第15話
「こいつ! 見覚えがあるぞ! いやないんだが!」
「どっちよ?」
ネルズファーは混乱していた。
混乱していながらも防衛体制を取ろうとは思ったのだろう。子犬の姿から、黒く巨大な狼のような姿へと変化している。
「見た目と気配がちぐはぐなんだ! だがなんにしろやべぇ!」
「……ほう? ネルズファーか。我が麾下に加わるべく馳せ参じたということなら殊勝なものだが」
それはニルマやザマーなど眼中にないのか、ネルズファーにだけ注目していた。
人間ごときなどどうでもいいと言わんばかりだ。
「魔神とかそういう系? でもさ。人間ごときに封じられるとか下っ端の方なんじゃないの?」
少なくとも、ニルマには覚えがない相手だった。
ニルマの言葉を侮蔑だと感じたのか、ようやくそれはニルマへと目を向けた。
「ネルズファー。この人間はなんだ? 我へ捧げる贄でも用意したのか」
「ちょっと……ちょっと待て! お前なんなんだ! キルメキシアじゃないんだよな? いきなり出てきてわけわかんねぇんだよ!」
「なるほどな。この身体はキルメキシアなのか。不本意ではあるが、キルメキシアの力が上乗せされているのも事実。それは素直に受け入れておこうか」
ギシリ、と何かが音を立てた。この建物が軋みをあげたのだ。
垂直だったはずの壁にうねりがみられた。
時間とともにそれは力を増しているのだ。
先ほどの会話からすれば、それは何かを混ぜ合わせたような存在なのだろう。それらはより力を発揮するために調和しつつあるのだ。
壁が、床が、確かな存在感をなくしていく。周囲は少しずつ瘴気に染まりつつあった。
五千年の時を経ても損なわれることのなかった建物が、それの放つ瘴気によりどろどろに腐っていこうとしているのだ。
「これって……ネルズファーがやったみたいなやつですか?」
ザマーが言うのは、ネルズファーと出会った際に周囲が激変した現象のことだろう。
「ちげぇよ。ただこいつの存在にまわりが耐えられねぇってだけのことだ……こいつ……暴走してやがるのか?」
ネルズファーが引き起こした現象は、自らが有利な世界を作り出し周囲を巻き込むという術だ。術が解ければ元に戻るのだが、今起こっている現象とはまるで違うものだろう。
それの影響によって腐り、形を無くした物質が元に戻ることは二度とない。
「何ぼーっと見てんだよ! さっさとやらねぇからこんなことになっちまったんだろうが!」
「いや……何体か混じってるみたいだからもしかして、知り合いでもいるかと思って見てたんだけど」
ニルマは混ざり合った気配を確認していた。五千年前に関わった友好的な者だとすればまずいかと思ったのだ。
慎重に気配を選り分け、精査していく。
結果、覚えのない気配ばかりで、倒して問題になることはないとニルマは確信した。
「何者かはわかんないけど、マズルカはあんたを許容できない」
ニルマは踏み込んだ。
大きく円を描くように振りかぶり、一瞬で間合いを詰め、振りかぶった右手刀を袈裟懸けに振り下ろしたのだ。
隙の大きい、無駄な動きだと思う者もいるだろう。
だが、この動きを捉えられたものはこの場にはいなかった。
手刀は、男の左肩から入り右脇へと抜けた。
男の上半身がずれていく。その顔は、呆けたようになっていた。
自らの意思に反して身体が分かたれていく現実を、理解できてはいないのだろう。
ニルマの手刀はその存在の核というべき部分を切り裂いていた。多重に存在する全ての核を一撃で破壊しつくしていたのだ。
男の上半身が床に落ちる。
ニルマは、男の頭部を勢いよく踏みつけた。頭部はぐしゃりと潰れ、暴力的なまでの瘴気が途絶えた。
「は?」
しばらくして、ネルズファーが間抜けな声をあげた。
「手刀ですよね? なんで斬れるんですかね!?」
「刃のない木刀でも、凄い速度でぶつけたら斬れるよ?」
それが死んでいると確信できたニルマはザマーのもとへと戻った。
「色々あってよくわかんなくなったけど、あれだ。とにかくここのコアを潰さないとね」
「いえ。もうそんな場合じゃなくなったようですよ?」
建物が悲鳴のような音を上げていた。
瘴気の発生は止まったが、すでに充満している瘴気がすぐに消え去ることはない。それは、この建物を蝕み続けているのだ。
建物の下部が朽ちていき崩壊すれば、その影響は上部へも波及する。この建物が頑丈なのはその構造のためでもあるだろう。そのバランスが崩れれば、建物全体が崩壊する可能性は高かった。
「これって……壊れる?」
「逃げた方がいいかと」
「だよね!」
ニルマたちは慌てて来た道を駆け戻りはじめた。
*****
港町にある公民館の二階。
大きめの机と椅子があるだけの小さな部屋にセシリアはいた。
ここで礼拝を行う予定だったのだ。
「長いこと世話になっといてわりいけどよ。俺らはやめさせてもらうわ。熱心だった母ちゃんが死んじまったらもう続ける意味がねぇからよ」
「うちも最後の一件になるのもなんだしさ。イグルド教に移ることにしたよ」
だが、結局礼拝が行われることはなかった。
この街に二世帯しかいなかったマズルカ教徒たちが、改宗すると言い出したからだ。
「あ……その……はい……承知いたしました……」
無理に引き留めることもできなかった。
現状のマズルカ教にはなんの力もなく、続けたところで彼らにメリットがまるでないことをセシリアも重々承知していたからだ。
「無駄足でしたね……」
誰もいなくなった一室でセシリアは机に突っ伏していた。
すぐにここを立ち去る気力がなくなっていたのだ。
幸い、利用時間は十分に残っているので、ここでのんびりとしていたところで問題はない。
「ニルマさんが言うように、本当に増やせるのでしょうか……」
ニルマは自信たっぷりだったが、セシリアは懐疑的だった。これまでの状況から考えて、そう簡単に事態が改善できるとは思えなかったのだ。
落ち込んだままぐるぐると同じようなことばかり考えていると、こちらへとやってくる足音が聞こえてきた。
もしや、考え直してくれたのかと思い、淡い期待と共にセシリアは顔を起こした。
「どうぞ!」
扉がノックされたので、セシリアははりきって答えた。
「こんにちは。ここでマズルカ教の礼拝をやってるって聞いたんだけど」
入ってきたのは、黒いコートを着た性別のよくわからない人物だった。
申し訳ないと思いつつも、セシリアは落胆を隠せなかった。
考え直して戻ってきてくれたわけではないのだ。だが、マズルカ教になんらか興味があってやって来たのならないがしろにはできないだろう。
セシリアは、ほほえみを浮かべながらその人物を見つめた。
初対面のはずだが、どこかで見たような気がする。少し考えて、雑誌などで見かけた有名人だと思い至った。
「あの……特級冒険者の方ですよね?」
「うん。特級のヴェルナーだよ。マズルカ教の聖女について聞きたくてきたんだけど今大丈夫かな?」
ヴェルナーは朗らかな声でそう言った。
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