3-22 ロワールの想い

 シャインが無事だった事に安心したジャーヴィスは、無性に事の仔細を聞きたくなった。あの嵐の海で何があったのかを。どうして彼がファスガード号に乗っているのか。


 けれどジャーヴィスはそれらを一旦喉の奥へ押し込んだ。

 自分はシャインの副官としてやらなくてはならないことがある。

 ジャーヴィスはシャインへ抱えていた青い封筒を差し出した。


「ノーブルブルー宛ての命令書です。提督がお待ちでしょう。どうぞ」

「――ありがとう」


 シャインは微笑して封筒を受け取ると、感慨深げにそれを見つめた。


「ジャーヴィス副長、実はラフェール提督が三十分俺に時間を下さったんだ。海に落ちた俺がどうなったのか、君に説明する時間がいるだろうって。だから、そのご厚意に甘えたいと思う」


「そうなんですか?」


 早く教えて下さい、と唇まで出かかった言葉をジャーヴィスはなんとか噛み潰した。その前に言わなくてはならないことがある。

 ジャーヴィスは一瞬嬉々とした光をたたえたその瞳を伏せ、眉根を寄せた。


「ジャーヴィス副長?」


 自分を気遣う優しい声がする。

 もう二度とそれを、聞く事はできなかったかもしれなかったのだ。

 いや、その声を聞く資格は自分にない。


『私はあなた一人と、乗組員全員の命を、天秤にかけてしまったのだから』


 ジャーヴィスはシャインの足元へおもむろに片膝をついた。

 シャインの顔を見る事がどうしてもできなくて、頭を垂れてしまう自らの、傲慢と弱さに恥じながら。


「艦長、申し訳ありません。あなたが海へ落ちたというのに、私は任務の遂行を優先したのです。私は……あなたを……」


「俺は言ったはずだよ、ジャーヴィス副長」


 床の板に布がこすれる小さな音がしたかと思うと、ジャーヴィスの目の前に、シャイン自身も同じように膝をついてこちらを見ていた。


「危険がない航海なんて存在しない。海へ出る以上いつだって、命を失うかもしれない状態にさらされ続けてる。だから、君のせいじゃない」


 シャインの右手がジャーヴィスの左腕を軽くつかんだ。そのまま上に引っ張られたので、ジャーヴィスは否応なくシャインと共に立ち上がる。


 納得がいかなかった。

 自分が言いたいのはそういう事ではなかったから。


「艦長、私はあなたを見捨てたんです! 海事法でも海に投げ出された人間の救助は、何事よりも優先せよと定められています。それなのに、私は!」


「……それは、状況によりけりじゃないのかい? 誰も君の行動が間違っていたと、責める事はできないはずだ」


 シャインの顔が曇った。

 怒っているというわけではなく、ひどく、青ざめた憂いを帯びて。

 その感情を強いて表すとすれば……悲しみ。

 ジャーヴィスは高ぶっていた己の興奮が、静かに潮のように引いていくのを感じた。


「何故あなたがそんな顔をするのです?」


 ジャーヴィスの問いに、シャインは小さく微笑した。


「ちょっと、想像していたんだ……」

「想像?」


 シャインが何を考えているのか、さっぱりわからない。

 ジャーヴィスはおうむ返しにつぶやいた。


「もしも君が、俺が海へ落ちた事にすぐ気付いて、あの嵐の海の中、船を回頭することに決めたとしよう。夜間の上、雨で視界はきかないし、波も高かった。俺を発見できる確率は限り無くゼロに近い。それでも君は、引き返す事にする」


 シャインは溜息をついて、傍らの応接椅子に腰を下ろした。

 そして肘あてに腕をのせ、額に手を当てると目を閉じた。


「船の後ろから風を受けている時は、その本当の強さがわからない。君も知っていると思うけどね。俺が思うに……船首の向きを変えた途端、ロワールハイネス号は逆波(さかなみ)と、想像以上の力で吹き付ける風のせいで、あっという間に転覆していただろう。ヴィズルの腕がどうだという問題じゃない」


「……艦長」


 シャインの言いたい事がおぼろげにわかりかけたジャーヴィスは、その場に立ったままうなだれた。

 シャインが椅子から立ち上がって、そっとジャーヴィスの右手をとった。


「君達全員が無事で本当によかったと思ってる。そして、ロワールを守ってくれて……ありがとう」



 ジャーヴィスは何も言えなかった。

 自らの死を意識したシャインの言葉には、理屈ではない現実味がある。

 彼の言うように、ひょっとしたら、自分達が海の藻屑になって、助かったシャインが一人悲嘆にくれていたかもしれないのだ。


 だからジャーヴィスは、右手に乗せられたシャインのそれに、自分の左手をゆっくりと置いた。そして大きく息を吐いて、しかめていた眉の緊張を解いた。


「みんなあなたの帰りを待っています。もちろん、レイディ・ロワールも」


 陰鬱だったシャインの顔に、みるみる明るさが戻ってくる。


「心配させて悪かったと思ってる。また、みんなにお酒でもおごらなくてはね」

「艦長……」


 ジャーヴィスは疲れたように、しかし、やっといつもの少しすました副長の顔になっていた。


「あの、よろしければ仔細をうかがいたいのですが」

「ああ、そうだね」


 シャインはジャーヴィスに椅子をすすめた。

 礼儀正しいジャーヴィスは、出入口の扉に控えている、ファスガード号副長のイストリアをちらりと見た。


 イストリアは目元をしきりにハンカチでぬぐっていたが、ジャーヴィスが自分を見たので、あわててそれをポケットに突っ込み、どうぞといわんばかりに右手を振った。ジャーヴィスは軽く頭を下げて、応接椅子に腰掛けた。


「クラウスが酷い船酔いで、横波にさらわれないよう命綱で縛った。だが俺は、常に片手で身の安全を保つ事を、すっかり忘れていたんだ」


 語り出したシャインの言葉で、ジャーヴィスの脳裏には、あの嵐の夜の光景が鮮やかに浮かび上がった。


「それで、船が右舷へ傾いた時……船外に……」


「ああ。波が頭上からかぶさってきて、気がついたら海に投げ出されていた。もうだめだと思ったよ。波間を漂う小さな樽を見つけて、やっとの思いでそれにしがみついたものの……これからどうすればいいのか、さっぱりわからなかった」


 ジャーヴィスはまるで自分の事のように、両手をぐっと握りしめた。


「あの嵐では誰でもそう思います」


「うん……。取りあえず俺は、体力が続く限り樽に身を任せるしかなかった。あそこの海流は風と同じように、やや北東へ向かって流れていたから、本当に運が良ければ、また君達に会えるかもしれないと思ったんだ。多分、一昼夜そうしていたと思う。さすがに手がしびれて――それをいつ放そうか考えた」


 ここで、くっくっくっと、シャインは忍び笑いを始めた。

 首をすくめて、丸めた右手の拳を口元へ当てながら。


「ど、どうされたのです?」


 続きが気になるジャーヴィスは、身を乗り出して催促する。


「すまない。いや……恐ろしいことに、意識が遠くなりかけたら、なんとロワールのコワイ顔が浮かんできてさ、その度に目が覚めて、樽を捕まえなければって思ったんだ。おかしいだろう? 彼女とは随分距離が離れていたのにね。でも彼女が側にいるような気がしたんだ。けれどそのおかげで、俺は樽にしがみ続ける事が出来て、通りがかったファスガ-ド号に助けられたって訳さ」


『私はシャインの想いの一部……誰よりも彼と近しい存在。だから、感じるの。生きてるって、わかるの……』


 ジャーヴィスは自分の顔に、あたたかな微笑が上るのを感じた。


「そうですか。レイディの想いは、確かにあなたへ届いていたんですね」

「えっ?」


 シャインが頬杖を止めて、驚いたようにジャーヴィスを凝視した。


「レイディはあなたと共にあったのですよ。幻ではなく本当に」


 ジャーヴィスはシャインが生きていることを教えてくれたロワールの事を語った。

 シャインは暫し考えるように、右手を額に当て小さく首を振った。


「また……彼女に借りができたな」


 かぎりなく優し気な瞳で虚空を見つめるシャインは、声をかけるのが憚れる程、物思いに浸っていた。ひょっとしたら、シャインが近くにいることを悟っているだろうロワールが、彼に何か話しかけているのかもしれない。

 ジャーヴィスはシャインを少し羨ましく感じた。


 その時、艦長室の扉を二度叩く重い音が聞こえた。

 傍らにいたイストリアが、一瞬身を震わせて振り返り、扉を開ける。

 外にはファスガード号の士官候補生が立っていた。


 二十歳ぐらいのがっしりした金髪の青年で、おそらくこの航海が済めば任官試験を受けるのだろう。士官としての風格がはや、にじみ出ている。


「イストリア副長、失礼いたします。ルウム艦長が、ロワールハイネス号のグラヴェール艦長とジャーヴィス副長を、そろそろ下にお連れするようにとの事です。ただし、お二方のお話が終わっていたら……ですが」


 イストリアは「どうされますか?」と、一言シャインへ尋ねた。


「行きます。もう十分時間をいただいたので」


 ジャーヴィスも軽くうなずいて同意する。


「では、下のサロンへご案内します。そこで、ラフェール提督もお待ちですので」


 シャインとジャーヴィスは立ち上がり、サロンまで案内するという士官候補生の後ろについて歩いた。


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