4-44 機転

 階段を下りて二階に来たシャイン達は、真っ直ぐに続く暗い通路を歩いていた。

 前方の右側から部屋の灯が漏れているのが見える。そこが例の大広間(酒場)だろう。


 近付くにつれて、がやがやと多くの人間が話す声や、飲み食いをする食器の音が聞こえてくる。肉の焼ける甘い臭いや、うっとりとするようなワインの濃い香りが、通路の方まで漂っている。


 次第に近付くその入口に、シャインは胃の辺りが重くなり、手足の関節が固まって、満足に歩けなくなるような強い緊張感に襲われた。

 ストームに言われた通り、そしらぬふりをして大広間に入り、台所を目指すことだけを考える。


 ヴィズルの手下達が憩っている真っ只中で、正体がばれることは避けなければならない。正体がばれれば、シャインを牢から出したストーム達の身もただではすまないからだ。それだけは、避けなければ。


 うつむいたまま、ぎこちなく歩くシャインとは対照的に、前を行く女達は、悠々と大広間の入口へ向かっていく。


「副船長、お・ま・た・せ」


 先を歩くラティが、出入口の前の柱に背中を預け、酒をあおっている男に声を掛けた。部屋の中で燃え盛っている松明の光を受けて、さらに赤味が増した赤銅色の髪の大柄な男。


 襟元のボタンをとめず、厚い胸板をみせて着ている白い長袖と、黒のズボンに膝下までの黒いブーツ姿。武器は何も携帯していない、副船長ティレグだ。


「おうおう。待ってたぜって……顔は綺麗でも、野郎のてめぇに用はねえ。さっさと行っちまえ」


 ティレグはラティを一瞥し、酒ビンを持たない左手を軽く振った。


「まあ、ひっどーい。仕方ないわね。ここはドルチェ姐さんの出番だわね」


 ラティは肩を竦めながら、他の海賊たちが酒盛りをしている大広間へと歩き去った。


「はいはい。待たせたわね」


 その後ろにいたドルチェと呼ばれた女性が、見事な長い赤毛を揺すりながらティレグに近づく。


「おっ、ドルチェ。ん、今日はやけに化粧が濃いじゃねぇか?」

「失礼ねぇ。せっかく今夜は副船長と飲んであげようと思っていたのに」

「けっ。誰が、おめぇのような厚化粧の女と……」


 そう言いながらもティレグは、右手に持ったワインの瓶をあおりながら、左手でドルチェの露な肩――小麦色の肌に触れている。

 今のうちに通り過ぎてしまえば、ティレグは気付かないだろう。

 ドルチェと話している隙に。


 だが広間の入口に陣取っているティレグは、壁に背中を預け、ドルチェと話しているその隙間は、人が一人、肩を触れて通るぐらいしかない。


 ドルチェの後ろにいた残りの女達4人が、ティレグに愛想を振りまいて通りすぎていく。ティレグは挨拶をするように、彼女達の髪に指先を絡ませた。


 シャインの前にいた栗毛の女性に軽く目配せしてティレグは、再び視線をドルチェに向けてくびれた腰に手を回す。


 今しかない。

 シャインはうつむいたまま足早に、ティレグの前を通り抜けようとした。


「おいストーム、こいつか? 新入りの炊事女ってのは」


 右肩にずっしりとした重みがかかったかと思うと、小指の欠けたごつい手に掴まれていた。息が詰まり、心臓が急速に速いペースで脈を刻んでいる。


 どうしていつもティレグに絡まれるのか。

 放っておいてくれればいいのに。


 シャインは視線を床に落としたまま、やむを得ず足を止めた。肩をゆすれば振りほどけるかと思ったティレグの手は、予想を違えて微動だにすることを許すことなく掴んでいる。


 声を出せばばれる。

 シャインは黙ったまま、ストームが何とか誤魔化してくれることを祈った。


「なによ、副船長ったら~。そんな子供なんか放っといて、向こうで楽しくいつものように飲みましょうよ」


 ドルチェが何気ない仕種でティレグに身をすり寄せ、シャインの肩にかかった四本指しかないティレグの手に自らのそれをのせる。


「うるっせーな。おめぇは先に行って待ってな!」

「きゃっ!!」


 ティレグに背中を押されて、ドルチェが大きく前方によろめいて倒れ込む。

 咄嗟に両手を前についたものの、彼女は両膝を思いっきり石床に打ちつけたせいでうめき声をあげた。


「何すんのさ!」


 だがティレグはドルチェに背を向けていて、視線を下に落としていた。意味ありげに目を細めて酒混じりの息を吐きながらつぶやく。


「女中にしては、きれいな指をしているぜ。どれ、顔を見せな」

「あ、ああ、副船長ー! この子はまだほんのガキなんだよ!!」


 ストームがシャインの肩に手を回そうとした時、ティレグが先にシャインの体を自分の方へ引き寄せていた。


 ワインやら蒸留酒やら複数の強い酒の臭いと、ティレグの熱気を帯びた体臭が、思わずぶつかった厚い胸板から漂っていて、その淀んだ瘴気を吸い込んでしまったシャインは思わずむせた。


 ティレグが、そっと帽子に手をかけるのを感じる。

 このままではまずい。シャインはまだ顔をうつむかせたまま、嫌々というように身をよじるが、四本指のティレグの手が肩を押さえて離さない。


 逃げられない。無理だ。

 こうなれば顔を見られる前に、ストームにもらった銃でティレグを殴るか?

 けれどティレグが倒れなかったら? 阻止されたら? 

 その時はすべてがばれて、ストーム共々捕らえられる。

 ロワールに会うこともできず、ヴィズルの思惑通りに利用される運命が待っている。


 ――それは、嫌だ。絶対に。


 何時になく楽しそうにティレグが猫なで声でいうのが聞こえた。


「新入りのくせに、副船長の俺に挨拶なしってのは、掟やぶりだぜ?」

「副船長っ!」


 ストームの素な叫び声。

 絶望感ともとれるそれを耳にした時、シャインは咄嗟に左手をティレグのつんつんはねた後頭部に回して引き寄せていた。ティレグの目が自分の顔をとらえる前に強引に口付ける。


 ティレグが息を飲み、小さく呻く声が聞こえたかと思うと、シャインの肩をつかむ右手の力が弱まった。心なしかその手が震えている。

 三日前、殴りつけた下顎がまだ腫れているせいか。


 とにかくその瞬間を待ち望んでいたシャインは、ティレグの手からようやく体を振り解いて離れた。一瞬呆然となって、視線を周囲にさまよわせたシャインの肩を、ストームが受け止めてくれたが、彼女はおもむろにその背中を押して、大広間の酒場のある場所を指差した。


「何やってんだよ! さあ、あんたの仕事場は台所だ。カウンターの右隣に木の扉が見えるだろう? 早く行くんだよ!」


 シャインはぼんやりと目の前の光景を見た。正面にストームの言う通り、いくつもの酒瓶や、ワイン樽をおいたカウンターが見える。その手前の机には、ヴィズルのいかつい手下達が皿に盛った肉料理をほおばりながら、大きなジョッキに入った酒を浴びるように飲んでいる。その数……ざっと五十人以上。


 彼等はおしゃべりを楽しむ女達を囲みながら、シャインの事にはまったく関心がないようだった。シャインはそんな彼等の間をぬって歩きながら、教えられた台所への扉の中へ入っていった。



  ◇



「ストーム……そんなに怒るな。俺の顎の腫れは、大分痛みが治まったからよ」

「そ、そういうわけじゃ……ないけどね。副船長」


 シャインの後を追って歩き出そうとしたストームの背中に、ティレグの含み笑いが響いた。


「興がのった。後であの小娘を俺の部屋に連れてきな。わかったな、ストーム」


 ストームはぶるぶると震え出しそうになる両手をしっかと握りしめて、必死に愛想笑いをその顔に作った。ティレグの方へ振り返る。


「今夜はどうですかねぇ。何しろ裏じゃあ、やることが一杯あるんですよ」


 ほほほ……と笑いながら、ストームはティレグに背を向けて、何事もなかったように歩き出した。台所に入る扉の取っ手に手をかけた時、つつーっと冷たい汗が額から伝い落ちた。


「……心臓に悪いよ。二度とごめんだね」



  ◇



 表の酒場の明るさとは裏腹に、台所は真ん中に置かれた机の上にある、三個のランプが灯されているだけだ。扉を開けて台所に入ったシャインは、顔をうつむきがちにしながら周囲を油断なく見回した。誰もおらず、人の気配もない。


 それを確認してから音もなく扉を閉めて、シャインは冷たい石壁に額を当てた。

 こめかみが疼くように心臓の鼓動より早く、どきどきと脈打っている。

 ゆっくりと数回息をすって吐いた後、シャインは石壁に背中を預けて台所を再び眺めた。


 台所の入って左側にはかまどが四つ並んでおり、そのうちの二つには大きな黒い鍋が水を張られ、沸き出したそれが湯気を上げている。真ん中の机の上には、ランプの他に野菜等を盛った籠が三つばかり並べられていた。


 その時、酒場に通じる台所の扉を開ける音がした。

 シャインが石壁から離れてそちらへ顔を向けると、血の気の失せた顔をしたストームがいそいそと入ってきた。乱れ髪が額に貼り付いている。


 彼女は後ろ手で扉を閉めてから、大きな胸を上下させてシャインを見た。

 その小さな目はしきりにまばたきをくり返していたが、ストームは余裕を見せるつもりなのか、分厚い唇をゆがませて、ふっと不敵な笑みを浮かべた。


「いい機転だった……ありがとね。あんたのお陰で助かったよ」


 その意味を察したシャインは、ゆっくりと首を振りながら息を吐いた。

 努めて冷静な口ぶりで答える。


「――気にしていない。ロワールを取り戻すためなら、俺のちっぽけな自尊心なんていつでも捨てられる」

「そうかい」


 ストームの声は幾分憂いを帯びていたが、シャインは気付かなかった。

 はっと顔をあげると、そこには何時の間にか正面に回り込んでのぞいているストームがいた。


「な、何だ?」

「いや……そんなに落ち込むことはないよ。あんたの器量なら男殺しにも女殺しにもなれるから」

「ストーム! なっ……何を」


 シャインは目を細め、ストームへの非難を目一杯こめて睨み付ける。

 百歩譲って自分を元気づけるための冗談だったとしても、たちが悪い。

 だがストームはくすりと笑ってシャインの肩を叩いた。


「海軍に飽きたらあたしの所へおいで。ジェミナ・クラスでちょっと名の知れた酒場をやってんだ。ルシータ通りにある、『九尾の猫』亭っていうんだけどねぇ……知らないかい?」


 ――知っている。


 ストームをおびき出すため、シルフィードに海賊ジャヴィールのウワサを、あることないこと喋らせた酒場だ。けれどそんないかがわしい場所だったとは。

 シャインは気恥ずかしさに耳まで上気してくるのを覚えながら叫んでいた。


「聞いたこともないね! そんな店!」


 シャインは長居は無用とばかりに、台所を歩き回った。部屋の片隅に、緑のペンキで塗られた小さな扉がある。あれがストームが言っていた外へ通じる勝手口なのだろう。


「怒らなくてもいいじゃないか。ティレグだって見事に騙されて、あんたを部屋へ連れてこいって言う始末なんだから」

「……」


 背筋が悪寒でむずむずする。

 ティレグが漂わせる強烈な酒の臭いが思い出され、再び胸がむかついてくる。

 シャインは苛立って視界を遮るベールのついた帽子をかなぐり捨てようとしたが、上げかけた左手をそっと下ろした。


「ティレグと二人だけになれるのか……」


 そう漏らしたシャインに、ストームが思わずうわずった声を上げた。


「ぼ、坊や、あんた何を?」


 振り向いたシャインが険悪な光をたたえた目で睨む。


「な、なんだよ。あたしが何したっていうのさ。こわいから睨まないでおくれよ~」


 ストームの嘆願をきいても、シャインは彼女を睨まずにはいられなかった。

 だがストームにはまだ協力して欲しいことがある。

 再び湧いてきたティレグへの嫌悪感を噛み潰し、シャインはやっとストームを睨むのを止めた。


「ティレグに聞きたいことがある。本当にスカーヴィズを殺したのか。それをあの男自身の口から聞き出したい」

「坊や!」


 ストームの小さな目が真ん丸に見開かれる。


「あんたの気持ちは分かるけど、下手すりゃまた捕まっちまうよ? そうしたら、あたしがあんたを牢から出したことがバレちまう!」


 シャインの目の前で、みるみるストームの丸い顔が青ざめていく。


「……ティレグに殺されるよ……きっと……。あんたもあたしもね……」


 両手で顔をおおってしまったストームが、驚く程小さく見えて、シャインはティレグと会おうとすることを断念しようかと考えた。


 けれど。

 シャインは目を伏せ、再びまぶたを開いた。

 すすり泣き出したストームの丸い肩に左腕を回して抱きしめる。

 息子が悲しむ母親をなぐさめてやるように優しく。


「今なら誰にも見つからずに、船の所までいけるんだ。だから、これ以上危ないマネはしないでおくれ……」

「ストーム、大丈夫だ」


 シャインはストームの頭に手を回したままつぶやいた。


「あんたに迷惑はかけない。ティレグの所へは一人で行く。もしも、俺を牢から出したのはあんただとばれた時は、俺に脅されて仕方なくやっていたと言えばいい」

「坊や……」


 ストームがシャインの肩に回していた腕をそっと離した。上げた顔には細い涙の筋が光っている。シャインはストームを安心させるために微笑んで、航海服の左ポケットに入れた銃の存在を服の上から確かめた。


 今度こそ、あの男から真実を聞き出してやる。

 なんとしてでも。


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