我々と一緒に同行するかどうか、です。ヴィズルは月影のスカーヴィズを殺したのは、まだ中将閣下だと思っているんですよね? だからその仇を討つため逃亡するかもしれませんよ」
シャインは肘当てに左腕をのせて頬杖をついた。
ジャーヴィスに言われるまでもない。
「ジャーヴィス副長。ヴィズルを助けた後のことだけど……」
「はい」
シャインは長椅子から立ち上がり、その背にひっかけてあった航海服に袖を通した。
正直なところ、シャインはヴィズルと出会っても、戦いをやめるよう説得できる自信がなかった。
ティレグ本人の口からスカーヴィズ殺しのことを聞いたものの、ティレグが犯人だとはっきりわからせる証拠は何一つない。そのせいですでに説得は一度失敗しているのだ。
シャインは航海服のボタンをかけ終え、身なりを整えてから、左手を長椅子の背に置いた。それで船の揺れから体を支え、静かに、だがはっきりした口調でジャーヴィスに告げた。
「ヴィズルが逃げたら、彼を追わないでくれ。俺は海軍に拘束されている彼を、解き放つためにエアリエル号に戻るんだ」
ジャーヴィスが大きく息をついて、ひたとシャインを見つめた。
「艦長……それでは、何のためにエアリエル号に乗り込むのか、私は理解できません。あなたは、ヴィズルを助けたいのでしょう?」
シャインは唇を噛みしめた。
「そうだ。ヴィズルが捕まったのは……俺のせいだからね。ヴィズルは俺の頼みで、あの人と二十年前のスカーヴィズ殺しの真相について、話をすることに渋々同意してくれた。だけど俺は
ジャーヴィスは呆れたようにつぶやいた。
「見殺しにすれば夢見が悪いから、助けに行くと言う事ですか」
「ジャーヴィス、俺は……」
「あなたの話を聞いていれば、そんな風に取れますよ。あなたはヴィズルのためではなく、自分の罪悪感を解消したいがために戻るのです」
シャインは長椅子に再び腰を下ろし背中を預け、左手を額に当てた。
「君がそう思いたければそう思えばいいさ。だけど俺だって、本当はあの人とヴィズルを戦わせたくないんだ! でも……」
ジャーヴィスは冷ややかにシャインを見つめて、後に続く言葉を待っているようにうなずいた。
「でも?」
ジャーヴィスはすべての行動において、理由をつけなければ動かない人間なのだろうか。心で、感情で、そうしたいと行動を起こす事はないのだろうか。
シャインは額から手を下ろし、胸の内のもどかしさを口にした。
「俺の気持ちは板挟みになってる。俺はヴィズルを助けたい。こんな戦いで命を落として欲しくない。でも俺は、ヴィズルの気持ちも知っている。スカーヴィズは違うが、あの人がエルシーア海賊を駆逐したのは事実なんだ。俺は、仲間を殺された恨みを晴らす権利までヴィズルから取り上げることはできないし、彼がこの戦いに、自分の人生の全てを賭けているのを知っている。だから俺は、ヴィズルを止める事ができないんだ」
ジャーヴィスは腰を下ろしたまま黙って、膝の上で両手を組んでいた。
その沈黙はシャインに息苦しさを与えた。
ジャーヴィスが何を案じているのか気になった。
ふとジャーヴィスが顔を上げてシャインを見つめた。先程までの、高飛車なジャーヴィスらしくなく、憔悴しきった、苦悩に満ちた表情だった。
「ジャーヴィス副長?」
そんなジャーヴィスの様子に驚いて目をやると、彼は肩をそびやかし、やっと心を決めたように口を開いた。
「艦長。私もヴィズルと中将閣下が戦う事は反対です。ただし、あなたとは逆の理由で……」
ジャーヴィスは言いにくいのか、歯切れの悪い言い方をする。
シャインは気になるので、じっとジャーヴィスの言葉を待った。
ジャーヴィスは大きくため息を一つつき、やりきれない様子で両手を握りしめた。
「中将閣下は、全てを終わらせたら、ヴィズルの手にかかって死ぬつもりです。あの方はそれで、ヴィズルへの罪滅ぼしをするつもりなのです。ですから、お父上とヴィズルを絶対に会わせてはだめなんです。グラヴェール艦長!」
「……」
シャインは一瞬ジャーヴィスの言う意味が飲み込めず、彼の顔をただ見つめるばかりだった。
「ヴィズルへの罪滅ぼしに、あの人が死ぬ……? そんな馬鹿な」
「嘘ではありません。私は中将閣下とヴィズルのやりとりを聞きました。閣下は縛り上げたヴィズルに向かって、自分の命はまだやれないとおっしゃったのです」
シャインは胃の辺りがずっしりと重くなり、気分が滅入ってくるのを覚えた。
だから、何だと言うのだ。
あの男がヴィズルの一生を狂わせた代償を、自分の命であがなうと言うのなら。少なくともヴィズルにすまないと思う気持ちがあると言うのなら。
「俺はあの人を、とめる気はない……」
「艦長っ!」
シャインはふらりと執務机に向かった。引き出しの中を探り、すでに手入れしてあった自分の銃を取り出す。銃身は銀色をしており、握りには象牙がはめ込まれ、エルシャンローズの花が浮き彫りにされている。
ジャーヴィスが椅子から立ち上がり、執務机まで歩いてきた。
「艦長、あなたが中将閣下のことを嫌っているのは知っています。けれど、それは誤解なんです。中将閣下は、本当は、あなたのことを……」
「やめてくれ、ジャーヴィス!」
シャインは自分でも驚くぐらいの大声でジャーヴィスを怒鳴りつけていた。
心臓が、こめかみが、どくどくと激しく脈打ち、頬が再び上気してくる。
シャインは航海服のポケットに銃を突っ込み、執務机の右側に立つジャーヴィスを避けて、左側から離れて扉へと歩いた。
早くここから出なくてはならない。
出なければ、きっと気が狂ってしまう。
ジャーヴィスと目を合わせた途端、真面目な彼は、アドビスのことをべらべらと話しだすだろう。
「艦長っ」
ジャーヴィスの声が背中で聞こえたが、扉の把手に手をかけたシャインは、振り返ることなく追われるように部屋を出た。
聞かせないでくれ。
今更、あの男の考えなど。本心など。
今まで自分を突き放してきたくせに。
今まで好き勝手に振る舞ってきたくせに。
今まで散々、傷つけてきたくせに……。
昨日エアリエル号で対峙したアドビスとのやり取りを思い出し、シャインはあの時感じた喪失感に、その苦痛に再び苛まれるのを覚えた。
確かに、強情を張った自分も悪いとは思っている。
変に条件を突き付けず素直に話していれば、アドビスもシャインの要求を飲んで、ヴィズルとの話し合いに応じてくれたかも知れないと思う。そんな風に考えるのは、アドビスのことを父と呼ぶ事は絶対にできないけれど、心の奥底にはアドビスに対する、父親を慕う情が残っていたからだ。
それがあったから、今までアドビスのことを嫌悪しても憎むことまでできなかった。けれど裏を返せば、それはシャインの抱いていた唯一の甘えだったのかもしれない。
親子なのだから。
まさか、そこまではしないだろう――と。
そんな気持ちがあったから、アドビスからあのような仕打ちを受ける事になるとは思ってもみなかったし、信じられなかった。話を聞き出すために、ジャーヴィスの命さえも奪おうとしたことも許せなかった。
アドビスの行為はシャインが心の奥底で抱いていた、親子という必要最低限のつながりを一方的に断ち切り、その想いを砕くには十分だった。
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