第2曲目 第15小節目:ビスケット

 風呂から上がり、宿用の浴衣ゆかたに着替えて廊下に出ると、自販機の前のビニールのベンチソファに英里奈さんが座っていた。


「あ、たーくとくーん」


 マスオさんみたいなイントネーションでおれを呼んでくる。


「おう。……はざまを待ってんの?」


「うん、そんな感じぃー……もう出てきそぉ?」


 同じく、宿の浴衣を着ている英里奈さんの上目遣い。首には濡れたタオル。なんか、妙に色っぽいな……。


「えーっと、いや、おれが出るときにはサウナでチェリーボーイズ4人で我慢がまん対決みたいなのやってたからまだじゃないかな」


「あはは、みんなっぽいなぁー。たくとくんは参加しなくていいのぉー?」 


「いやおれ、チェリーボーイズじゃないし」


「えぇっ!? たくとくんはチェリーボーイじゃないのかい!?」


 いや、リアクション大きすぎだから。ていうか、おれのマスオさんみたいって心の中のツッコミ、聞こえてたのかい?


「えぇ、ほんとにー……? 誰とー……?」


 おれが黙っているのを質問への肯定こうていととらえたのか、英里奈さんが本気で驚きながら首をかしげている。


 ……よし、このままにしておけば一目置かれそうな気がするからちょっと黙っておこう。


「えぇ、もしかして、さこっしゅと……?」


「やめて! ごめん! 童貞チェリーボーイだから許して!」


 リアルな名前はまずいって!


「ちょっとー、声大きいよぉー?」


 ニヤニヤしながら英里奈さんが返してくる。


「英里奈さんのせいじゃないですか……」


「お風呂で女の子の会話を聞いてたばつだよぉー」


「え、あれ、おれのせい?」


 とんだぎぬだわ。お風呂上がりだけに。


「んじゃまぁー、これおごって!」


 そう言って、英里奈さんは自販機を指差した。


「おれが? なんで?」


「なーんでもっ!」


 まあ、ちょっと、英里奈さんを励ましたい気持ちもあるし、いいか。


「で、何飲みたいの?」


「ミルク!」


 いや、牛乳って言えし。相変わらず、発音いいな。


 100円を入れて、ボタンを押す。


 ガコン、と音を立ててビンに入った牛乳が落ちて来た。


「温泉と牛乳ってすーっごく相性よくない?」


「そうなあ」


 一瞬、何を今さら、と思ったけれども、外国暮らしが長いと、そんなに当たり前のことってわけでもないのか。


 続いて、おれも何か飲もうと、100円玉を入れる。


 すると、横からスッと指が伸びてきて、


「あっ……」


 ガコン、と音がする。


「たくとくんはどうせこれでしょー?」


 取り出し口に落ちて来たのは、コーヒー牛乳。


「えりなは、わかってるんだから!」


「……!」


 おれの前に指を差し出した英里奈さんが想像以上に近くて、湯上がりの匂いがしたので、なにも言えなくなってしまった。


 いや、実際コーヒー牛乳買おうとしてたしね。


 2人でそれぞれにビンを持って、再度ベンチに座る。


「かんぱぁーい」


「お、おう。乾杯」


 ビンを軽く当てる。小気味よい音がした。



 本題、というのも変だけど、おれが英里奈さんに牛乳をおごった理由を、それとなく伝えてみる。


「お風呂でのはざまのあの宣言、なんていうか……大変だな」


大変たいへんー? 変態へんたいじゃなくてー?」


 英里奈さんがしょうもないことを言いながら首をかしげる。首にかけたタオルを口元にあてる仕草が悪魔あざとい。


 風呂の中でのはざまの発言は、明らかに沙子のことを思ってのことだった。


 それを間近まぢかで聞いていた英里奈さんの心中しんちゅうは大丈夫なのだろうか、と少し心配になっていたのである。


「……まぁ、そりゃ、ちょーっとくらいはチクっとしたけどねぇ」


 英里奈さんは優しく微笑みながら、少しうつむいた。


「だよなあ……」


 おれが同意すると、


「健次が貧乳派だったなんて……」


 英里奈さんが自分のむむむ胸元を押さえながら言う。おれはソッコーで目をそらした。え、この人痴女ちじょかなんかなの?


「たくとくんは、知ってた?」


「えっと、いや、それは……」


 そんなの知るわけないだろ、というか。『沙子に合わせてるだけで、本当はどうか分かんないだろ』みたいなことを言おうとして、すぐにやめた。


 そんな言葉、あまりにも無意味だし、無慈悲むじひだ。


 逡巡しゅんじゅんして二の句が継げないおれのことなんか構わずに、


「でも、そんなの関係ないんだよぉ」


 と、英里奈さんはそう言った。


「関係ない……?」


「うん」


 英里奈さんはちょっと笑ってから、続きを話してくれる。


「えりなは、健次の好みの顔じゃないだろうし、健次の好みの身体からだじゃないみたいだけど、それは、そういう風に生まれてないし、そういう風に育ってないから仕方ないよねぇ」


「うん……?」


「でもさぁー、そんなの、関係ないんだよぉ。だって、」


 そこまで言ってから、英里奈さんはとびっきり笑って、こう続けた。


「えりなは、健次のことが好きなんだもん!」


 おれはその笑顔を見て息を呑む。


「その気持ち自体には、えりなの見た目とか性格とか、関係ないでしょー?」


 その無邪気さと素直さに、圧倒された。


 英里奈さんは何も考えていないような顔をして、いつだって、一番大事なところを見ているのかもしれない。


「それにねぇ、結果がすべてだと思うんだよぉ」


「結果?」


 聞き方によっては冷酷れいこくにも聞こえるその言葉に、おれは首をかしげる。


「見た目とか性格とかで、有利とか不利とかはあるとは思うんだけどねぇ、だけど、それを理由に諦めたり出来ないから、好きってことなんだと思うんだよぉ」


「なるほど……?」


「簡単に掴めないなら、その分頑張るしかないし、それでいいやぁってなるくらいなら、それくらいの気持ちなんだと思うんだぁー」


「そっか……」


 英里奈さんは、すごい。


 うなずいたり、同意するばかりのおれは、ダサいなあ、と自分で自分に苦笑した。


 英里奈さんは、牛乳をぐっと一口飲む。


「えりなはね、」


「ん……?」


 言い聞かせるみたいに、決意をするみたいに、英里奈さんはしっかりと口にする。

 

「えりなは、何をどうしても、健次の特別になるんだ」


「……そっか」


 英里奈さんは、強いなあ……。


 感心しきりのおれの顔を覗き込んで、英里奈さんは笑う。


「そう思えるきっかけをくれたのは、どっかのコーヒー好きの誰かさんだけどねぇー?」

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