4-32 海原を往く剣

 甲板に出ると外の光が目を射るように感じられ、あまりの眩しさにシャインは目を閉じた。だがまばたきを繰り返すことで、目の眩みは徐々に収まり、前方に広がる光景にはっと息を飲んで見入った。


 青く高く広がる空を背景に、萌える緑に覆われた小高い丘のある島が見えた。そして石英ばかりを集めて敷き詰められたような、純白の小さな砂浜があり、その渚を洗う波は、どちらかといえば青緑に近い淡い色をしている。きっとこの島の周りは珊瑚礁の浅瀬に囲まれていて、だから海の色が透明で薄いのだ。


 そんなことをシャインはほんの数回まばたきする間に感じていた。背中に緊張が走り、そちらに注意を向けなければならなかったからだ。


「……副船長、待ってたんですか」


 ラティが少し声を震わせてつぶやいた。

 シャイン達が出てきたのは甲板の真ん中にあるメインマスト前にあるハッチで、そのすぐそばの舷側で、赤銅色の髪を太陽の光に照らされながら、熊のような図体の副船長ティレグが腕を組んで立っていた。彼の後ろには二十名程の手下達がずらっと囲むように並んでいる。


 ティレグの下顎は何時もの二倍ぐらいに腫れ上がっていた。シャインはハッチの出口に立ったまま、じっと仄暗い目つきで執拗にこちらを見るティレグの視線を受け止めていた。


「さ、行って!」


 ラティに背中を強く押された。

 シャインはティレグの方に突き出されるような具合で数歩よろめいた。ティレグにぶつかるのだけは避けたい。そう思って両足に力をこめてなんとか踏み止まる。


 覆い被さるように落ちてきた長い金髪を、振り上げるようにして顔を上げると、ティレグは目の前にいた。

 先程まで突き刺さるような敵意に満ちた目で、こちらを見ていたのに、何故だが今はまるで無邪気な子供のような笑みをうっすらと浮かべている。


 シャインは本能的にティレグに嫌気を感じて、思わず後ろへ後ずさった。

 背後に人の気配。それも沢山の――。

 振り返ると何時の間にかティレグの後ろにいた手下達に、すっかり囲まれてしまっていた。どの顔も潮焼けで褐色の肌をしており、黒髪の者が半数を占めていたが、何人かは茶髪に青い瞳の生粋のエルシーア人も混ざっている。手下達はがやがやと騒ぎながら、シャインに向かって悪口雑言をまくしたてた。


「こいつがあの……アドビスのガキだって?」

「信じられねえな! なんだあの青白いツラは? 全然似てねえぞ」

「でも、海軍の服をきてやがるぜ? 海軍の士官はみんな殺してやるさ」

「それがいい! アドビスの前にまずはこいつを先にやっちまおう」

「そうだ!」

「そうだ!!」

「裏切り者には死を!」

「死だ!」

「その命をもって罪をあがないやがれっ!」

 

 シャインはみぞおちのあたりが鉛を詰められたように重くなるのを感じた。

 前を見ても右を見ても左を見ても……そこにあるヴィズルの手下達の目は血走って、異様とも言える興奮が彼等を霧のように包み込んでいる。


 指を差す者、唾を飛ばしながら罵る者。

 腰に帯びた短剣に、はや手を伸ばしている者――。


 シャインは彼等から憎しみという名の赤黒い空気が渦巻いて、煙のように立ち上り、それに自分が取り巻かれる気がした。海風にいつしか血の臭いが混じっているような……ねっとりとした気持ち悪い空気に息が詰まり、胸が圧迫されていくようだ。

 海賊達の声が木霊のようにわんわんと頭の中に響く。


「裏切り者には死を!」

「死だ!」

「死だ!」

「死だ!」


 シャインはうつむいて、痛めた右手に左手を当てて目を閉じた。

 アドビスを目の敵にする彼等の気持ちもわからないわけではない。


 確かにアドビスはエルシーア海から海賊を一掃するため、ノーブルブルーという専門艦隊を作り、彼等を駆逐してきた。


 アドビスは多くの海賊の血を、自らの剣に吸わせ続けたのかもしれない。

 どんな手を使ってでも。

 けれどそれは……。


『だから、彼はノーブルブルーを作った。みんなが安心して、海を航海できるようにするためにな』


 以前、アドビスのことをそんな風に教えてくれた人物がいた。

 ジェミナ・クラスに本拠地を構える大手の貿易商――アバディーン商船の社長だ。

 シャインは大きく息を吸い込んで、伏せていた面をゆらりと上げた。


「死だ!」

「まずは見せしめにこのガキを血祭りにあげろ!」

「そうだ!」

「そうだ!」

「そうだ!」


「……黙れ」


 淀んだ空気を薙ぐように吹いた風が、シャインの金髪を乱して通り過ぎた。

 ティレグが目を細める。

 周りの海賊達は熱気に我を忘れているのか、罵声を上げ続けている。

 だがその喧噪を引き裂くように、再び静かな声が甲板に響いた。


「黙れ」


 ティレグが片手を上げて、手下達のざわめきを制する。納得がいかないように彼等が再びざわめきだした所で、ティレグは腫れた顎を気にしながら口を開いた。


「何のマネだ」

「――お前達に非難されるいわれがないからだ」


 シャインはきっぱりと――だがあくまでも怒りの感情を押し殺して言った。


「なんだと!」


 潮のように海賊達のざわめきが大きくなった。シャインがティレグから周りの手下達へ鋭い一瞥を投げつけると、物おじしないその青緑の瞳は真っ直ぐ海賊達を射抜き、彼等は一斉に口を閉ざした。


「……あの人は多くの海賊を狩ってきた。それは事実だ。けれどお前達に……お前達海賊に、それを非難する資格があるとは思わない」

「……言わせておけば!」


 ティレグが歯の隙間から息を漏らしてうなり声をあげた。シャインは伸びてきたティレグの手を軽く身をよじって避ける。勢い余ったティレグは手下達に向かってその体を突っ込んだ。


「副船長! 構わねえ、やっちまいな!」

「そうだ!」


 手下達に助けられながら、ティレグは息を荒げながら立ち上がった。


「――チッ! てめぇは自分の置かれた立場っていうものが、まだわかってねえようだな」


 肩を上下にカクカクと動かし、ティレグが不敵な笑みを浮かべる。シャインはティレグと距離を置きながら、背後の手下達を気にしつつ、その腫れぼったい顔をにらみつけた。


「今までどれだけ多くの人達から、大切なものを……そして命を奪ってきた?」

「うるせえ! それが俺達の生きる術なんだよ。お前なんぞにはわからないだろうがなっ!!」

「……ああ、わからないさ」


 シャインは左手を上げるとティレグに向けて――素早くそれを振りかざした。

 乾いた音が甲板中に響き渡る。

 と、ティレグのえもいわれぬうめき声が次いでその太い喉から発せられた。


「うがああああああああっ!!」


 シャインはその場にうずくまるティレグを黙ったまま見下ろしていた。左手がじんじんとしびれている。数時間前に拳を喰らわせたせいで、下顎を腫らしているティレグには、自分の非力な平手でも相当効いているらしい。


「副……副船長っ……!?」

「てっ、てめぇ……よくも……」


 ティレグは顎の痛みに耐えかねて、甲板をのたうちまわっている。

 シャインは軽く頭をゆすって、陽の光にその明るい髪をきらめかせながら、自分を取り巻く鼻息荒い海賊達を静かに見つめた。


「他者の痛みをわからず…‥そして他者の命を奪って生きているお前達と、あの人……アドビス・グラヴェールのやったことにどんな違いがある?」

「なっ、何いっ!!」


 シャインは甲板にうずくまるティレグの脇を離れ、顔にかかる髪を払いながら、今自分に野次をとばした海賊へ、射すくめるような視線を投げかけた。

 シャインのまなざしに薄ら寒いものを感じたのか、海賊は思わず喉を鳴らして唾を飲み込んだ。


「お前達は商船を襲う。積荷を奪い船を奪い、それを売りさばいて金に変える。海軍は海賊を取り締まり、その身柄を拘束して船を没収し報奨金をもらう。やっていることは、海賊も海軍も同じじゃないのか?」

「……うう……」


 シャインのエルシーア語は、王都で話されているそれと比べてくだけたアスラトル風の言い方だ。だが竪琴をつま弾く調べのように、澄んた響きを伴っている。


 濃い黒ヒゲを顎に生やしたその海賊の顔には、戸惑いといら立ちと、どうすればいいのかわからない不安に彩られていた。この殺伐とした海賊船の甲板の上において、シャインの発せられた清音はあまりにも不釣り合いで、似つかわしくない。それ故に、海賊は心を大きくかき乱されて、落ち着きを失いつつあった。


「は……、だったら、てめぇも地獄に堕ちやがれ……!」


 ティレグがまだ甲板に這いつくばったまま、目だけに怒りの炎を灯らせて、シャインを睨み付けている。


「俺達とてめえら……海軍が同じっていうのなら……俺達は奴に、仲間を殺したアドビスに……復讐する権利が、あるってことだ……」


 赤黒く腫れた唇のせいで、ティレグはしゃべりにくそうに荒い息をついた。

 シャインは再びティレグの前に近付くと、彼を見下ろしながらゆっくりと首を振った。


「同じじゃない。お前達とアドビス・グラヴェールには、決定的な違いがある」

「てめぇ……」


 シャインは唇をかすかに動かし、皮肉めいた微笑を浮かべた。

 アドビスを、そして彼のやり方を、嫌っている自分がまさかこんなことを口にするはめになろうとは。

 思わず出た失笑だった。


「お前達の行為は自分の為にただ奪うだけ。しかし……」


 ティレグを含め、海賊達は固唾を飲んでシャインを見つめている。

 シャインはふと、前方に広がる海を仰ぎ見た。

 今頃になって、その可能性を認められる心境になったのかと思いながら。

 一瞬静まり返った甲板に、シャインの声だけが響いた。


「あの人は……海原を行く船を守る剣だ。そして海軍は、誰もが安心してエルシーア海を航海できるように、その安全を守り続ける盾」

「……」


 ティレグは暫し、シャインのいう意味が理解できないのか、阿呆のように口をだらしなく開いて、肩を震わせていた。

 手下達がざわめきだす。その時だった。

 シャインが殺気ともとれる鋭利な気配を背後に感じたのは。


「――ようし、お喋りはそこまでだ」


 首筋にヒヤリとした金属が当てられる。シャインは前を向いたまま、久方ぶりに聞いたその声の主の名を言おうと口を開きかけた。


「一言でも声を出したら首を斬るぜ」


 脅しではない証拠に、首筋に当てられた金属……一度交えたことがあるヴィズルの長剣がさらに強く押し当てられる。


 身動きできないシャインに気を良くしたのか、小さくヴィズルが笑う。

 ヴィズルは確かに、この海賊船の船長だった。


 昔酒を酌み交わしたことや、海図室で語らった気さくな航海士という面影は、もはやそこに一切感じられない。


「さすが船長だ!」

「船長!」

「スカーヴィズ船長!!」


 ヴィズルの姿を見て不安感が何処かへ行ったのか、手下達は拳を突き上げ、口々に彼の名前を連呼する。


「ナバルロ! 早くティレグを下に連れて行って顎をみてやれ。それから、ティーナとラティ!」

「は、はい!」

「はあい!」


 ヴィズルはティーナとラティをを呼びつけたかと思うと、彼等が五歩の距離まで近付いた時、長剣を下げてシャインの背中を力一杯押した。


「……!」


 シャインは両脇をティーナとラティに受け止められる形で、その体をつかまれた。

 すかさず振り向き呼びかける。


「ヴィズル、俺は君に話が……!」


 ヴィズルはすでに背を向けて、船尾の方へ歩き出していた。

 長い銀髪を海風に靡かせながら。


「ヴィズル!」

「黙んないと殴るわよ! さあ、あんたの行き先はこっち!」


 ラティがシャインの左腕をとって、船の中ほどにある舷門(船の出入口)まで引きずって行く。

 右肩をティーナがしっかりとつかんでいるので、体の向きを変える事ができない。

 かろうじて回ったのは首だけだった。

 ちらりと見えたヴィズルの姿は、船尾の船長室の中に消えていく所だった。


「……ヴィズル」


 体の中で先程まで燃えていた高揚感が一気に消沈した。すっかり忘れていた右手首の痛みが、脈打つように疼くのが感じられ、シャインは用意されていたボートに、大人しく乗り込むだけで精一杯だった。

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