3-13 ロワールの憂鬱
「ねえシャイン! あれ、一体なんなのっ!?」
鼻息荒いロワールの興奮した声が聞こえたかと思うと、同時に彼女の姿が現れた。
シャインは執務机に広げた海図の中から、必要な物を選んでいる最中だった。
ロワールぐらいの小柄な子供……いや、少女なら掛け布団にできるぐらいの大きさで、十数枚ある。
外洋に出たせいで船は時折大きく左右にゆれているが、シャインは器用に体の重心をかえて見事にバランスを保っている。
「……あれじゃあ、わからないよ」
一度仕事を始めたら、周りが見えなくなるシャインだったが、相手は船の精霊ロワールだ。彼女が怒るとどうなるか、そのおそろしさはわかっているので、返事だけはした。視線は相変わらず、海図に向けたままであったが。
「もうー、こっち見てよ!」
それが気に食わないロワールは、どんと海図の上に両手をつき、のぞきこむようにシャインの顔を見た。
彼女と目を合わせたシャインは、あきらめたように顔を上げた。
話を聞いてやらない事には、自分の仕事をさせてもらえないということを悟ったからだった。
「で、一体どうしたんだい」
シャインは目的の海図を引き抜き、椅子の上にそれを置いた。
「……なんであんな航海士を乗せたの?」
「航海士って?」
まだシャインの関心は海図の方にあった。
必要ではないそれらをくるくる巻いて、紺のリボンで縛る。
そしてやっと穏やかな青緑の瞳をロワールへ向けた。
「……ほら、あの銀髪のすかした男よ」
ロワールは両腕を抱え込み、うんざりした面持ちでつぶやいた。
体全体から嫌悪感がありありと漂っている。
「ああ、ヴィズルのことか」
きっ! とロワールが水色の瞳を細めてシャインを見た。
「名前なんてどうでもいいわ。私、あんな粗野で野暮で失礼な人が、私の舵を握っている事が許せないのっ!」
「ロワール……」
シャインは嫌な予感を感じた。
なんとかなだめないと、こんな外洋で勝手に船を動かされたら大変だ。
「ロワール、何怒ってるんだい? ヴィズルが君に何かしたのかい?」
なにかあったから怒っているのだろう……そうわかっていても、聞かずにはいられないシャインだった。
「――私はどーせ、ガキですよーだ」
「……え?」
ロワールは執務机に両手をついて、そのままうなだれた。
肩を流れるゆるくウエーブした紅髪が、はらりと垂れて顔を隠す。
「……わかってるわよ。言動も容姿もまだまだ子供だって。だから、改めてそう言われると腹が立つの。そうでしょ? シャイン」
『そういう所が、子供っぽいと思われる原因だろうな』
シャインは一瞬そう考え、はっとして口元を押さえた。
ロワールは人の心を読む事が出来る。
自分までこんなことを思っていると知れたら、どんなヒステリーを起こすだろう。
だがロワ―ルは、そんな余裕がないほど落ち込んでいるようだった。
まったくいつもの彼女らしからぬ状態だ。
シャインはそっと右手を伸ばして、彼女の細い肩の上に置いた。ロワールは一瞬身を小さく震わせて、おずおずと顔を上げた。
「俺はそんな君が好きなんだけどな。誰が何と言おうと、それが君のありのままの姿じゃないか。俺は自分を偽る君を……見たくない」
ある意味、この言葉はロワールの子供っぽさを肯定したことになる。だが彼女はそうとらなかった。
「……ごめんね、シャイン。あたし……つい……悔しくて」
ロワールはシャインをちらりとみると、そっと瞳を伏せてうつむいた。
その白い顔には、いつものちょっと小悪魔的な微笑が浮かんでいた。
それを見たシャインはほっとして、ロワールの肩から手を放した。
「君の気持ちもわからなくもないさ。誰だって、気にしている事がある。ま、ヴィズルは少し口調がきついけど、悪いやつじゃないよ」
「どうかしら?」
ロワールは両腕を組んでつぶやいた。すっかりいつもの彼女だ。
「腕は確かだ。ロワール……今回の航海はちょっと長くてね、どうしても、彼のような経験ある航海士が必要なんだ」
「……そうなんでしょうね。わかってるわ」
ロワールは意味ありげに、シャインの椅子の上に置かれた海図を見た。
「どこに行くの? もうすぐエルシーアの領海をすぎちゃうわよ」
「どこ、か。これからジャーヴィス副長に説明するんだ。君も一緒に聞けばいい」
シャインはロワールの視線に気がついて、椅子の上の海図を取った。
だがロワールは小さく微笑むと、ゆっくりと首を横に振った。
「私はどこにいても、あなたの話を聞けるからいいわ。私がいたらシャインも気になるでしょ? ごめんね……忙しいのに邪魔しちゃった」
「構わないさ。そうだ、ジャーヴィス副長との話が済んだらお茶にするよ。その時になったらまた……来てくれるかい?」
「いいわよ」
ロワールはうれしそうにうなずくと、そのままかき消すように姿を消した。
シャインはそれを名残惜し気にしばらく宙を見つめていた。
やがて、小さく頭を振ると、中断された仕事にかかるべく、手にしていた海図を机の上に広げた。
しかし次の瞬間、シャインはある事に気がついて、その事実に少なからず驚いた。
「ちょっと待て。ヴィズルがロワールを子供扱いしたってことは、彼は、彼女が見えるってことか?」
◇◇◇
それから十分後。
いつもの快活な表情は消え失せ、まるで二日酔いの頭痛に悩まされたような顔をしたヴィズルが艦長室にやってきた。
本当に頭が痛いのか、こめかみに手をやり、眉までしかめている。
シャインは執務席に座って、じっとヴィズルを見つめていた。
「正午の天測の時間がずれると、正確な船位置が出せない。一体、君ともあろう人が何をやってたんだい?」
ヴィズルの方が、何度も外海を航海していることを知っているからこそ、シャインは厳しく彼に言った。
「申し訳ない……さぼるつもりじゃなかったんだが」
うなだれるヴィズルに、シャインは理解の色を示した。
「わかってる。そんなに上(甲板)は、忙しかったのかい?」
ヴィズルは首を振った。
「違う……レイディ・ロワールと、話をしていた」
「なんだって?」
シャインは先程のロワールの話を思い出して、ヴィズルを凝視した。
これがジャーヴィズなら、もっとマシな嘘をつけと、野次られていただろうが。
「君も船の
シャインの言葉に、ヴィズルはやっと笑顔を見せた。
「ああ。しょっちゅう見えるわけじゃないがな。だけど、かなり気の強いレイディだな? あのお姫さんは。夕焼けのような長い紅毛や、こまっしゃくれた顔はかわいいが、ちょっとガキっていうのが惜しいぜ。もう三年もすれば、落ち着いてきて、俺好みになるにちがいないんだが」
シャインは大きく表情を崩さなかったが、内心は動揺していた。
間違いない。ヴィズルはロワールが見えるのだ。
『船の
「そうか……災難だったね、って言っとくよ」
シャインは額にかかる前髪を払い、ヴィズルに微笑してみせた。
「すまない、今後は気をつける。でないと……副長が怒りまくって、俺を船外へ放り出すだろうな」
さっそくジャーヴィスと何かあったような口ぶりだ。
シャインは目を細め、うんうんとうなずいてみせた。
「ジャーヴィス副長なら、やりかねないな」
シャインの声が冗談とは思えないほど低かったので、ヴィズルは一瞬真顔になった。
コンコン……!
艦長室の扉を軽くノックする音が響いた。
「誰だい?」
「……ジャーヴィスです」
噂をすればなんとやら。
「なんて奴だ。もう来やがった」
ヴィズルが舌を出して、肩をすくめるのをシャインは見た。
「……入ってくれ」
「失礼いたします」
ジャーヴィスはいそいそと艦長室へ入って来た。
ヴィズルを一瞥するその瞳は、呆れ果てたように光っている。
「――用が済んだら、持ち場へ戻ったらどうだ」
「言われなくても出ていくぜ」
ヴィズルは噛み付くように言うと、きびすを返して出て行った。
その背中を見送ったジャーヴィスは、やれやれとした表情を浮かべ、再びシャインの座っている執務席へ近付いた。
「追い出してしまいましたが……よかったでしょうか?」
シャインは肯定するように、黙ってうなずいた。
「話は終わっていたけどね……でも……」
「なんです?」
シャインは前に立つジャーヴィスを見上げた。
「少し君は……ヴィズルに厳しすぎないか?」
ジャーヴィスはふん、と、息を吐いた。その瞳は何時にもまして、冷たい輝きを放っている。
「えらくあの男の肩を持ちますね。これが普通の軍艦なら、懲罰ものですよ」
暗にシャインを批判しつつ、ジャーヴィスは小脇に抱えていた、紺色の表装が施された書物を執務机の上に置いた。ロワールハイネス号の『
「本日正午の船位置は記入しておきました。海図室の海図にも記入済みです」
こういう所はさすがジャーヴィス、だ。
最初からヴィズルを信用していない、ということだろうが。
シャインは航海日誌を広げた。
「……ありがとう。クラウス士官候補生は、だいぶ、船位置の計算を出すのがうまくなったみたいだね」
今日の航海日誌の記入は彼の字だった。
「まだまだ……検算を二度も間違えました。ま、外洋へ出る航海ですから、いい訓練になるでしょう」
ジャーヴィスはそう言うと、眉間に寄せた眉の緊張を解いた。
「それでは、今回の命令の内容をお聞きしましょうか?」
「わかった。じゃ、そこの椅子に座ってくれ」
「はい」
シャインは執務机の右側の鍵がかかった引き出しを開けると、中から青い封筒を取り出した。そして、ジャーヴィスの向いの肘掛け椅子に腰を下ろすと、さも憂鬱そうに両手を組んだ。
「……また、やっかいな命令じゃないでしょうね?」
幾分不安を帯びたジャーヴィスの声に、シャインは気弱な笑みを浮かべた。
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