3-12 ヴィズルの憂鬱
修理をすっかり終え、船体の化粧直しまでしたロワールハイネス号は、新たに命じられた任務につくためアスラトルの港を出港した。
エルシーア海の深いターコイズブルーの波を切り裂くように、彼女は快速船にふさわしい速度で進んでいく。
船首の三角帆を三枚と、各三本のマストに二枚ずつ上げられた、輝かんばかりの白い帆は、まさに翼となって船を羽ばたかせているようだった。
ロワールハイネス号の後部甲板で、帆の張り加減を見ていたシャインは、具合よく風をはらむそれに満足し、後ろを振り返った。
そこには指示を待つ、士官候補生のクラウスが控えている。
「今日は風が安定しているね……このまま後一時間、南東を維持しよう」
「了解しました。針路、南東維持です」
クラウスは命令を復唱すると、後方で舵輪を握る航海士の元へ走っていった。
それを見送ったシャインは、前部甲板で帆の調整をしている副長、ジャーヴィスに指示を出すため階段を下りた。
◇◇◇
「艦長より申し送りです。針路、後一時間、南東を維持です」
「了解した。針路、南東維持」
二ヶ月限定の新・
そして隣で舵輪を握っている次席航海士のグラッドに声をかける。
「グラッド、南東だ……ちょい船首を風下へ落とせ」
「了解、航海長」
グラッドは舵輪を右に大きく回して船の反応をみる。
目の前にある、木製の羅針儀箱におさめられたコンパスをのぞき、その針が<南東>へ示すようにする。
針が南に行き過ぎないように、常に南東を指すように、船の動きを先読みして舵を取るのだが、そのあたりのカンが経験と正比例するのだ。
茶髪を刈り込んで角張った顔のグラッドの方が、ヴィズルより五つほど年上だが、彼は乗船経験が足りないため航海長の資格を保持していない。
グラッドはヴィズルが、まあ合格点をやろうかと思う程の腕だった。
思いがけない事態が起きない限り、平素十分任せられるレベルだ。
これなら結構楽できるかもしれない……ヴィズルは満足げにほくそ笑んだ。
その時だった。
下の甲板から階段を上がってくるジャーヴィスの姿が見えたのは。
疲れないのか? と一言いってやりたくなるくらい、眉間に縦ジワを浮かべた副長は、その青い瞳を微動だにせずヴィズルを見つめていた。
ヴィズルは風を気にしている様を装って、ミズンマスト(最後尾)にはためく風見を見上げた。
彼に好かれたい、気に入られたい、などという気持ちは少しもない。
だがこうも敵意を向けられっぱなしだと……気分が悪い。
それ故ヴィズルは、元々横柄な自分の口ぶりを改めるつもりがなかった。
権力に媚びることは嫌いなのだ。
だから、今後絶対改める事はないだろう。
……少なくとも、ジャーヴィスに対しては。
「ヴィズル航海長」
洗練されたエルシーア語で名前を呼ばれ、ヴィズルは背筋に悪寒を感じた。
無視しているのかと誤解を招く寸前で、ヴィズルは嫌々ながらジャーヴィスを見た。
右手をあげて手招きしている。こっちにこいということだろう。
ヴィズルは内心げっそりしながら、グラッドに声をかけた。
「風に注意してくれ。少し席を外す」
「わかりました」
一言次席航海士に注意を促し、ヴィズルは銀髪をなびかせながら、後部甲板、左舷側の手すりへもたれているジャーヴィスの前に行った。
「……お呼びで?」
鋭いナイフのような光を宿したジャーヴィスの目が、ぎろっとこちらを睨んだ。
だがヴィズルは知らんぷりをきめこんだ。
そんなヴィズルの態度が気に食わないのか、ジャーヴィスの眉間のシワがさらに深くなる。
「ここは商船ではない。任務についたからには、軍規を守ってもらわなくては困る」
ヴィズルは肩をそびやかした。
出かかった口笛はなんとか抑え込んだが。
「すみませんねぇ副長。ごらんの通り、当直中はちゃあんと航海服を着ていますが?」
支給された青い航海長の制服は、上着の袖が長かったので肘の所までまくっていた。かといって、自分の好みで軍服を仕立てている士官に、服の事で文句をつけられたくないのが本音だったりする。
「違う、その髪だ。肩より長い場合はくくってくれ。風紀が乱れるんでな」
髪。
ヴィズルは拍子抜けしていた。
そんなもの、一ヶ月二ヶ月ちょっと航海に出ただけで、すぐに伸びるものだ。
「……それが海軍の軍規って奴ですかい」
一抹の反抗心をたたえた目を伏せながら、ヴィズルは言った。
あまりにもつまらない事なので、口元をひきつらせながら。
だが、そんなヴィズルの様子に気付く事なく、ジャーヴィスは航海服のポケットから、緑の細紐を取り出していた。
「すぐにくくってくれ。うっとおしい上、衛生面に悪い」
「…………」
ヴィズルは黙ったまま、ジャーヴィスから紐を受け取った。船の上では艦長の次に、副長である彼に従わなければならない。
『全く……堅苦しい男だ。初めて会った時から、そんな感じだったが』
内心そう毒づきつつ、こじれると面倒臭くなるので、ヴィズルはさっさと銀糸のようなその髪をひとくくりに結んだ。
「これで満足してもらえましたかね?」
「結構」
ジャーヴィスはにこりともしない。
「じゃ、戻りますぜ」
こんなことで呼びつけられたのが腹立たしく、その場からヴィズルは立ち去ろうとした。
「待て。艦長からの指示を言いにきた」
ジャーヴィスの言葉に、ヴィズルは振り返った。
「まもなく正午だ。船位置を出すための天測を済ませたら、その結果を持って、部屋に来て欲しいそうだ。わかったか?」
「……わかった」
ジャーヴィスがぎゅっと唇を噛みしめた。
返事の仕方が気に入らないのだろうが、ヴィズルとしてはかなり譲歩して、ていねいに言ったつもりだった。
だから軽く会釈までつけてやって、ヴィズルは持ち場である、舵輪の側へさっさと戻ったのだった。
「……何だってあんなのを、艦長は気に入ったんだろうな。一言私に相談してくれればよかったのに」
後部甲板の階段を降りていくジャーヴィスの、思わず出た本音を小耳にはさみながら。
◇◇◇
「くすくす……」
ロワールはヴィズルとジャーヴィスのやりとりを見物していた。
船尾左舷側の手すりの上に座って。
彼女の右手後方には、次席航海士のグラッドが、相変わらず風見とコンパスをにらみあいながら舵輪を回している。
「ジャーヴィス副長に頭痛の種ができたのか……どうなるのかおもしろそう」
ロワールは彼らふたりの今後に興味を覚え、くすくすと再び忍び笑いをした。
「……何がおかしいんだよ」
「えっ!」
ロワールは飛び上がるほど驚いて、声がした方向へ顔を向けた。
というか、それは自分の正面にいた。
舵輪に戻ると思ったヴィズルが立ち止まり、興味深げにロワールを見ているのだ。
船の手すりの上に腰掛けている自分と同じ目線で。
そう、ヴィズルは背が高かったから。
「え、あ、その……あなた――まさか!」
明らかに動揺しているロワールへ、ヴィズルはふふんと意地悪げな微笑を浮かべてつぶやいた。
「へぇー驚いたな。この船には、船の
「……なっ!」
瞬時にロワールは、自身の髪と同じくらい顔を赤くさせた。
「なっ、なによ……いきなり失礼ね! だけど……あなた、私が見えるなんて、まあ、たいしたものかしら?」
ロワールは内心どぎまぎしながら、じっとヴィズルの深い夜色の瞳を見つめた。
普通の人間は船の精霊が側にいても気付かない。精霊自身が姿を見せようと思わない限り。
けれど『術者』と呼ばれる人外の力を使う者達や、時にはシャインのような例外が、精霊達の意志に反してその姿を見ることができるのだ。
「――あなた、“術者”?」
ロワールは思いきり疑いのまなざしで、ヴィズルを睨んだ。彼からは何だか底を見通せないような、深い闇のような気配を感じたのだ。あの藍色の瞳の奥に。
「術者か。うーん……そうかもしれないな。俺は船を操る“術者”だ」
ヴィズルは誇らし気に胸を張ると、大きめの口をにっと歪めて偉ぶった。
「……ウソ言うのやめたらどう? 確かに、船乗りとしての腕は認めるけど」
ロワールは年甲斐もなく、やけに子供っぽい表情を見せるヴィズルに呆れ果てていた。
「は、いっぱしに俺のでまかせを見抜くとは。これはおみそれしましたぜ……レイディ――?」
「ロワールよ」
ヴィズルは目を細めてにっこりと微笑した。
先ほど感じた闇の気配が消え失せるほどの、感じの良い気さくな笑みだった。
つられてロワールは、思わず自分も笑みを返した。
最もそれは、愛想笑いというやつであったが。
「なあ、ロワール。どうしてさっきは笑ったんだ?」
途端ロワールは、有無を言わずばしっ! とヴィズルの左頬を平手打ちにしていた。乾いた樽のふたを殴ったような、景気のいい音があたりに響く。
「でええ――っ!!」
ヴィズルは両手で頬を押さえ、眉を寄せながら身を前にかがめた。
「私の名前を呼び捨てにしていいのは、シャインとホープさんだけよ! 航海士さん。名前を言う時は、“レイディ・ロワール”と言ってちょうだい!」
両手を腰に当てて、ロワールはその場から立ち上がり宙に浮いていた。
馴れ馴れしいヴィズルの態度に憤慨したせいか、ゆるいウエーブのかかった紅毛が、触手のようにくねっている。
「なんか……ジャーヴィスと同じような……シチュエーションだな。しかし、なんつー、気の強いガキだ」
「うう……ガキって、ホントあなたって失礼ねー! 私は船の精霊よ? もっとそれなりの態度で接して欲しいわ。ジャーヴィス副長が、あなたを嫌うのは当然ね。まったく!!」
ヴィズルがただの人間なら、絶対姿を見せてやらないタイプだ。
ロワールは自分の一番気にしている事を、はっきりとヴィズルに言われて、怒りよりも悔しさで一杯になっていた。
それはきっとウィズルもまた、シャインと同じような『例外』であることに気付いてしまったからかもしれない。
この手の人間から姿を隠すには、ちょっと骨が折れるのだ。
それこそ物陰に身を潜ませなければならないから……。
「悪かったよ……レイディ・ロワール。だが、ジャーヴィスのカタを持つっていうのは……いただけないがな」
ヴィズルが表情こそ申し訳なさそうにして頭をかいた。
「それはあなたが失礼だからよ。ガキって……気にしてるんだから……もう!!」
いたたまれなくなったロワールは、その場から逃げるように姿を消した。
◇◇◇
「あっ……おい!」
ヴィズルはロワールがいた空間へ手を伸ばしたが遅すぎた。
言い過ぎたかもしれない……。
ロワールを傷つけてしまったことへ罪悪感をいくばくか抱きながら、ヴィズルはその場に立ちつくしていた。
「シャインの奴……艦長っていう肩書きは飾りじゃなさそうだが……船の
ヴィズルは耳に響いた鐘の音に息を飲んだ。
ヴィズルがいる後部甲板の階段を降りた所には、時を30分ごとに打ち鳴らす船鐘が設置されている。
向かい合う波を象った鐘楼には、士官候補生のクラウスが立っていた。
目立った筋肉がないその細い手は、船鐘からのびた白いロープを握りしめている。
カンカン!
カンカン!
カンカン!
カンカン!
一度に二回鳴らすのを四回繰り返した。
八点鐘。
それが意味するのは、正午だということだ。
「しまった……天測が……」
ヴィズルは頭を抱えた。航海士として、とても痛いミスをしてしまった。
着任早々。
ヴィズルは肩をがっくりと落として、恨めし気に青い、青い、空を見上げた。
皮肉にもそれは、ジャーヴィスの瞳と同じような色だった。
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