4-4 温もり
「この人はシャイン・グラヴェールではありません」
リオーネがシャインと間違えられた士官の前に立ち、毅然とした態度で遺族の女性を見つめていた。
「そ、そんなことはないわ!」
女性はかん高い声で、ヒステリックに抗議する。だがリオーネは新緑の色をした瞳をゆっくりと伏せ、女性の高ぶった感情を鎮めるようにその手を取った。
「私はシャインの叔母にあたる者です。ですから、この人がシャインでない事がわかって当然でしょう?」
まるで子供を諭すような、それでいて、子守唄を歌うようなけだるさをもったリオーネの声に、女性はおどおどした目つきで見返してきた。
「叔母って、本当なの?」
「ええ。私は海軍で“海原の
女性を安心させるように、リオーネはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ひょっとして、リオーネ様ですか!」
遺族の中から、初老の紳士が彼女に向かって話しかけてきた。
「はい」
リオーネがそう答えると、人々はほっとしたように顔を見合わせた。
彼女はこの十数年間、船の安全を守るため、その力をもって数々の功績を上げており、海軍内では有名な人物だ。
「おい、リオーネ様がおっしゃるんだから、その士官はグラヴェールじゃないだろう」
そうだ、そうだと周囲が口々に漏らす。
リオーネは、黒い羽根をあしらったドレスをまとった女性の肩に軽く手を乗せ、静かに微笑んだ。
「そういえば……私、金髪だったことぐらいしか、覚えてなくて」
消え入りそうな声で女性はリオーネに言った。
リオーネは優しくうなずいて彼女を伴い、遺族達のもとへ歩いて行った。
「皆様。ノーブルブルーが海賊に襲撃されたことは事実です。私達の大切な人が乗った船に何が起ったのか、それは本部の方で調査中です。ですから、皆様に私からお願いがございます。憶測で物事を計ることはやめて頂きたいのです。何もわからないのに、いたずらに悪意のある言葉をふりまくことは、正しいことでしょうか? 私も親しかった者を、今回亡くしました……」
リオーネは言葉を詰まらせ、二、三度目をしばたいた。
「リオーネ様」
黒い羽根をつけたドレスの女性が、今度はリオーネを心配するように、その顔をじっと見つめている。
「すみません……。私が言いたいのは、今は青の女王の御手に委ねられた方達が、私達の所に再び帰り、この地で魂が憩うよう、祈りを捧げるべきだということです。ほら……埋葬地で招霊の儀式が始まりますわ」
その時、爽やかな風が聖堂の出入り口から入ってきて、一定の間隔で打ち鳴らされる鐘が聞こえた。
遺族達はめいめい顔を上げ、そっと胸の前で手を組んだ。先程まで怒りにうち震えた荒々しい表情は消え失せ、今は死者を悼む静かな空気が彼等を取り巻いていた。
「参りましょう。愛しい人を迎えてあげるために」
目からあふれそうになった涙をそっと指で弾き、リオーネは先立って歩き出した。その後ろを遺族達が、再び神妙な面持ちで続いて行く。
「さすがリオーネ様だ。一時はどうなるのか、ひやひやしたぜ」
礼装姿の士官達がそう呟くのを聞きながら、シャインは目の前の円柱にそっと右肩を預けた。
早いペースで鼓動を打つ心臓と同じように、こめかみが脈打っている。周りにいる士官達は、自分を気遣ってか、あるいは巻き込まれるのを恐れてか、誰も声をかけてこようとしなかった。
それでいい。何を聞かれても、言葉が出てこない。
いや、すべてを話してしまうかも知れない。
自分だけが知っている罪に押し潰されるのが怖くて――。
人々が出て行った大聖堂に、シャインは一人、祭壇近くの円柱に体を預けたままだった。
胸の動悸は治まってきたはずだが、反対にこめかみの痛みが強まってずきずきと疼いている。いや――この不快な頭痛は昨日から付きまとっていた。
ツヴァイスに関する調べ物や、今日アドビスに提出しなくてはならない報告書を作成していたので、気が昂って眠れなかったのが要因だと思う。
シャインは汗ばんだ額に手をやり、真っ白な聖堂の中で一際暗い影を落とす黒百合の花に視線を向けた。
エルシーアでは、死者の数だけ黒百合の花と蝋燭を供えるのが習わし。
その花の数をみて思い知らされた。
自分の成した『選択』の重さを、いかに軽んじていた事を――。
「……だから言ったのだ。式には出なくて良いと」
背後から聞こえたその声に、シャインは全身を強ばらせ、しばし顔をあげる事ができなかった。冷たい大理石の円柱に額を押し当て、両目を閉じる。
あなたに、俺の何がわかる?
いつだってあなたは、あなたの都合でしか、俺の事を見ようとしないくせに。
こめかみの疼きが、頭全体を締めつけるような痛みへと変わっていく。
額に手をやりうつむいたまま、シャインはやり場のない怒りを声の主へとぶつけた。
「何の御用です? 報告書の催促ですか? だったらご心配なさらずとも、今日の夕方までにお届けいたしますよ。ですから……今は……」
近付いて来るアドビスの足音はよく聞こえなかった。
こめかみの疼きが更に苛んできて、視界が薄暗く感じられた。
◇◇◇
いつ自分が倒れたのか――よく覚えていない。
気がついた時目に入ってきたのは、飾り気のない黒の喪服に身を包んだリオーネの心配そうな顔だった。
「リオーネさん……」
彼女の白い顔が、正面の窓から差し込んでくる光と相まって、周りの空気に溶けていくような気がした。
部屋は薄い灰色を帯びた石で組まれていて、自分が寝かされている木の寝台の奥にも、小さな窓があるのが見えた。その窓の手前には一組の机と椅子が置かれている。誰かが書き物をするために使っているのだろう。
「しばらくここで休ませてもらいなさい。聖堂の神官様があなたの為に、お部屋を貸して下さったのよ」
穏やかな口調だが、リオーネの声にはいくばくかの怒りが含まれている。
彼女は驚いて急ぎかけつけてきたのだ。おそらく、アドビスに頼まれて。
「すみません……ご心配をおかけするつもりじゃ……」
シャインはリオーネの心境を察してつぶやいた。彼女もまた自分の愛弟子を――大切な人を失ってしまったひとりだ。今は誰よりも故人を忍び、その喪に服したいだろうに。
その時、手袋を外したリオーネの細い指が、そっと頬に触れた。
温かい。
その温もりを感じるだけで、ほっとするような安心感が身を包む。
「シャイン、あなた泣いていたわ」
リオーネのその言葉に、息が止まる程の衝撃を感じた。思わず寝台から身を起こすと、シャインはまじまじと自分を見つめるリオーネを凝視した。
「泣いてなんか……いません」
「今は、そうね。ふふ……このことは黙っててあげるから、安心なさい」
肩まである白金の前髪をゆらし、光の中でリオーネは微笑んだ。
『安心なさい』
リオーネはいつも自分のことを気にかけてくれる。
知らないだろうと思っていた事だって、実はよく知っていて驚かされる事もしばしばだ。そういう意味の『安心なさい』ということがわかっているから、シャインはあえて抗議せず、あきらめて微笑を返した。
木漏れ日が射しこむ静かな神官の部屋で三十分ほど休むと、苛んでいた頭痛の痛みは幾分やわらいだ。
リオーネは謹慎中の身でもあるし、一度<西区>のグラヴェール屋敷に戻って、休養するようにすすめてくれた。
しかし今、そんなことができるはずがない。シャインはアドビスへ渡す報告書を作成したら、リオ-ネのいう通りにしますと返事をして、聖堂を後にしたのだった。
◇◇◇
今日一日を振り返ってみるとそれがどんなに目まぐるしかったのかが良く分かる。
葬儀の式典から始まり、顔を見ておきたかったので、療養院にいるジャーヴィスを訪ね、アドビスに報告書を渡し――ツヴァイスにノーブルブルーへの転属を承認してもらう確約を取り付けた。
間借している部屋の窓から、夕焼けだった空が何時の間にか藍色のそれに変わってきたことに気付き、身支度を終えたシャインは部屋を後にした。
気さくで親切な老家主セシリア嬢へ部屋の鍵を渡して、今度の航海はちょっと長くなりそうです、などと言葉を交わす。
「体には気をつけて下さいね。今なにかと物騒なのでしょう? 無事に戻られる事をお待ちしてますからね」
ここにも、そんな言葉をかけてくれる人がいる。
今日は感傷的になっているから、余計ありがたく感じてしまうのだろうか。
シャインは謝意を笑顔で表し、セシリアに見送られて軍港への石畳の道を歩き出した。彼女のように、さりげなく誰かを勇気づけることができるような、そんな人間でありたいと思いながら。
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