4-49『船鐘』の正体

 ロワールに会ったら、まずは謝らなければ。

『早く船に戻れなくて悪かった』

 彼女はひどく怒るだろう。どうやってそれをなだめようか。

 ひょっとしたら、口をきいてくれないかもしれない。



 崖を下りるのはかなりな重労働だった。二十分ぐらいかかっただろうか。

 草の生える岩場に降りた時には、シャインの左腕はすっかりしびれていた。


 指先の感覚がおぼつかない手で腰に巻いたロープをふり解き、シャインは息を弾ませて額の汗を拭った。


 冷やりとする崖に火照った背中を預ける。上がった息を整えながら、前方のロワールハイネス号の四角い船尾を眺める。


 停泊する船と両脇をはさむ崖の隙間は約十リールぐらいとかなり狭い。

 どうやってここに船を入れる事ができたのだろうか。


 船尾から曳航用のロープを垂らし、雑用艇で引っぱり込んだとしたら見事な手腕だ。見た所、ロワールハイネス号の船体には、かすり傷一つ、岩に当たってできる、引っ掻き傷もついていない。


 船首の錨鎖口には巻き上げられた錨が見えている。ロワールハイネス号はロープで係留されているだけのようだ。それはもっと近付いてみないとわからないが。


 シャインは船の左舷側に視線を転じた。ちょうど船体の真ん中あたり。

 メインマストがある所に、木の梯子がかかっている。

 それを昇れば甲板に上がれるだろう。


 左手を軽く振り、少しでも早く指先のしびれを解消させる。

 シャインは姿が見えないように、崖ぞいに沿って歩きながら梯子へと近付いた。


「さてと、で元々だがやってみるか」


 シャインは梯子に手を伸ばしたまま、上半身を強ばらせた。

 頭上から聞こえた声は間違いない。

 ヴィズルだ。

 ヴィズルが今、ロワールハイネス号の甲板にいる。


 シャインは音を立てないように全身の意識を集中させ、立て掛けられた梯子を昇った。そっと頭だけ船縁から出して、甲板の様子を覗き見る。


 ――いた。

 一筋の月光が差しこんでいる後部甲板。船鐘を吊るしている鐘楼の前。


 いつもは灰暗い光をしたヴィズルの銀髪が、月の光と同じように青白く輝いている。ヴィズルは鐘楼に吊された船鐘と向き合う形で立っていた。


 シャインはヴィズルが自分に背中を向けている事を確認して、静かにロワールハイネス号の甲板へ忍び込んだ。すぐさまメインマストの影に身を寄せる。

 耳の奥で自分の鼓動がどくどくと言い出した。


 シャインが甲板にいることに気付いていないヴィズルは、皮手袋をはめた両手を船鐘へと伸ばす所だった。


「アドビスができたのに……奴がこの鐘で船を操れたのに……俺にできねぇはずがないんだ……」


 沈黙を保つ鐘の上にヴィズルの手が載せられる。


「……」


 ヴィズルが何をしようとしているのか、シャインにはよくわからなかった。

 だが気配を感じた。

 きりきりと両手の手首が、縄で絞められるような痛みを感じた。

 ロワール号の命名式で、祝酒のビンを割ろうとして、止められた時に感じたあの鋭い痛みを。


「まさか……」


 シャインはヴィズルの背中を凝視した。

 やや俯きがちのそれが、両肩が、ぶるぶると激しく震えている。

 まるで巨大な力に押しつぶされまいと抵抗するかのように。


「……まて……くっ!」


 歯の奥から苦悶の息を漏らす音。

 シャインは船鐘が脈動するように、青い、不気味な微光を放っていることに気が付いた。そして声を聞いた。


『思い上がるな。【ヒト】の分際で、私を制するなどと……!』


 ヴィズルの足が甲板から浮き上がった。その体は後方のミズンマストへ簡単に吹き飛ばされる。


「があっ!」


 ヴィズルはマストに背中を強かに打ち付けた後、ずるずると甲板へ座り込んだ。

 がくりと銀髪頭が項垂れる。


「……」


 甲板は一瞬静まり返った。

 けれど沈黙を破ったのは、低く、愉快そうに笑うヴィズルのそれだった。



  ◇◇◇



 やはり、俺の力では駄目か。

 アドビスの野郎は二十年前に、あの鐘を操ったというのに。

 そして息子のシャインが――二十年ぶりにあの鐘を起動させたというのに。


 ヴィズルは背中を走る鈍痛に、思わず頬が引きつるのを感じながら笑みを浮かべた。正面の鐘楼にぶら下がっている『船鐘』は、透き通った青い光を放ちながらヴィズルをじっと見据えている。ミズンマストに背中を預け、座ったままヴィズルは小さく嘆息した。


 危なかった。

 一歩間違えたら、『俺』が、『船鐘』に取り込まれるところだった。


 額に浮いた脂汗がこめかみを伝っていく。それを皮手袋をはめた手で拭いながら、ヴィズルは荒くなった呼吸を整えようとした。


 『船鐘』に触れた途端、向うもヴィズルの魂を捕らえようと、青く輝く触手を伸ばしてきた。エルシーア海軍の参謀司令官が代々門外不出として監視していた『エクセントリオンの船鐘』。その正体は、魔鉱石「ブルーエイジ」の塊だ。


 この魔石は持ち主を破滅させる。強大な力を与える見返りに、代償として使用者の魂を求めるのだ。


 しかもこれは鐘に触れた一瞬で感じた印象だが――『船鐘』には、百人――いや、数千を超えるような、途方もない数の『魂』がひしめきあい、混じりあっていた。


 ブルーエイジに接したことで、ヴィズルの脳裏には、数千人の記憶、想い、負の感情が津波の様に襲いかかった。脳髄をかき乱され、感情を蹂躙するその衝撃の強さときたら。


 廃人にならなかったのは、ヴィズルも「ブルーエイジ」で作られた短剣を所持し、そこから力を引き出す術を知っていたからだ。


 よって自分に襲いかかってきた「ブルーエイジ」の意思を押し返すことができた。

 魂を――『自分』を、すべて残らず貪り食われる前に。

 

 ヴィズルはミズンマストに片手をついて体を支えながら、ふらりと立ち上がった。

 わかっている。

 そんなことは、最初から。

 あれを御せる人間など存在しない。


 だから、俺にはロワールが必要だ。シャインもそうだ。

 あの娘が鍵なのだ。

 『ブルーエイジ』の力を暴走させないように制御しているに違いない。

 今はロワールハイネス号に『船の精霊』として宿りながら――。


 ヴィズルの思惑通り、『船鐘』の放つ青い光が弱くなっていった。

 ロワールがあの鐘の中にいる限り、ブルーエイジは何もできないのだろう。


 でなければ、人の魂を何よりも欲する『青き悪魔』が、反応を示さないのはありえない。ヴィズルの見ている前で、『船鐘』から放たれていた青白い光が消えていく。

 同時に気配を感じた。


 安心した。

 ロワールは気丈にもがんばっているようだ。

 ヴィズルが閉じ込めた『船鐘』の中で。


「俺と一緒に来い、ロワール。悪いようにはしない」


 ヴィズルは夜色の瞳を細めて、鈍く月の光を反射させる船鐘につぶやいた。

 一ヶ月以上放置したせいで、その銀の鐘にはうっすらと細かい埃が積もっている。


『――あなたの言いなりにはならない』


 ヴィズルは顔をうつむかせ、その大きめの口に薄笑いを浮かべた。鐘の中に閉じ込めているせいか、ロワールの声は一ヶ月前とくらべてすっかり覇気を失っていた。


 ここに放置した事は無駄ではない。いくら気丈な船の精霊とはいえど、人間が船に乗り、手入れをしてやらなければ船体が朽ちていき、その船への想いを与えなければ、精霊が存在するための力を失うことになる。


「俺はあんたが気に入っている。だから無理強いはしたくねぇんだよ」


『なによ、私をここに閉じ込めたのはあなたのくせに!』


 ヴィズルは両手を組んで大きな疲労感に耐えていた。

 早く終わらせて少し休みたい。今日は朝から働き通しだった。


 しかも先程のブルーエイジとの攻防で、想像以上に肉体も精神力も消耗した。

 僅かな間ではあるが、やはり『船鐘』に、少し魂の欠片を喰われたのだろう。


 ともすればぼーっとなりそうな意識をなんとか保ちつつ、ヴィズルは鋭く『船鐘』を見据えた。自力でブルーエイジの力を制御できなかった以上、残された方法は一つしかない。


「これしか手段がないんだよ、ロワール。俺にはあんたの力が必要だ。船を操る『船鐘』の力がな」

 

『可哀想な人。誰もあなたを止めてくれないのね』


「お前に何がわかるんだよ。あの日、あの夜、俺の知る全ての世界が消えちまったんだ! アドビス・グラヴェールのせいでな」


『私がいる限り、この鐘の力は使わせない。だって、そのために私は……私が『青き悪魔』の力を抑えるために……』


 何かを思い出したかのようなロワールの声。

 けれどヴィズルは気付いていた。

 ロワールもギリギリの所まで追い詰められていることを。

 どんなに強気な言葉を放とうが、ロワールは確実に力を失っている。

 ここで消えてもらっては困る。


 これは賭けだった。

 捕らえたばかりのロワールは、本当に誰かと一緒で、融通の利かない頑固娘だった。だからその意思を弱らせるために、人気の全くない崖の港で放置した。


 その狙いは過たず、ロワールは弱っている。けれどヴィズルの術で強制的に操ろうとした途端、負荷に耐え兼ねて消滅するかもしれない。


「俺の言う通りにしろ、ロワール。でないと消えちまうぞ」


 ヴィズルの耳に小さく鼻で笑う声が聞こえた。


『あなた……ちっともわかっていない。あなたに操られてシャインと戦うくらいなら、私は消滅することを選ぶわ。でもその前に、この船鐘が二度と目覚めないように……』


 ロワールの声が不意に途切れた。

 ヴィズルは腰に差していたブルーエイジの短剣の柄に左手を添えた。


 いつもならもっと早く気付いていたのに。

 ヴィズルは軽く頭を振った。どうも、今日は疲れすぎている。


 息をつき振り向いたヴィズルの視線は、ロワールハイネス号の後部甲板へ上がる右手の階段へ注がれていた。ほんの一リールあるかないかという近い距離の階段に、月の光をヴィズルと同じように浴びながら、静かに見返してくる青緑の瞳があった。

 否、静かに見えるようで、そこには抑え込まれた感情の、行き場のない高まりが感じられる。


 ヴィズルは前にも増して気疲れを覚えた。

 さて、裏切り者は一体誰だろう?

 顔にまとわりつく銀の髪を右手ですくい、ヴィズルは階段をゆっくりと上ってきたシャインを睨んだ。

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