1-5 『使い走り』

 アスラトルの港に近い海軍の療養院に、シャインが担ぎ込まれてひと月が過ぎた。

 目覚めた時に見上げた天井は知らない部屋で、寝台の傍らに付き添っていてくれた女性――リオーネがいなければ、シャインの頭は状況が呑み込めず、ますます混乱していただろう。


「気付いたのね、シャイン」


 ふわりとした淡い白金の髪を揺らし、リオーネは新緑色の瞳をうるませて、小さな子供をあやすかのように何度もシャインの頭を撫でた。


 無理もない。

 リオーネは二十という若さで早世したシャインの母の妹で、赤子の頃から面倒をみてくれた「育ての母」だからだ。


 彼女の話によると、シャインは一週間意識不明の状態が続いて、あと半日治療が遅れていたら命を落としていたかもしれないと告げられたそうだ。


 リオーネの看護のおかげもあり、現在シャインは自分の足で療養院の中庭を散歩できる程まで回復した。


 今日も体力をつけるためにシャインは中庭を歩いていた。

 エルシーア国の南部にあたるアスラトル地方は晴天の日が多く、年中暖かくて過ごしやすい気候だ。


 ひとしきり歩いて休憩用の木の長椅子に腰を下ろすと、誰かがこちらへ歩いてくるのが見えた。


 背の高い壮年の男性。くすんだ薄い緑色のズボンと綿のシャツ。まくった袖から見える二の腕はがっしりとしていて、職人気質がうかがえるがんこそうな瞳と髪は茶色なのに、ふさふさの眉毛は白くなっている。

 その姿を見た途端、シャインは驚きのあまり椅子から立ち上がっていた。


「ホープさん……ホープさんじゃないですか!」


 壮年の男・ホープは片手を挙げて挨拶をするとにやりと笑んだ。


「体の具合はどうじゃ? シャイン」


 シャインに声をかけてきた男は、エルシーア海軍の軍艦を造る船匠頭せんしょうかしらのホープだった。


 船が好きなシャインは幼い頃より、エルドロイン河岸にある王立海軍造船所に暇さえあれば入り浸っていた。

 グラヴェール家が代々海軍士官を生業としているので、造船所には面識のある技術者も多い。ホープもその一人だった。


 危険な場所に近づかないこと。

 作業の邪魔をしないこと。

 この条件を守ることでホープは子供だったシャインに造船所の立ち入りを特別に許してくれた。


 海軍士官学校に入学するため、十四才で家を出るまで、シャインの造船所遊び(ホープにはそう思われていた)は続いた。


「おかげさまで、大分良くなりました」

「そうか……でも、肩の方はまだ時間がかかりそうじゃな」


 ホープの視線はシャインのシャツの襟元から覗く包帯に注がれている。

 シャインはそっと右手を左肩に添えた。


「鎖骨を折ってしまって、くっつくまでもう少し時間がかかるみたいです。だからまだ重いものは持てませんが、肩の筋肉が固まらないよう、動かした方がいいそうです」


「なるほど。まあ、無理はするなよ。見舞いに来るのが遅くなってすまなかったな」

「いいえ。来てくださってうれしいです。何しろひと月もここに閉じ込められていますから、ちょっと退屈していたんです」


「そうかそうか。実はそうじゃないかと思って、いいものを持ってきたぞ」

「えっ」

「まあ座れ」

「あ、はい」


 シャインとホープは木の長椅子に並んで腰掛けた。

 実はシャインは気になっていた。ホープが右手に長細い円筒形の筒を携えていることに。それは造船技師たちが船の設計図を保管するために使う入れ物だからだ。

 食い入るように見つめるシャインの視線に気づいたのか、ホープが件の入れ物の蓋に手をかけてそれを開けた。


「シャイン、ちょっとこいつの端っこを持ってくれ」

「はい」


 ホープは筒から新聞紙を丸めたぐらいの大きさの紙を抜き出して広げた。

 シャインは紙面を見るため右手で端を持って覗き込んだ。


 しっとりとした紙質のそれは船の設計図だった。そこに描かれていたのは、一見貴族が船遊びに使用するような、全長50リール(1リール=1メートル)に満たない優雅な三本の帆柱マストを戴く縦帆船スクーナー――。


「何ですか? この船は」


 正直シャインは面喰らっていた。わざわざホープが持ってきた設計図なのだから、それは海軍の新型の大型船に違いないと思っていたからだ。


 けれど設計図に描かれていたのは軍船ではなく、商船といっていいほどの小さな船。これならきっと、動かすだけなら十人でこと足りる。


 でも――。シャインは知らず知らずのうちに、設計図に描かれた船体の鋭利な流線形を人差し指でなぞっていた。


「今度、この船をワシが造るのさ」

「えっ?」


 シャインは船体をなぞる手を止めた。しかしこの小さな船からすぐに目を逸らすことができなかった。何故だかよくわからないけれど、とても気になる。海軍士官として船に乗る以上、そしてホープから教わったこともあって、シャインは設計図を読むことができた。


「王立海軍造船所で、しかも船匠頭せんしょうかしらのあなたが、この船を造るんですか?」

「ああ。そうだとも」


ホープは平然と答えた。

けれどシャインの胸中には疑念が雲のように広がった。


これはアスラトルの街で一番の規模を誇る、王立海軍造船所でわざわざ造る船でないのは明らかだ。現に造船所では五つある船台が、すべて新造艦の建造のために使用されている。どれも大砲を大量に積載する砲列甲板を備えた大型船ばかりだ。

 シャインは肩をすくめて頭を振った。


「考えられません。どうしてわざわざ新造するんですか? これぐらいの小型船なら商船を買い上げた方が経費も安くつくはずですし、今までそうしてきたはずですよ」

「だろう? でもこれは海軍本部が正式に発注した船なんだ」

「なんですって?」

「理由がお前にわかるか? シャイン?」


 ホープはまるでシャインを試すかのようにじっと見つめていた。年を経て落ち窪んだ老船匠せんしょう頭の水色の瞳が意味ありげに瞬く。

「お前さんならわかるはずだ」――ホープはそう語りかけている。


 シャインは小型船の正体を探るべく、改めて設計図と向き合った。

 印象深いのは飛魚のように長くほっそりとした船体だ。


 だが横幅は八・五リールと狭い。三層ある甲板の一番下は船の安定性を高めるため、石の重りを載せなければならないから、あまり物資は積めないだろう。


 船体が細いので揺れの影響が大きく乗り心地も悪そうだ。よって要人を招いて食事会等に使う客船でもないだろう。もとより客室の区割りがない。


 みればみるほど、この船が造られる目的はしか考えられない。


 そしてその目的にこそ、シャインは自分が惹かれていくのを感じた。乾いた喉が水を欲するように、この小さな船こそが、自分に必要なものだと感じた。一度は諦めていたその望みが心の奥底で燻って、再び燃え上がるのではないかと思った。


 シャインの目には整然とした線で引かれた船の平面図ではなく、実際にエルシーアの碧い海を、白い翼を羽ばたかせて駆ける彼女の姿が見えていた。


 もしも、叶うのならば。

 望むことを許されるのであれば。


 シャインはゆっくりと設計図から目を上げた。

 頬にかかる華奢な金髪を無意識のうちに振り払い、エルシーアの海を思わせる青緑色の瞳で真っ向からホープを見据える。


 生来持つ品のよい顔立ちのせいで、シャインは温厚な青年のように見られがちだが、ホープへ向ける眼差しは、それらの先入観を裏切る鋭利な刃物の煌めきそのものだった。


「ふん。その様子じゃわかったようだな」


 ホープが目を細める。シャインは静かにうなずいた。


「彼女は誰よりも走ることを使命に造られる船だ。違いますか。ホープさん?」


 老船匠頭はシャインの言葉に口元をゆがめただけだった。

 けれどシャインはホープのその笑みで、彼の試験に受かったことを察した。


「そうだ。彼女は誰よりも速く走れるよう設計された。『使い走り』の中で一番速い船になるのはワシが保証する」

「使い走り……?」


 聞き慣れない言葉が出てきたのでシャインはホープに問い返した。

 するとホープの落ち窪んだ水色の瞳が「えっ?」といわんばかりに見開く。


「なんじゃお前。海軍に六年もいて『使い走り』の船を知らんのか?」

「えっ、あ、その……!」


 シャインはうわずった声をあげて頭をかいた。


「六年といっても二年間は士官学校ですごしましたし、その後すぐにエルシーア領海の南端へ飛ばされましたから、まだ海軍の組織がよくわかっていないんです……」

「はっ! そんなもの学校なんぞで教えるわけなかろうが」

「えっ?」


 シャインはますます面喰らった。ただぽかんと口を空けたまま、両手で腹を抱えて笑うホープを見つめるしかない。


「『使い走り』を知らんとはな……はははっ……」


 目の端に涙を浮かべてホープはまだ笑っている。流石にシャインはむっとなった。自分がどんなにがんばっても、三十年船を作り続けたホープに知識でかなうわけがない。それが不意にとても悔しく思えて、シャインは膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。


「笑ってばかりいないで教えて下さい。ホープさん!」

「はっ……ははは……そう……そうじゃのう……」


シャインのいじましさを感じたのか、ホープがやっと笑うのを止めて、ふうと乱れた呼吸を整える。そしてこの何も知らない若者へ説教を垂れようとするかのように、ごほんと一つ大仰な咳払いをした。


「『使い走り』っていうのは、後方支援艦隊に所属する船のことをいうんじゃよ。お前が本国を離れていた時にも、新しい命令書や手紙に物資。それらを積んだ等級外の小さなスクーナーが来ただろう」


 シャインは大きくうなずいた。


「はい。そういえば、ホープさんに差し入れを頂いてました。お礼を言うのが遅くなってすみません。シルヴァンティーの新茶、美味しく頂きました」

「おお。ちゃんと届いたか」

「ええ」


「まあ『使い走り』とは、大砲を積んだ大型船に乗る連中が、彼等の仕事を皮肉っていう愛称みたいなもんだ。言葉は悪いが、彼等は命令を受けたら、どんなに遠い海でも最短航海日数で積荷を届ける。それは風を読み正確に船を操ることができる、一級の船乗りでないとできない仕事だ」


シャインはホープの言葉に深くうなずいた。そして改めて設計図に視線を向けた。この船は、彼女は、海を駆けることを何よりの使命として生み出される――。


「どうだ。気に入ったか?」


シャインは一瞬息を詰めた。ホープに胸の内を覗かれたような気がした。設計図から引きはがすように顔を上げると、ホープが口元をゆがめて再び笑っていた。


「ええ。とても」


 シャインは心の底から真意の言葉を吐いた。この気持ちはなんだろう。

 目を閉じれば何故か完成した彼女の姿が浮かび上がってくる。本当に自分はこの船が気に入ってしまったのだろうか。


「そうか。なら、お前に頼みがあるんだがな……」


 ホープの笑みが顔全体へと広がっていく。


「シャイン。よかったらワシと一緒に彼女の建造を手伝わないか?」

「えっ?」


「肩の完治まであとひと月ぐらいかかるんじゃろ? こんな湿っぽい所じゃなくて、ワシの家に来ればいい。造船所の方が気が紛れるじゃろう? それに外洋勤務に出ていた者は、希望すれば半年の休暇が申請できる。この新造艦の工期は半年じゃ」

「ホープさん……」


 確かにホープの言う通りだ。アイル号に乗る前、シャインは一年南方のリュニス方面を哨戒する警備艦に乗っていた。


 だから半年休暇を取ってから任務に戻れば良かった。けれど何の目的もないまま、陸に半年も留まるなんて耐えられなかったのだ。

 よって人員が空いていたアイル号への乗艦を希望したのだがこのありさまだ。


 シャインは差し出されたホープの右手を握りしめた。そしてそれを上下にぶんぶんと揺さぶっていた。


「それを今言おうとした所だったんです。ありがとうございます。ホープさん!」

「おいおいシャイン。わかったから、手ェ、離してくれんか」


 こうしてシャインは、王立海軍造船所の片隅に急遽設けられた船台で、自分が乗るべき船の建造に携わることになる。


 そう。

 完成したらこの船に必ず乗りたいと思ったのだ。


 シャインは今所属している外洋艦隊へ戻る気などさらさらなかった。

 その任務は領海内の不審船を取り締ることなので、限られた海域に留まることを常に強要されるのだ。


 よってシャインは特権を行使することにした。

 一年以上の長期航海に出た士官には、半年の休暇の他に、希望する船への転属願いを申請する事ができるのだ。

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