4-30 畏怖と狂気

 一体何をしたんだ?

 ティレグとは幼い頃からの付き合いだが、いつも飲んだくれているか、腕力にモノをいわせて威張っているかのどちらかだ。


 例外として、たまにしらふの時は昔話を聞かせてくれる優しい兄貴だったりする。

 けれど、何かに怯えるような――あそこまで挙動不審なティレグは、昔はどうあれ今まで見た事がない。


 ヴィズルはティレグの後を追って、メインマストのハッチの扉を押し広げた。

 下は急勾配の狭い階段――その幅はティレグの肩幅ぐらいあるかないかだ。


 ヴィズルは慣れた足取りで階段を下りた。下は大船室で、ヴィズルの約百名ほどの手下たちが、狭そうにハンモックをならべて――ある者は床で着の身着のままごろごろと眠り込んでいる。


「……」


 階段を下りて、ヴィズルは足元の床に、先程見た赤い液体が点々と落ちているのを見つけた。それは船首方向に向かって続いている。


 大船室を抜けるとその先には第二下層甲板へ下りるハッチがあり、船首近くの小部屋は厨房になっている。ハッチまで近付いて、ヴィズルは厨房からランプの灯りがもれている事に気付いた。喘ぐような唸るような、そんなティレグの息遣いも聞こえる。


「うへぇ! どうしたんですかい副船長?」

「い……いいから、ミズ、よこへ! 水だ!!」


 まるで踏みつぶされかけたカエルのようなティレグの声。

 厨房に扉はない。ただ板で仕切られているだけだ。ヴィズルは厨房からこぼれる弱いランプの光の中へ、ゆらりとその身をさらした。


「せっ、船長!?」


 すっとんだ声を上げたのは、粗末な木製の丸椅子に腰掛けたティレグの前に立っていた太った男。はげ上がった頭がランプの光を受けてまぶしい。

 そして、酒樽を二つ重ねたようなでっぷりとした腹の上から、薄汚れた緑のシャツに、白い前掛けをしめていた。ティレグには劣るが筋肉がついたその二の腕には、何か縁起をかついているのか、女神のような入れ墨が彫り込まれている。


「どうした。転んでケガでもしたのか? ティレグ?」


 ヴィズルは強引に厨房へ入った。太った男――料理番でもあり、外科の船医(切るのが得意)でもあるナバルロが、ティレグとヴィズルの顔を交互に見ながら、へらへらと愛想笑いを浮かべている。


「へ……へへ。副船長の、男前な顔を見てやってくだせえよ。船長」


 言われるまでもない。椅子に腰掛けているティレグの顔は真っ赤で、大きな口からだらだらと血が流れている。彼のごつい両手も、口元を押さえていたため、その鮮血に彩られている。誰かに顔を殴られたのだろう。ヴィズルは意外な思いにとらわれた。


 私闘は禁じているが、手下の中にはティレグのように頭に血がのぼりやすい者もいる。だが副船長のティレグを殴る事は、自分への反逆と等しい行為だ。


「ティレグ、大丈夫か? 俺は確か――船倉に閉じ込めている客人へ、食事を置いてこいと言ったはずなんだが……」


 ティレグがぎろりとヴィズルを見つめた。その視線はしっかりとヴィズルをとらえている。


「言われた通りに……痛てぇ! おらぁ! ナバルロっ! 水、持ってこひって言っただろうがっ!」

「すっ、すまねえ!」


 ナバルロが巨体を揺らして回れ右をする。厨房の片隅に置かれた水樽に寄って、おたおたと蓋を開けて銀のジョッキを突っ込む。


「――船長。あのガキ……アドビスの息子……侮るなよ」


 ヴィズルは一瞬ティレグが何を言い出すのかわからなかった。


「侮るって……おい。まさかあんたの顔を殴ったのは……」


 信じられない思いでヴィズルはつぶやいた。


「そうさ、ガキにやられたのさ。この俺が……不意を突かれるとはな! 寝ていると思って近付いたら……このザマよ」

「副船長……どぞ……」


 ナバルロの丸々とした手に握られたジョッキを、ティレグは猛烈な勢いで奪い取った。水を口に含んで、傍らに置いてある木桶の中に血で汚れたそれを吐き出す。顎ヒゲから水を滴らせながら、ティレグは三度それを繰り返した。


「ぐおお……生臭えわ痛えわ……。船長、俺はあのガキに襲われたんだ」

「どうやら……そうみたいだな」


 ヴィズルは冷めた表情を浮かべたまま肩をそびやかした。やはり会わなくて正解だったと内心思いながら。シャインの行動は本当に予測できない。


「だ、かぁ、らぁ……」


 ナバルロに二杯目の水を持ってこさせ、もぐもぐと口をすすいだティレグは、水を吐き出した後、顔をしかめて、前歯の破片をつまみだした。無惨にも彼の下顎は青黒く腫れ上がり、ちらりとのぞいた口の中では、下の歯が三本欠けているのが見えた。


「悪かったな、ティレグ。奴がそんな大胆な行動……に出るとは思いもしてなかったから……。それに、あんただから大丈夫だと思っていた」

「船長。ま、あんたが行っても、奴はそんなこと二度としやしねぇよ」


 ニヤリと笑いかけ、顎に走った痛みにティレグはごくりと唾を飲み込んだ。


「どういう意味だ?」

「へ……。俺も、あのガキが捕虜らしく、おとなひく(大人しく)するよう、仕返ししてやったからさ。だから、できねぇってことだ」

「――仕返し? ティレグ……まさか」


 ティレグは身ぶりでナバルロに、口を拭くための布を持ってこさせていた。


「おお……痛てぇ……」


 ヴィズルはティレグを見下ろしたまま、その瞳をぐっと細めた。怒鳴る一歩手前で何とか自制する。


「何をした? 奴は大事な人質なんだぞ」


 ティレグは口を拭きながら、ふんと大きく鼻を鳴らした。


「勢いで、あのガキの右手を折ってやったんだ。いや、生っ白いガキだから、俺の下顎を殴りつけた時のショーゲキで、手首にヒビでも入ってたんじゃねーか?」

「……」


 ヴィズルは少しだけ安堵して息を吐いた。ティレグのことだ。殴られた事に腹を立て、怒りに任せてシャインに手をかけたのではないかと危惧したのだ。


「安心したか? ……俺があのガキを殺したんじゃないかって、思ってたんだろ?」


 ヴィズルは平静を装い両腕を組んだ。しかし肘をつかんだ手に力がこもる。


「……まだ奴には、生きていてもらわなくてはならないんだ」


 かゆい所に手が届かなくて、それをぐっと我慢する時のように神経が苛立つ。


『不本意なんだ!』

 そう口の中でつぶやき、ヴィズルはティレグから顔をそむけながらため息をついた。


 ――だから嫌だったのだ。シャインの身柄を引き取る事は。

 アドビスと戦う事だけに集中したいのに、早速シャインの事で煩わされている。

 アジトに戻ったら船からすぐに下ろして、目につかない所へ放り込もう。

そうするべきなのだ。


「わからねぇな、船長……」


 椅子に座ったまま、ティレグが低くうなるようにつぶやいた。

 ヴィズルは組んだ両腕を解き、厨房の出入り口の板壁に寄り掛かった。


「何が?」


 ぶっきらぼうに返事をする。ティレグがやれやれ、といわんばかりに頭を振った。


「あんたの考えがわからねぇって言ってるのさ。何でアドビスのガキを生かしておくんだ? まさかあの『金鷹』が、親子の情なんか持ち合わせているなんて……思っちゃあいねぇだろうな?」

「……」


 ヴィズルは板壁に寄り掛かったまま、自分をにらみつけるティレグの顔を見ていた。ヴィズルと視線が合うと、ティレグはのそりと椅子から立ち上がった。


 ヴィズルの寄り掛かっている板壁に、太い左腕を伸ばして手を付き、酒と血の混じった臭いを漂わせながら、ヴィズルの表情を覗き込むように顔を寄せた。

 そっとささやく。


「おめぇも知ってる通り、アドビスは愛していた女すら殺した冷酷な男だぜ。おめぇの母親……スカーヴィズをな」

「――やめろ」


 叱責にも似たその一言を何とか喉から絞り出し、ヴィズルはしなやかなその身をよじって、ティレグから離れた。目には見えない、けれど確かに胸の内に負った古傷が――ティレグの言葉で再び血を流し出す。


 覚えているのは……月の光に輝く、まるで銀の粉をちりばめたような彼女の長い髪。

 顔は……忘れてしまった。

 忘れるようにした。


 けれど、あの暗いスカーヴィズの船長室より現れた、より深い闇をひきずった男は忘れられなかった。

 戸口を開け放った時に月の光が入り込み、ここにいるはずのない男の顔が、目の前に現れた。


『ヴィズル』


 何かの間違いだと思いたかった。

 けれど名を呼んだその声は、確かにアドビス・グラヴェールのものだった。



「……」


 ヴィズルは厨房の壁に打ち付けられた、釘にひっかけてあるジョッキを取り、傍らへ突っ立っている料理長ナバルロに、黙ったままそれを突き出した。


「へ、へえ。水ですね! 船長!」


 ジョッキを両手で受け取り、ナバルロはその体型から想像できないほど素早く回れ右をして、水樽の方へ行った。


「……ツヴァイスが言ったのさ」


 ティレグが不信感あらわにこちらを見ている。ナバルロが溢れんばかりに水を入れたジョッキを差し出したので、ヴィズルは視線をティレグに向けたままそれを右手で受け取った。


「シャインにはまだ利用価値がある。だから、万一の保険として手元に置いておく。アドビスをこの手で殺すまで、奴の命を守るよう、それがツヴァイスとの約束でもある」

「ツヴァイス……あの気持ち悪ぃ男の言う事なんぞ!!」


 ティレグは再び木の丸椅子に座り込んだ。背中を丸めて、先程までの勢いはどこへやら。両手で頭を抱え込んでいる。


「ティレグ?」


 拍子抜けたヴィズルは思わず声をかけた。ティレグはやおら顔を上げると、腫れた下顎を右手で押さえながら、ヴィズルを見上げた。


「船長……俺は正直いって、怖いんだ。あのガキが……」

「はぁ……!?」


 ヴィズルは水をジョッキの半分程飲み干して、思わずそれを吹き出しそうになった。


「怖いって……そりゃ、不意の一撃ってやつを喰らったからか?」

「違う!」


 ティレグがさも気分を害したように大きな体を震わせた。顎の腫れがなかったら、ヴィズルに噛み付かんばかりの勢いだ。


「俺は……あのガキの母親を知っている。二十年前。アジトを襲った大嵐……あれを呼んだのは、奴の母親なんだぜ」

「何だと?」


 ティレグは含み笑いをしようとして、下顎に走った痛みに顔をしかめた。


「あのガキの顔を見て思い出した。そっくりだったからな。だからアドビスのカミさんだとわかったのさ。船長、悪ぃことはいわねえ! あのガキを生かしておくとロクな目にあわねえぞ!」


「……だから、何をお前は恐れているんだ?」


 ヴィズルはティレグの意図がわからず、眉間をしかめてつぶやいた。

 ティレグがいらだったように拳で壁を叩く。


「わからねえのか? あのガキだって、母親と同じように風を操る“術者”かもしれねぇってことだっ!!」

「……まさか」


 ヴィズルはジョッキの水を飲み干して、それをナバルロへ差し出した。いそいそと太った料理番は空になったジョッキを受け取る。


「その可能性は否定できねえ。現に船長……。あんたの船を操る力だって、それは父親から譲り受けたものに違いないぜ? 詳しい事は知らねぇが、昔、先代のスカーヴィズ……あんたの母親が、俺に話してくれたことがある。あんたと同じように、たった一人で船を動かす力を持っていたって」


 ヴィズルは再び腕を組んだ。

 ティレグの言う事は理解できる。ヴィズルに術者としての心得を教えてくれた婆さんも、“力”は次なる世代に受け継がれてゆくのだと言っていた。


 ヴィズルはゆっくりとかぶりを振った。左右に分けた銀髪が、ランプの光を受けて波打つようになめらかに動く。


「その可能性はあるかもしれない……が、俺は奴に特別な“力”は感じない」

「本当にか? そう言い切れるか……?」


 ティレグが立ち上がって、やおらヴィズルの足元にすがりついた。


「ティレグ……!」


 酒を飲むとどんよりと濁るティレグの眼が、今は血走って白目が赤い。

 しらふになったティレグは、心底怯えているのだ。小心者の本心をさらけだして。


「俺は……俺は信じねえ。だが、あんたの命令にも背くつもりもねえ。あんたがあのガキに手を出すなと言うのなら、放っておくさ……けどな」


 ヴィズルにすがりつき、床に膝をついて顔を上げたティレグは、次の瞬間そこに不敵な笑みを浮かべていた。


「後悔するなよ、船長。アドビスに手が届くというところで、あのガキが二十年前と同じ嵐を起こしてみろ。俺達は海の藻屑となって消えちまうんだ!」

「ティレグ……」


 ヴィズルは思わず眉をしかめた。


「へっ……へへへ……ははははははっ!」


 ヴィズルのブーツから手を放し、ティレグは肩を揺らして笑い出した。


「ふ……副船長、だ、大丈夫ですかい?」


 ナバルロが厨房の隅に身を寄せ、怯えたように声を震わせている。

 ヴィズルはティレグの狂気めいた眼差しと、醜悪な邪気を放つその気迫におされてその場から動けずにいた。これが本当のティレグの姿なのかもしれない……。


「おーい、島が見えたぞー!」


 その時、頭上の方から見張りが叫ぶ声がした。

 どうやらやっとアジトの島についたようだ。

 ティレグは息をきらせながらまだ笑っていた。


 ヴィズルは彼をちらりとみて、「ナバルロ、副船長にキツイ酒をやってくれ」と言い残して厨房を後にした。酒を飲まないと自我を保つ事ができないティレグに、ほんの少しだけ憐憫の情を覚えながら。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る