3-10 ツヴァイスの要望
翌朝シャインが目覚めた時、ヴィズルの姿はなかった。
いや……彼がいたということを思い出したのは、机の上に真っ赤なリンゴがひとつ置いてあるのを見たからだ。
料理の盆とヴィズルが持ち込んだ酒のビンは部屋から消えていた。
◇
「あの銀髪のお兄さんがわざわざ返しに来てくれたのよ。あなたはまだ寝てるけど、自分はもう行くから持ってきたって……」
玄関の鉢植えに水をやっていた家主セシリアは、身支度を終えたものの、目をこすりつつ姿を現したシャインに微笑みながら言った。
「そうだったんですか……」
シャインは不覚にも話の途中で寝入ってしまったことを悔やんでいた。
ヴィズルにはもっといろんな事を聞いてみたかったのだ。異国の事とか。
「あ、グラヴェールさん、これ……今朝がた海軍の方から預かりましたの」
セシリアは白い封書をシャインに手渡した。
差出人の名前はないが、封印の紋章は海軍省のものだ。
おそらく次の命令書を取りに来るよう出頭を命じる呼び出しだろう。
そう思って手紙を開けたシャインは、文面に目を通すと小さく嘆息した。
「やれやれ。セシリアさん、用ができたのでこれから出かけますね」
「今夜のお食事はどうします?」
セシリアが怪訝な表情をしながらシャインに聞いた。
「あ、ああ……そうですね、当分船は修理ドックに入っているのでお願いします」
シャインは手紙を二つ折りにして航海服のポケットにねじ込むと軽くセシリアへ頭を下げた。
「じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃいませ」
老家主の上品な微笑に見送られ、シャインは海軍省へ向かうべく歩き出した。
◇◇◇
時刻はすでに朝の十時をすぎていた。
船を降りるとこうも時間にだらしなくなるのか。
シャインがセシリアから受け取った海軍からの言付けは確かに「呼び出し状」であった。指定された時間まであと三分しかない。
海軍省の通用門で立っている警備と視線で挨拶を交わし、シャインは将官達のデスクがある別館に向かっていた。
「お待ちしておりました。グラヴェール艦長ですね。こちらです」
別館のロビーへ入った時、鮮やかな青色の士官候補生の制服を着た十八才ぐらいの少年が声をかけてきた。どこかの貴族の子息だろうか。その立ち居振る舞いには優雅さがあった。
シャインは急いできたせいで弾む息を整え、士官候補生に連れられて廊下を歩いた。どうやら彼は別館の一階にある貴賓室へ向かうようだ。
思惑通り、そこで立ち止まった候補生は軽く扉を二度叩いた。
「グラヴェール艦長をお連れしました」
「……入りたまえ」
そっと候補生が扉から身を引いた。
シャインは小さく息を吐いてから顔を上げ、取っ手を握りしめた。
「失礼します」
貴賓室は王都の高官や社会的身分の高い人間と、海軍の将官が談話するための部屋である。そのため内装は実に華美なものだ。
天井を覆う多面カットを施された水晶のシャンデリアや、王室御用達の職人が造った応接家具。東方連国産の複雑な模様が織り込まれた緑のじゅうたん。それらには金銀細工が綿密に施され、絹のクッションが滑らかな光沢を放っている。
そして部屋から入って右側の肘掛け椅子に、ジェミナ・クラス軍港司令官ツヴァイスが、黒い将官服に身を包み悠然と腰掛けていた。
肩で一つにまとめられた蜂蜜色の髪や、神経質そうな色白の顔。均整のとれたやや細身の体型からして、優男といった印象は否めない。
だが度の入っていない眼鏡の奥にある、薄紫の瞳がそれらを裏切っていた。
その瞳に潜むこの男の本質を、シャインは一度垣間見ている。
「来てくれたとはうれしいね。断られるかと思っていたから」
ツヴァイスは口角を少し斜めに上げて、にこりと笑ってみせた。
「……アスラトルへはいつお着きになったんですか?」
シャインは扉の前に立ったまま尋ねた。
確かツヴァイスは先日海賊ストームをシャインが捕らえ、引き渡したその日にウインガード号でアスラトルに向かったのだ。今から一週間前のことだ。
「昨日だ。ウインガード号の船倉は徹底的に調べないと駄目だな。どこからか浸水していて足が重い」
「船倉ならいいのですが、もしも
咄嗟にシャインは口を出した。口に出してから自らの非礼に気付いた。
下位の者は上位の者へ尋ねられないかぎり口を開いてはならないという暗黙の決まりがある。けれどツヴァイスはシャインを見つめたまま頷いた。
「君の言う通りだ。もしも
ツヴァイスはつまらないことを言ったとばかりに嘆息し、右手を上げてシャインを招いた。
「すまない。話が脱線してしまった。椅子にかけたまえ。グラヴェール艦長……」
ツヴァイスの語尾が不意にとぎれた。
神経質な彼の顔が更に白みを帯びて、薄い唇がほんの僅かだが震えている。
「ツヴァイス司令。どこかお加減でも悪いのですか?」
「いや、そうではない……」
ツヴァイスは空いている斜め前の席へ座るよう手で示した。
ちょうどツヴァイスから向かって左前の椅子だ。
シャインは示されたその席についた。
「実にくだらないことなのだがね。二人だけの時は、君を名前で呼んでもいいだろうか? シャイン」
「――それは構いませんが」
戸惑いつつも同意する。ツヴァイスが椅子に背を預けたまま目を閉じ疲れたように息を吐いた。
「ありがとう。君には関係ないのだが――家名で呼ぶと
シャインは黙ったまま頷いた。
自分も父アドビスに関してはあまり良い感情を抱いていない。
過去にツヴァイスと何かあったとしても――知りたいとも思わない。
取りあえず気分屋のツヴァイスの機嫌を損ねると、またどんな無理難題を押し付けられるかわからない。
「どうぞ、閣下の好きなようにお呼び下さい」
ツヴァイスが重そうな瞼を押し上げて目を開く。
その表情にシャインは嫌な予感を覚えた。
「……本題に入ろうか。急な呼び出しですまなかったな」
「いいえ」
ツヴァイスは銀縁の眼鏡の鼻当てを押し上げると、顔の前で軽く両手を組んだ。
感傷に浸っていた薄紫の瞳が一瞬のうちに、元の皮肉屋を思わせるそれへと戻る。
「単刀直入に言う。昨日のアルバールの件だ。君が持っているあれを返してくれれば、条件を満たす航海長を紹介する。どうかね?」
これは意外な展開だ。
シャインは平静を装い、わけがわからないと言わんばかりに眉をひそめた。
「どういったことでしょうか? 俺は人事主任とアスラトルに戻ってから会っていませんが」
やんわりと言い返す。内心アルバールとツヴァイスが、どういうつながりなのか興味を覚えたが。ツヴァイスは探るような目つきで、じっとシャインを見つめていた。
「俺はあなたに会わなかった。何も聞かなかった。そういう事にしておきましょう……ということか。なにもあんな男の為に義理を通すことはない。君の高潔な精神には頭が下がるよ」
「知らないのですから……返事のしようがありません」
口ではそういいつつも抑揚は含みを持たせている。
「君の立場はわかっている。まあ聞いてくれ。アルバールは確かに下衆な輩だが、私にはアスラトルの情報を引き出す格好の人間なのだよ。ジェミナ・クラスはここより規模の大きな軍港だが、ただそれだけでしかない。私の権限だってジェミナ・クラス内に限られている。ま、推測の通り、私はあの男を利用している。だから万一この事がアドビスの耳に入って、彼が首になるのは避けたいのだ……」
ツヴァイスは軽く息をついて、困ったように眉間にしわを寄せた。
「シャイン、君だってアルバールを免職にさせようなんて考えていないんだろう? そのつもりなら君を襲ったアルバールの部下を憲兵に引き渡しているはずだ。最も……保身の為に襟章を取っておくなんて、実に抜け目ないがね」
ツヴァイスは自分の手の内をすべて見せた。
昨日の詳細をよく知っている事から、きっとアルバールが何とかして欲しいと、ツヴァイスに泣きついたのだろう。
確かにツヴァイスの言う通り、シャインはアルバールのやっていることをアドビスに逐一告げるつもりはなかった。
関わりたくない、というのが本音だったからだ。
「無理して航海長を紹介して下さる必要はありません……けれど」
シャインの言葉にツヴァイスは目を細めた。
「なんだね?」
柔らかなその声は驚く程親愛の情に満ちている。
だがそれがまやかしだというのをシャインは見抜いていた。
じっとツヴァイスを見据え、あくまでもこの件については対等の立場であるように振る舞う。
「今後一切、俺を放っておいて欲しいのです。俺はあなた方の駆け引きに全く興味はありませんし、知りたいとも思いません。それを約束して下さるならこれはお返しします」
シャインは航海服のポケットから襟章を出し、右手の人差し指と中指に挟んだ。
ツヴァイスの神経質そうな顔に満足した微笑が浮かんだ。
「約束しよう。アルバールには金輪際、君にこんな不快な話をしないようきつく言っておく。守れなかった時は遠慮なくあの男に言いたまえ。その結果、奴が免職になっても私は君を恨まない。いや……」
ツヴァイスは心の底から申し訳なさそうにシャインへ頭を下げた。
気位の高い彼からは全く想像できない行為だ。
「ツヴァイス司令?」
シャインは戸惑った。
「シャイン……君のその優しさで、私は救われた」
「……」
シャインはどう答えればいいのか考えあぐね、その結果、右手に持っていた襟章をそっと机の上に置くと椅子から立ち上がった。
「約束の事……お忘れなきよう」
「待ちたまえ」
ツヴァイスは顔を上げてシャインを呼び止めた。
「手間はとらせない。ただ……君は命を脅かされたのにこのまま手ぶらで帰すのは申し訳ない。お詫びのしるしに彼と話してみないか? ジェミナ・クラスから連れてきたのだ。腕利きの航海士をな」
ツヴァイスは応接机の上にある金色の鈴を取り上げ、チリンと鳴らした。
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