4-51 帰るべき場所
銀の月ソリンは真円に近い形で天に昇り、神々しいまでの光を、真夜中がすぎて眠りにつくアスラトルの街へ淀みなく降り注いでいる。
身の回りの品を手当たり次第に詰め込んだ大きな鞄を手に、航海服姿のジャーヴィスは、その裾をはためかせつつ軍港に急いでいた。
『私に報告する事があるならば、一時間後にまた来るがいい』
クラウスを自宅まで送り届け、シルフィードに今後の事を頼んでから、ジャーヴィスはアドビスに言われた通り、ぬけぬけとその姿を彼の執務室に現わした。
アドビスは険しい顔でジャーヴィスを見つめていたが、すでに議論する事は無意味だとわかっていたのだろう。あっさりジャーヴィスの同行を認めてくれた。
『出港は午前3時。海原の司・リオーネの力を借りて順風を吹かせるから、時間厳守だ』
そう告げたアドビスの口調は実に淡々としたものだったが、その心境は穏やかではないようにジャーヴィスは感じた。
アドビスの左手には亡き妻の――そしてシャインが片時も外さなかったブルーエイジの指輪が、青く小さく光っていたのを見てしまったから。
それにしても、あのヴィズルが海賊だったとは。
意外と言えば意外だが、あの人を見下したような態度。物おじしない言い方。
礼節を欠いたふるまい。その一挙一動を思い返してみれば、なるほどと思う。
ジャーヴィスは足を早めながら軽く嘆息した。
しかしシャインはヴィズルの行方をどうやって知ったのだろう。
いや――そもそもヴィズルの正体を知っていたのか。
ジャーヴィスはもどかしい思いを噛み潰した。
何も知らないのだ。私は――。
何しろファスガード号で砲撃を受けて負傷してからボートで漂流後、ウインガード号に救助されて、アスラトルに帰るまでの一ヶ月の航海中、ずっと寝台で寝たきりだった。
シャインが何度か自分の様子を見に来た事はぼんやりと覚えているが、意識を取り戻した後も、シャインはファスガード号で何があったのか、自分から詳細を話す事を避けていた。いや、その話題になった途端、長話は体に障るだの、艦長に呼びつけられているからと言って大抵席を外した。
今にして思えば、アスラトルに帰ってから、シャインが療養院に来てくれたあの日が、まともに会話できる唯一の機会だったのだ。
けれどその後、シャインが行方をくらますとは。
彼は物事の結果を重視するあまり、周りが見えなくなってしまう上、独断で動いてしまう。だから、誰かがそれに気付いて止めなければならない。
船の事となると、シャインが冷静さを欠くのをジャーヴィスは何度も見てきた。きっと今回も例にもれず、失ったロワールハイネス号を取り戻そうとして、深入りしすぎたに違いない。
シャインの身を案じつつも、ジャーヴィスは暗い住宅街を抜けて、エルドロイン川沿いのレンガで鋪装された道を歩いていた。その道の行き先は、海軍の軍艦が出港準備をするための突堤だ。
ふと向けた視線の先にそれはあった。
青白い月の光を浴びて滑らかな海面に浮かんでいる、小山のように大きくどっしりとした影。
それはノーブルブルーの軍艦でもあり、ジェミナ・クラス軍港司令官ツヴァイスが乗艦しているウインガード号と同じ2等級クラスの大型船だ。
ただしそれは海軍の船ではなく、エルシーア国王直属の船で護衛船と呼ばれている。エルドロイン川を遡り、王都に侵入する船舶を取り締まるのが、護衛船に課せられた仕事だ。
「もう積み込み作業にかかっている。早いな」
ジャーヴィスは感心して思わず唸った。
アドビスの執務室にいた時、彼付きの副官が入ってきて、護衛船エアリエル号の使用許可が下りた事を報告していた。確か、5時間後には着くと言っていたから、深夜0時にはアスラトルにこの大きな姿を見せていたのだろう。
それに対しアドビスは、到着次第、船を王立造船所へ回し、第一甲板と第二甲板に配置している近距離攻撃用の大砲50門を、中距離用と破壊力のある、もう一ランク上の物と取り替えるよう命じたのだった。
大砲の交換を済ませるために与えた時間は、きっちり2時間。
造船所の船匠達は死ぬ思いで大砲を取り替えたに違いない。でなければ今、この突堤まで船を移動させ、海兵隊の乗り込みや、最低1時間はかかる食料等の積み込みができるはずがない。
まわりは夜の闇で覆われ、星の瞬く光が見える中、そのエアリエル号だけが、三本のマストや広い甲板に並べられたランプの灯りで、燃え上がる松明のような光を周囲に放っている。
それを眩しげに見たジャーヴィスは、今まで歩いていたレンガの道から石造りの階段を下りた。突堤に他の船の姿はない。エアリエル号の周りには、まだいくつか大きな樽や木箱、袋など積荷が置かれている。
船まであと百リールほどまで歩いて来た所で、甲板の上で白いシャツ姿の屈強そうな水兵達が、
アドビスはもう乗艦したのだろうか。
そんなことを考えつつ、ジャーヴィスが船体の中間にある
「やっぱり行くのね」
どことなく後ろ髪を引かれる声がした。
意識する前にその主が誰かわかっていたジャーヴィスは、立ち止まるとゆっくり後ろを振り返った。
「リ……いや、マリエステル艦長。こんな時間に、どうしてここへ」
ジャーヴィスはかろうじて、リーザを名前で呼びそうになるのを堪えた。
名前を口走ることをいい加減やめなければ、彼女に学習能力のない奴だと思われてしまう。
リーザはアスラトルに着いた時にまとっていた、ケープのついた艦長服姿のままで、海から吹いてくる夜風に、その闇と同じくらい濃い黒髪をなびかせて、周囲のそれに溶け込むように立っていた。
エアリエル号の船尾に掲げられている、カンテラを等身大に大きくしたような船尾灯の赤味を帯びた光が、ジャーヴィスに向かって歩いてきたリーザの白い顔を浮かび上がらせる。
「……ひどい人。私に自分の部下を押し付けといて、そのくせ自分は何も言わずに行ってしまうのね」
「マリエステル艦長」
ジャーヴィスは空いている左手で思わず額を押さえた。
ショックで目眩を起こしそうだ。
なんたることか。不覚にも彼女に預けた、ロワールハイネス号の水兵達の事をすっかり忘れていたのだ。ジャーヴィスは眉根をしかめてリーザに頭を下げた。
「すまない。言われるまで部下の事を忘れていた。許してくれ」
リーザが小さく嘆息するのが聞こえた。
ジャーヴィスはそれを意外な思いで聞いていた。どうも、いつもの彼女らしくない気がする。いつもの彼女なら、ため息などつかず、ずけずけとジャーヴィスの失態を咎めているはずだ。
自分のせいだろうか。
無意識のうちについ、仕事ができるリーザをあてにしている自分がいる。
厄介事を彼女にいつも押し付けて、そのくせ感謝の言葉一つ言ったことがあっただろうか。顔を上げたジャーヴィスは、申し訳ない気持ちで胸を詰まらせながら口を開いた。
「とにかく、反省している。いつも迷惑をかけてすまない」
「――いいのよ。わかっているから」
リーザはその切れ長の瞳を細めて、うっすらと唇に笑みを浮かべた。
やはり彼女らしくない。言葉に覇気がないし、無理矢理作った笑顔のように見える。何かあったのか、と尋ねようとした時、先にリーザが言葉を発していた。
「グラヴェール中将が、あなたを海賊退治に連れていくとは思わなかったわ」
「それは……」
ジャーヴィスはリーザの瞳を見つめ、そして、その女性らしく丸みを帯びた肩へ手をかけた。
冷たい。すっかり冷えきってしまっている。
海風が吹くこの突堤に、どれほどの間たたずんでいたのだろう。リーザは。
「事態が変わったんだ。ここだけの話だが、ヴィズルから渡された手紙には、あの人……グラヴェール艦長を虜にしたという文面が記載されていたんだ」
リーザが身じろぎをしてジャーヴィスの瞳を見上げる。
「なんですって?」
ジャーヴィスはゆっくりとうなずいて言葉を続けた。
「だから私が中将閣下に頼みこんだんだ。討伐に参加させて下さいと。曲がりなりとも私はあの人の副官だ。そして、私が自分の務めを果たさなかったばかりに、艦長を止める事ができなかった。だから、このまま自分だけが、アスラトルで、のうのうと日々を過ごすことなどできない」
「ジャーヴィス」
それはジャーヴィスを憂いたせいか。リーザは軽く頭を振ると、そっと右手を伸ばして、ジャーヴィスの左頬に触れた。
陽の光では透き通った紅玉のような彼女の瞳が、今は月の光を受けて、紫水晶の色に変わって見える。ジャーヴィスは惹き付けられたようにその輝きに見入っていた。
「あなたの悪い癖を知ってるわ。そうやって自分で自分を縛る事よ。グラヴェール艦長の事だって、結果としては最悪だけど、そうなったのはあなたのせいじゃない。グラヴェール艦長だって、それなりの覚悟で海賊の所へ行ったと思うの。あなた、よく知ってるはずよ。彼の副官ならば」
「……」
リーザの言うことは良く解る。解る故にジャーヴィスは眉間をしかめる。
「でも、それがあなたらしい所よね。そうやってがっちがちに屁理屈をこねていないと、自分のやり方に自信が持てなくなる」
ジャーヴィスは観念したように苦笑した。
いつだってリーザは本音で物を言ってくる。その裏表のない態度がとても清々しく、好ましかった。
「それで、私にどうしろというのだ? マリエステル艦長」
その言葉で、リーザのちょっと拗ねているように見えた笑みが一瞬のうちにかき消えた。彼女が今まで持ちこたえてきた気力がついに尽きたように。
ジャーヴィスの視界の中には、自分の頬をしなやかな両手で包みこんで、心が痛くなるほど見つめているリーザしかいなかった。
ジャーヴィスの身を案じて、わざわざ突堤で待ち伏せていたリーザ。
マリエステル艦長という肩書きで、なんとか表に不安を出すまいと、体裁を保っていたリーザ。
「あなたはまだ、私の部下なのよ。ジャーヴィス」
震えるリーザの声を聞きながら、ジャーヴィスはゆっくりとうなずいた。
ロワールハイネス号の副長への復帰は、アドビスの一声がない限り現状のままだから。
リーザの淡い薄紅色を帯びた唇が、今持てるだけの勇気を振り絞り、言葉を紡ぐ。
目の前にいるただひとりの為に。
「ならばこれは命令よ、ヴィラード・ジャーヴィス。必ず私の所へ帰ってきなさい。生きて――」
ジャーヴィスはリーザの肩に置いた手に力がこもるのを感じた。
あなたは、私という人間をどう扱えばいいのか、理解しすぎている……。
私が正当である命令には、絶対逆らえないという事を知っていて、それを口にするのだから。
「必ず」
ジャーヴィスは短く噛み締めるように答えた。
必ず、あなたの所へ。
「帰ります。あなたの所へ……」
何があっても――。
青い瞳を伏せ、そう言葉を続けようとしたジャーヴィスの口を、リーザの唇が塞いだ。
『あなたはまだ、私の部下なのよ。ジャーヴィス』
◇
海の湿り気を帯びた風が水面を薙ぐ。
始めのうちは愛おしく頬を撫でていくようなそれが、髪を乱し、航海服の裾をはためかし、徐々にその強さを増して、係留索を解いたエアリエル号の灰色の帆に次々と満ちていく。
船尾でランプの光とは違う白い優しげな灯りが瞬いている。海原の司リオーネが自らの力を行使して、船を外海に出すため風を呼んでいるのだ。
リーザはゆっくりと突堤を離れていく、ずんぐりとした印象のその船を、荒振る風にまかせて翻る髪を押さえながら、その灯りが遠ざかっていく様を見ていた。
目から何かが溢れるだろうと覚悟していたが、それは予想を裏切って、冷たくなった頬に落ちる事はなかった。
信じているから。
だから、悲しくはない。
一緒に行く事は簡単だ。けれど、それは自分の成すべき事ではないと思った。
誰かがその帰りを待ってあげなければならないから。
あなたの帰るべき場所で。
両手を広げて、再び抱きしめることができるように。
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