【幕間2】 船霊祭 -シャインの本心-

「ううん。馬車に乗って、ここから帰るのを見た……だけ……」


 ロワールがおずおずと答えると、シャインは顔を上げて再びこちらへ向き直った。困惑しきった表情だが、ひたとロワールを見据えている。どこか思い詰めた様にも見える真剣な眼差しに、ロワールは何も言う事ができず黙ってそれを見返した。


「どうして君が――去年の『船霊祭』のことを知ってるんだ?」

「あ、あのね、シャイン……」


 そこでロワールはクレセントとハーフムーンの事を話した。彼女達は去年も海軍本部で行われていたパーティーに参加していて、例のミュリン王女の事件を目撃していたことを。


「クレセントにハーフムーン……。修理ドックにいるあの二人が? とんでもないところを見られたものだね」


「シャイン、あの二人を知ってるの?」

「ああ。同じ後方の船だから、何度か会った事があるよ。それより」


 シャインは再び目を伏せながら大きくため息をついた。


「あの二人が何を君に言ったのか知らないけど、ディアナ様は王女を馬車に乗せるために、わざと婚約者のふりをしてくれたんだ。だから、彼女とは――」


「『なんでもない』っていう風には、見えなかったわよ」

「……」

「だってあの人――泣いていたんだもの」


 ロワールがすかさず釘を刺すと、シャインは何か言いたげに唇を歪め、再び机の縁に寄りかかった。視線を床に落とし、右手を上げて頬に当たる前髪をかき上げる。そして小さく肩を上下させながら息を吐いた。


「俺は、彼女の気持ちに応える事ができない。だからそれが彼女の心を傷つけることになっても、そう言わねばならなかった」


「要するに、シャインは彼女のことが好きじゃなかったのね?」

「……ロワール……」


 シャインは顔を上げ、ロワールの眼差しを受け止めると、否定するようにそっと首を横に振った。


「そういう風に決めつける程、人の心は単純じゃないよ」


 ロワールはシャインの顔をじっと見ていた。彼の青緑色の瞳は、深い霧がたちこめる湖の様で、いまいち本心まで見通す事ができない。


「あら、そんなのおかしいわ」

「なんだって?」


 シャインの表情が一層硬くなる。言いたい事があるくせに、それを無理矢理噛み潰しているような顔だ。


「だって、シャインが本当に彼女の事が好きなら、その気持ちを無視する事なんてできないはずよ。だけどあなたは彼女の気持ちを否定した。それは、つまり彼女を愛せないってことでしょ?」


「――ロワール、俺は……」


 はっきりしないシャインの態度にやきもきしつつ、ロワールは憤然と椅子から立ち上がった。


「シャイン、あなた勘違いしていない? 『好き』という感情を」

「えっ?」


 ロワールはシャインの礼装の袖を引っ張り、今度は彼を椅子に座らせた。


「ロワール、何を」

「いいから座って! はやく」


 シャインは自分の気持ちを表現する事があまり上手くない。無意識の内に本心を隠して、誰にでも当たり障りのない、都合の良い建前ばかり言う癖があるからだ。


 シャインを椅子に座らせてから、ロワールは立ったまま彼を見下ろした。

 これでいい。


 シャインの方が背が高いから、ちゃんと目を見て話せないのだ。それに見上げるばかりだと、ロワールの首の方が疲れてしまう。

 ロワールは満足げに息をついてから、眉間に皺を寄せているシャインを見やった。


「あなたは優しい人よ。自分のせいで傷ついた彼女のことを気にしている。でもそれは、彼女の事が『好き』だからということではなくて、失恋した彼女を気の毒に思う『同情』なんじゃない?」


「……」


 シャインは椅子に座ったままロワールから視線を逸らした。組んだ両足の上で手袋をはめた彼の手が、拳を作ってはそれを開く動作を繰り返している。


「ロワール」


 しばしの沈黙の後。

 シャインが疲れたように息を吐き出し、目の前に立つロワールをゆっくりと見上げた。


「そう、なのかもしれないな。俺は誰かを愛するということが、どういうことなのか、自分でもよく分かっていないんだと思う。だけど――」


 シャインはうなずいて、先程よりも力強い眼差しをロワールへ向けた。


「俺はディアナ様のことが嫌いで、彼女の思いを拒否したんじゃない。俺はただ、俺が彼女の夫になれば、彼女はきっと寂しくて辛い思いをすることになる。それが何よりも嫌なんだ」


「……どうして?」

「どうして――って!」


 シャインが信じられないといわんばかりに両目を見開いた。椅子から今にも立ち上がらんばかりの勢いで口を開く。


「だって、俺は軍人で船乗りなんだぜ? 彼女のいるエルシーアから遠く離れ、何ヵ月も海を航海して、時には危険な任務につく事だってあるんだ。俺だって、愛する者と長い間離れて過ごすのはとても寂しいんだ」


「……だったら軍人なんて、辞めちゃえばいいじゃない?」


 ロワールは両手をドレスのたっぷりとしたひだが寄せられている腰に当て、ふうとため息をつきながら言った。肩に流れる紅髪の房を手で払い、水色の瞳を細めてシャインを見つめる。


「愛する人のために、船を降りたっていいじゃない?」


 シャインは大きく頭を振った。


「――そんなこと、できないさ。そんなことができれば」


 シャインはロワールから顔を背け、座ったまま両腕を組んだ。


あの人アドビスがそれを許してくれるのなら、俺はとっくに軍人なんて辞めてるさ」

「……」


 ロワールはしばし、気分を害したように腕を組み、じっと床を見つめるシャインの顔をながめていた。

 その横顔を見れば見るほど、心の中にもどかしさが募った。


「シャイン。あなたの気持ち、もうはっきりしているはずよ。だってあなたは、彼女を愛する事ができない理由ばかり探してるんだもの」


「……なんだって?」


 シャインがため息とも独り言とも言えない抑揚でつぶやく。


「だってそうでしょ? あなたは彼女の事が好きなのかも知れない。けれどその気持ちは、すべてを捨て去るほどまでの、大きな気持ちではないってことよ」


「……」


 シャインが薄い唇を結ぶのが見えた。細めた青緑の瞳に険悪な光が宿るのが見えた。組んだ両手の指に力がこめられ、白い礼装の袖にくっきりと影が落ちる。まるで自分の感情を抑え込むように。


「そうでしょ、シャイン?」


 ロワールはそっとシャインの座る椅子の背後に回ると、その肩を覆うように両腕を伸ばして抱きしめた。そして、頬から暖かく伝わってくる、彼の体温を感じながらささやいた。


「私の知っているシャインなら――本当に愛する者のためなら、きっとすべてのしがらみや立場を捨てて、自分の思いを通そうとするわ。でもあなたは、ディアナさんのことを気にしていても、そこまでするつもりはないの。それが本心だから自己嫌悪に陥ってる。だから自分自身に、彼女を愛せない言い訳ばかりしているのよ」


「……」


 シャインはロワールの言葉にしばし返事をしなかったが、肩に回したその腕を、振り解くということもしなかった。


「――君は、何でもお見通しっていうわけだね」


 やがて低い声でぽつりとシャインが口を開いた。

 明らかにその口調には覇気がない。


「あなたの心を読んだわけじゃないわ。あなたの立場になって考えてみただけ」


 ロワールは腕を解こうとしたが、手首をシャインの右手がそっと掴んだ。


「君の言う通りだよ、ロワール。俺は、ディアナ様とは良き友人でありたいと思っている。だって俺は……今の俺には、何よりも大切なものがあるから」


「シャイン」


「船乗りをやめれば、俺は今の生活を捨てる事になる。それだけはできない。やっと手に入れた……俺が、俺自身でいられる唯一の居場所を、今は手放したくない」


 シャインがゆっくりと首を後ろに回す。目が合った途端、ロワールは彼の金の前髪の間からのぞく青緑の瞳をのぞきこんでいた。もはやそこに霧はかかっておらず、深くて静かな、それでいて強い思いに満ちた光が宿っていた。


「今の俺は、ロワールハイネス号がすべてなんだ。だからこそ――思う時ががある……ロワール」


 頬と頬が触れあう近い距離だというのに、シャインの視線は自身が抱く思いと同じように、まっすぐロワールをとらえている。


 シャインがロワールハイネス号へ抱いている想いの深さは尋常ではない。

 それがわかっているから、余計ロワールは気恥ずかしさを覚えた。


 ――そんな迷いのない目で見つめないで。

 シャインの気持ちはとてもうれしいが、それが一層あることを強く意識させられる。

 どんなに願っても、私は――。


「君が……もしも――」


 やはり、シャインもそれを思っている。

 ロワールはシャインの視線から背けるように目を閉じた。本当は耳を塞ぎたかったが、シャインの肩に回したそれは、彼の手が乗っていて動かす事ができない。


 けれど何時まで待っても、ロワールが恐れているその言葉をシャインは口にしなかった。その代わり、ロワールの手を掴んでいる彼のそれが、一瞬だけ強く握りしめられた。


「ロワール、ごめん。俺は大切な事を忘れていたようだ」


 シャインが手を離してくれたので、ロワールはやっと彼の肩に回していた腕を解いた。シャインが椅子から立ち上がる。シャインは肩をすくめて、右手を口元へ当て頭を振った。


「君がレイディだからこそ、俺達は一緒に気兼ねなく海へ出られるんだったよ。本当に、ごめん」

「――シャイン」


 ロワールはほっと安堵に胸をなでおろし、口元に微笑をたたえながらこくりとうなずいた。


「でも、でもね、シャイン」


 ロワールは見逃さなかった。シャインの顔に一瞬浮かんだ寂しさを。


「私だって誰よりもあなたのことが大好きよ。だから、あなたが望む限りどんな海だって行くし、嵐だって……」


 ロワールは思わずうつむき、だがすぐさま顔を上げて言葉を続けた。


「あなたや乗組員の皆が私を守ってくれるから、ちっとも怖くなんかない」

「ありがとう、ロワール」


 そう言ったシャインの顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。


「さてと。俺のせいで随分つまらない話をしてしまったけど、君、あとどれくらいこうしていられるんだい?」


「えっ?」


 シャインは白い礼装の内ポケットに手をやり、そこから鎖に繋がれた、銀色の小さな懐中時計を取り出していた。


「えっとー」


 ロワールはクレセントとハーフムーンに言われたことを思い出そうとした。


「確か、一つになった二つの月が天頂まで昇っちゃうと、後はそれぞれ離れてしまうそうだから……」


「天頂ということは、深夜0時ぐらいか」


「うん。あの二人は月が出ている間は、この姿でいられるらしいけど、私は今回が初めてだから、そこまできっともたないわ。多分月が一つに重なっている0時までが限度でしょうね」


「わかった。じゃ、まだ三十分ほど、一緒にいられる時間があるってことだ」


 ぱちりと懐中時計の蓋を閉めたシャインは、おもむろにロワールの右手をとった。


「一緒に来てくれ。見せたいものがある」

「え、ええっ? あ、シャインっ!」


 ロワールは再びシャインの左腕に自分の右腕を絡め、半ば引きずられるようにして部屋から外へ出た。


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