4-23 ファラグレール号での再会(1)

 アドビスの命令で、ウインガード号に乗ったらしいシャインを連れ戻すべく、ファラグレール号がアスラトルの軍港を出港して二日がすぎた。


 青緑の海をオレンジ色に染めて夕日が沈んだ19時ごろ。ファラグレール号の船尾にあるリーザの艦長室では、士官達が彼女とテーブルを囲み夕食が始まっていた。


「大誤算だわ……」


 自身の瞳と同じ深い赤色をした、シシリー酒のグラスをかたむけながら、リーザが深く深くため息を漏らす。


 副長のイリューズがびくっと目元に僅かな怯えをみせながら、料理を口に運ぶ動作を一瞬止めた。リーザの機嫌が悪いのは誰が見ても明らかである。


「まだ風は変わらない?」


 いらだちを漂わせながら、リーザは物憂気に首を左に向けた。隣に座ってパンを口に運んでいた士官候補生のスカルは、それを喉に詰まらせそうになって慌ててグラスについであった真紅の酒を流し込んだ。


「うっ……。は、はい艦長。……依然北よりの風が強いです」

「……そう」


 先程よりずっと重苦しいトーンでリーザがつぶやく。彼女の機嫌が悪いのは無理もない。思った通りの針路で船を進ませることができないからだ。


 風はアドビスから受けた命令を遂行させる気がないのか、リーザをあざ笑うように北寄りのまま吹いてくる。二日前、アスラトルの港を出港してからずっと。


 ウインガード号の目的地はジェミナ・クラスだ。だからリーザの船ファラグレール号も北上しなければならない。けれど肝心の風が北から吹いてくる。帆船は風上に向かって進む事がとても難しい。


 リーザの船はマストに対して平行に帆がついている縦帆船(スクーナー)なので、大型軍艦のウインガード号のように、マストの前に帆がついている船と比べて、風上へ向かって帆走する能力は優れている。


 けれどそれでも限界がある。

 風が北から吹く以上、北に進む事はできない。


 リーザにできることは、風向きが変わるまで、船をやや東寄りに進ませながら、(そのままだと東へ行ってしまうので)適度な所で反対の西向きに船の針路を変えて、ジグザグにまさに、じりじりと北上していくしかないのだ。


 しかし船は北上するどころか、潮の流れと相まって、どんどん南東の方角へ流されている状態がずっと続いている。



 リーザは目の前にずらりと並べられた色とりどりの料理を見ながら、何時もならうれしくてわくわくしているのに……と思った。


 金の燭台の上で暖かな光を宿したろうそくの灯りの中、明るい緑の香草の上に乗った、大きな海老の赤がとても鮮やかだ。


 ボイルされたその白い身は、ぷりぷりしていて美味しそうな湯気を立てている。隣の皿には玉ねぎを薄くスライスしたものと、リング状に切ったイカに、濃紫色の二枚貝が口を開けて薄黄色の大きな身に特製のソースがたっぷりとかかっている。


 リーザは白いカップに注がれた、透明な野菜スープを口に含んだ。先程まで甲板にいたせいで、体が冷えきっていた。スープはシシリー酒よりも、驚く早さで体の中を駆け巡り、再び血の通う温かさを取り戻してくれた。


「あと一日このままだと、ウインガード号には追いつけないな」


 幾分残念そうに聞こえる声よりも、シルヴァンティーのほっとする香りと、焼きたてのケーキが発する甘い匂いがリーザの注意を引いた。


 目の前にそれらが並べられる。リーザは少し疲れた表情で、ジャーヴィスの顔を見上げた。ジャーヴィスは白い糊のきいたシャツに黒いエプロンをして、すっかり料理人の格好をしていた。


『ジェミナ・クラスに着くまでの一週間。ファラグレール号でのあなたの仕事場は厨房よ。ジャーヴィス』


 我ながらいい考えだと思っていた。

 ジャーヴィスはひと月療養院のベッドで過ごしたのだ。やっと歩き回れるようになった状態にも関わらず、こうして船に乗る事ができるのは、彼が強靱な精神力の持ち主で、普段から体を鍛えているお陰に他ならない。


 しかし、生真面目なジャーヴィスのことである。

 船に乗ってしかもそれが軍艦ならばなおの事、何の仕事もせずにじっとしていられるはずがない。甲板の仕事はほとんどが肉体労働だ。しかもファラグレール号には副長のイリューズがいるので、彼の名誉の為にもジャーヴィスに出しゃばって欲しくない。そこで思い付いたのが、自分付きの料理番だった。


「そうね。私達はどんどん南下しているわ。ウインガード号に追いつくどころか、アスラトルへ帰るのに軽く一日費やすでしょうね」


 ジャーヴィスの青い瞳が悔しそうに細められたのをリーザは見た。


「イリューズ副長」


 おでこが少し後退しかけている(まだ三十代)、イリューズは切り分けられたケーキを頬張っているところだった。


「モグモグ……(なんでしょうか、艦長)」

「口に食べ物を入れたまましゃべらない! お母さんに教わらなかった!?」


 目を白黒させて、両手で口元をおさえたまま、イリューズはつぶやいた。


「……ほみばぁせん! (すみません)」


 リーザはうんざりした面持ちで副長を睨み付けた。


 戦争がないせいか。

 自分達の任務がもっぱら積荷運びなせいか。

 どうも後方に配属される士官達は皆、緊張感のカケラすら感じられない腑抜けが多いような気がする。


 リーザはジャーヴィスの入れてくれたシルヴァン・ティーを飲み下した。

 熱くて一瞬身震いする。舌を火傷したかもしれない。


「風が変わったらすぐ知らせるよう当直に言い聞かせて。勿論、変わったら総員で帆を張り直して、今までの遅れを取り戻すの。わかった?」

「……はい」


 子供でも理解できる命令だ。

 テーブルについた副長のイリューズ、士官候補生のスカル、航海士のマルグリッドの顔をぐるりと見回して、リーザははたと気付き、傍らに立っているジャーヴィスに言った。


「あら? シルフィード航海長がいないわ。私、あなたと一緒に食事をするよう、誘ったはずなんだけど……」


 エプロンを外したジャーヴィスは、空いているリーザの右隣の席についた。


「シルフィードのやつ、腕を折って休職中だっただろう? あいつにとっては久々の航海でね。もう少し甲板にいて海を見たいと言っていた」

「そう……」


 リーザはシシリー酒のビンをとって、ジャーヴィスのグラスに注いだ。


「ありがとう」


 口元を少しほころばせて、ジャーヴィスがはにかんだ笑みを見せた。

 明るい栗毛の前髪が、同じ色をした意志の強そうな眉の上にぱらりとかかって静かに揺れる。それをジャーヴィスはうっとおしそうに右手を上げて払いのけた。


 リーザは舌の上でとろけるケーキの味に満足しながら、何気ない素振りでジャーヴィスを見ていた。

 副長のイリューズと航海士のマルグリッドが、リーザの顔に浮かんだ聖母のような笑みを見て、表情を凍り付かせているとは知らず。


 ドンドン!


 場の和やかな雰囲気が、急いたように扉を叩く音で破られた。


「誰?」


 口元をきゅっとひきしめ、リーザがよく通る声で問う。

 同時に天井の方がどたどたと歩く音でうるさくなった。

 甲板にいる当直の水兵達が何か叫んでいる声もする。


「俺です、シルフィードです」

「入りなさい」

「失礼します!」


 扉を開いて入ってきたのは、ジャーヴィスと同じように白いシャツを着て黒いエプロン姿のシルフィードだ。リーザはジャーヴィスの手伝いをするよう、シルフィードに命じたのだった。


 肩を超す長い黒髪を一つにまとめ、無精髭を生やしたシルフィードは、興奮した様子でずんずんと中に入ってきた。


「何があったの? 甲板も騒がしいみたいだけれど」


 シルフィードは自分を見るジャーヴィスと視線を合わせると、思わず両手を広げながら叫んだ。


「早く甲板へ来て下さい! ジャーヴィス副長。奇跡ですよ!」


 そう言ってシルフィードはジャーヴィスの袖をひっぱった。たまらずジャーヴィス

は席を立つ。リーザも立ち上がった。


「何を興奮しているの? ちゃんと報告しなさい」


 眉をひそめたリーザの顔を見て、シルフィードはぶるぶると肩を震わせながら大きく叫んだ。


「これが興奮せずにいられますかって! クラウスのやつが見つかったんですよ! ホントに!」


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