【第2話・後日談】 奇跡の赤(3)

「ツヴァイス司令官は午前10時の船でジェミナ・クラスをお発ちになりました。何でもアスラトル本部で、大切な会議があるということで」


 軍港の奥にはツヴァイスが作らせた『別荘』がある。

 そこを訪れたシャインは、ツヴァイスの不在を代行のロシュウェル准将から聞き、そして一通の手紙を受け取った。


「司令より貴君に渡すよう言付かりました」

「ありがとうございます」


 シャインは薄っぺらい手紙を受け取りロシュウェルの前を辞した。

 以前、屋敷を案内してくれたツヴァイス付きの執事に見送られ、建物を後にする。

 周囲に人気がいないことを確認し、シャインは庭先でそっと手紙を開封した。


「……」

 内容は至って簡素なものだった。


「海賊ジャヴィールがジェミナ・クラスの海から消えたため、先日の処分の話は不問に処す。海軍省への報告も不要――」


 シャインは手紙を再び封筒の中にしまった。

 胸の中には心地良い安堵感が広がっている。同時に、拭いきれない疑問も。


 ツヴァイスはシャインが海賊ストームを捕らえることに協力すれば、ロワールハイネス号に設置された『船鐘』について詳細を話すと約束したのだが、そのことについては何も触れられていないからだ。


 まあ、ツヴァイスも忙しい身なのだろう。

 アスラトルからジェミナ・クラスに戻ったばかりなのに、またアスラトルへ行ったということは、彼もいろいろと仕事を抱えているからと推測する。


 何はともあれ、ツヴァイスに命じられた任務は完了した。

 何を考えているのかわからない、あの司令官と顔を合わさなくて済んだ事に心からほっとする。


 シャインは次の目的地へ向かうため、軍港のごつごつした突堤を歩いていた。

 心地よい潮風が吹いて穏やかな、気持ち良い港の午後。


 白いカモメたちがぷかぷかと、青い波間にゆりかごのように揺られて何羽も浮かんでいる。そんなのどかな風景は、ファラグレール号の姿が見えた時一変した。


 白い優雅な三本マストのスクーナー船は、慌ただしく多くの人間でごったがえしている。突堤の周囲には沢山の樽が並べられ、それを勘定している主計長と思しき人物が、水兵の頭をこずきながら何事かを叫んでいる。


 どうやらファラグレール号は、積み込み作業の真っ最中のようだ。

 シャインは船まで近付き、通りがかった士官候補生をつかまえて、マリエステル艦長への面会を求めた。



 ◇



「どうも忙しい時に来てしまったようで。すみません」


 シャインを艦長室で出迎えたリーザ・マリエステルは『お構いなく』といわんばかりに首を振って、シャインに椅子をすすめてくれた。


「明日出港しますの。ツヴァイスの命令でシルダリア方面の警備艦へ急送連絡文書を運ばなくてはならなくなって。まったく、お偉方はいいわよね。サイン一つで仕事が終わるんですもの」


 リーザは肩まで伸ばした豊かな黒髪を手で払い除けると、印象的な紅の瞳を細め、皮肉な笑みを唇に浮かべた。


 シルダリアはエルシーアの遥か北方に位置する大帝国。

 実は一番警戒しないとならない相手なので海軍省も多くの船を派遣している海域だが、冬は北風が一月吹き続け、荒れる極寒の海として知られている。


「ツヴァイス司令に勘付かれたのかもしれませんね。今回のストーム拿捕作戦に、あなたが協力して下さったこと」


「あら。だから何だっていうの? 私達『使い走り』は、命じられるまま海を疾走するのみよ。あのお高く止まった気障司令官に、仕事ができないと馬鹿にされるくらいなら、極寒の海を一ヵ月航海する方がまだましだわ」

 


 シャインが立てたストームを海に誘き出す計画には、どうしても協力者と船が必要だった。


 シャインは同じ後方艦隊で、唯一女性艦長を務めるリーザ・マリエステルと面識がなかったが、その人柄は造船主任のホープから聞いていたので、できるだけ必要最小限の情報を提示した後で協力を要請したのだ。


 けれどすべてが終わってから、自分の計画が最後まで実行されなくてよかったと心の底から思っている。


 海軍の船が芝居とはいえ海賊行為を働く。

 海軍は国と国民の財産を守るために存在するのだから、本部にそのことが知られたら、自分はもとよりリーザも協力者として懲戒処分は避けられない。



「昨夜は大変だったみたいね」

 シャインの両手に巻かれた包帯をみて、リーザが同情するような視線を向ける。


「ちょっと驚く出来事がありましたけど、なんとかなりました」

 リーザは意味ありげに目を細めた。


「ストームが捕まって本当によかったわ。あ、ジャーヴィスからもらった、今夜の招待状の件だけど……」

「やはり無理ですよね。明日出港ですから」


 ジャ-ヴィスの落胆する様が見えるようだ。

 でもファラグレール号が明日出港するというならば、彼も納得するだろう。出港準備にかかった船の忙しさは、船内の仕事を取り仕切る副長なら誰でも知っている。


「お察しの通り、あまり長居はできそうにないわ。でも折角だから、1時間だけ、お邪魔する事にいたしますわね」


 リーザはジャーヴィスの手紙を右手に持ち、シャインに向かって微笑した。


「ありがとうございます。きっとジャーヴィス副長が喜ぶと思います」


 するとリーザは怪訝な顔をした。意思の強い紅の瞳も、シャインと視線を合わすのを避けるようにぐるぐると宙を彷徨っている。


「あ、ああ……そう、そうね。喜ぶかどうかはわからないけど。私もジャーヴィスと会うのは士官学校を卒業して以来だから、十年ぶりかしら。本当に久しぶりだったの。あの偏屈がどうしているのか、気にはなっていたけど……あの参謀司令の息子さんの副官になってるんだもの。びっくりしたわ」


 リーザはちらりとシャインを見つめ、首を振る。


「ごめんなさい。つい本音で言ってしまったわ」

「いえ、本当の事ですから構いませんよ。マリエステル艦長はジャーヴィス副長と同期でしたよね」


 シャインの問いにリーザは小さく頷いた。


「ええ。正確には私が彼のクラスへ中途入学したんだけど。とにかく浮いていたわね、彼。出身が王都の人のせいか、どことなく近寄り難い空気を身にまとっていたわ。でも、ちゃんと話をしたら意外と面白いし、それにね、びっくりするくらい料理の店や、ワインの銘柄とかに詳しいの」


「ワイン?」


 シャインは口元が引きつるのを咄嗟に右手で隠した。

 ワインは少年時代、嫌な思い出があるので未だに苦手な酒だ。


「そうだ。今夜のお祝いに何本か私も持っていくことにするわ。ジャーヴィスが探しているやつじゃないけど、美味しいワインを見つけたから一樽買っちゃったの。クラヴェール艦長、あなたもきっとお気に召すわよ」


「は、はあ……それは楽しみです」


 流石にワインが飲めないとは言えなかった。

 けれどリーザの先程の言葉には大きく好奇心が刺激された。


「ジャーヴィス副長、何かいわくのあるワインを探しているんですか?」


「ああ、なんかそんなことを言っていた記憶があるわ。私、彼に昔、無理言って高額な商品を買わせたことがあるの。何だか申し訳ないな-って思っていたから、その埋め合わせをしたくて、ちょっと彼にきいたことがあるのよ」


「それは?」

 リーザは腕を組んで眉間を寄せた。


「ええと、今から二十年前だったから……エルシーア歴908年のアメリゴベス産の赤ワインよ。私、あんまり詳しくないから、どうしてジャーヴィスがそれを探しているのか知らないけど……」


 コンコン!

 艦長室の扉を叩く音がした。


「艦長、イリューズです。主計長がお話があるそうで……」

「わかったわ。すぐ甲板に行くわ」


 シャインは席を立った。


「長居をしてしまいました。俺もアバディーン商船へ用事があるので、これで失礼いたします」


「ごめんなさいね。こんな時じゃなかったら、落ち着いて話ができるんだけど。じゃ、今夜18時にロワールハイネス号へお邪魔しますわ」


「ええ。お待ちしております」

 リーザが艦長室の扉を開けて見送ってくれた。



 ◇◇◇



 ジャーヴィスはワインを探している。

 エルシーア歴908年に作られた、アメリゴベス産の赤。


 アスラトルでは手に入らないかもしれないが、ジェミナ・クラスならどこかの酒場の蔵の中に眠っていそうだ。


 このワインが醸造されたアメリゴベスは、リルガー川を挟んだ丘陵地帯にひっそりとある小さな集落で、ジェミナ・クラスの西隣にある。馬車なら半日で行ける距離だ。




 リーザのファラグレール号を後にして、シャインは午後の強い日差しを浴びながら、今度はジェミナ・クラスの商港へと向かっていた。海軍の軍港と商港は隣同士で、港ぞいの砂利道を歩いたら、20分程度で行く事ができる。


 

 アバディーン商船はエルシーア国でも一、二を争う大きな海運会社であり、主として貴金属やワイン、香辛料などの卸しもやっている。

 赤地に黄金の太陽が刺繍された社旗が翻る赤れんがの三階立ての建物。

 ジェミナ・クラスの商港で一際目を惹くアバディーン商船の建物へ、シャインは意を決して入った。

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