第90話 小倉愛花という女の子として・・・
大学の授業を受け終わった俺は、昨日大宮さんに言われた通り、学習塾へと直行した。
「お疲れ様です」
中に入ると、大宮さんと桜井先生が深刻そうな表情を浮かべながら待っていた。
「あぁ……南くん、ようやく来たね。それじゃあ、ちょっとこっちに来て」
大宮さんに手招きされ、俺と桜井先生は、そのまま事務所の方へと案内される。
事務所のパイプ椅子に、俺と桜井先生が隣に座り、向かい側に大宮さんが座ると、困ったようにため息をついた。
「ごめんね、二人とも早く来てもらっちゃって」
「いえいえ」
「それで、愛花ちゃんに何かあったんですか?」
「あぁ……それなんだが……」
大宮さんは、困った様子で手を組んでいたが、意を決したように肘を机に置き、顎を手の甲の上に置いて重い口を開いた。
「愛花ちゃんが……文転したいと言ってきた」
「えっ……!?」
「それって……」
桜井先生も俺も言葉を失った。
「急に言ってきたから私もビックリしてね……文転したい理由を聞いても答えてくれないんだよ。志望校を聞いても曖昧だし、どこか投げやりになって一時の感情だけでそう言っちゃってるんじゃないかって、そう思ってるんだけどね。二人とも何か知らないかな?」
「いえ……全く」
「俺も分かりません……」
文転とは、理系教科を学び受験に臨もうとしている者が、文系科目に鞍替えして、受験に臨むことを一般的には言うのだが、まさか高校3年のGW明けの時期に、どうしてまた……?
俺は英語しか教えていないので、他の教科については、あまり分からないところはあるが、相談して来たり、悩んでいるといった素振りは全くなかったように思える。
「そうか……やはり彼女にとって、何か誰にも言えない理由があるのかねぇ……」
俺は大宮さんが言った、誰にも言えない理由というのが心に引っかかった。
「……」
俺は顎に手を当てて、ここ最近の愛花について思いだしていた。確かに、元々愛花は、感情をあまり表に出すようなタイプではないが、俺と一緒に授業をしている時や、家に来た時は、ありのままの彼女であったように思えた。
だが、先週の授業だけは違った。普段何を考えているのかわからないような彼女が、明らかに感情を表に出して怒っていた。
もしかしたら、その時に彼女は、何かに気が付いて欲しかったのではないだろうか? 俺はそう感じ取った。
「大宮さん」
気が付いた時には、口が勝手に動いていた。
「愛花と二人でじっくりと、話をさせてもらってもいいですか?」
気が付いた時には、俺は席を立ちあがり、大宮さんと桜井先生に向かってそう言い放っていた。
◇
今、俺は授業時間を使い、事務所で愛花と二人向かい合った状態で座っていた。
「何? 急に呼び出して」
愛花は相変わらず不機嫌な様子で、俺を睨みつけていた。俺は、そんな愛花の様子を気にすることなく、本題へと入った。
「大宮さんから聞いた。文転したいって……どうした?」
「なんだ、もう聞いたんだ。そのままのことだけど?」
「そのままって……高校3年のこの時期になって急になんで……?」
「文転したほうが私にとって利益が多いから」
「利益? 例えばどんな?」
「それは…」
愛花は困ったように目を泳がせた後、俯いて黙りこくってしまった。
「はぁ……」
答えが咄嗟に出てこない愛花に対して、俺は思わずため息が漏れてしまう。
「別に文転するのは本人の自由だし、愛花がしたいっていうなら、俺はいいと思うよ? でも愛花は、ちゃんと考えて決断したことなんだよな?」
「それは……もちろん」
「それなのに、理由も言えないのか?」
「……」
「じゃあ、俺に言えないようなことなのか?」
机の上で手を合わせて肘をつきながら、愛花の方を真剣な眼差しで、じぃっと見つめる。
愛花はしばらく黙って俯いたままであったが、次第に体がプルプルと震えだした。
「……じゃん」
「え?」
「大地がいけないんじゃん!」
すると、普段表に感情を出さない愛花が、突然俺の方を向いて、机を叩きながら立ち上がり、涙を必死に堪え、叫んで訴えかけてきた。
「俺が……ってどいういうことだよ?」
「全部お兄ちゃんが悪い! 私が毎週どれだけお兄ちゃんの授業を楽しみにしてるか分かる?! それなのに連絡もしないで勝手に私の授業休んでさ。私が生半可な気持ちで好きって言ったと思ってるの?! それなのに……なのに大地は……」
再び威力をなくして、愛花が俯いてしまう。突然の罵倒ともいえる愛花の怒りに驚かされ、俺は上手く反応が出来ない。
「その、この間の授業の件は俺が悪いけど……」
「……もらえるから」
「え?」
すると、また俯きながら愛花が小声で何かを呟いたので、聞き返す。
「文転したら大地に全教科教えてもらえるから……もっとお兄ちゃんに見てもらえる。それでお兄ちゃんと同じ大学を受験するの、それでお兄ちゃんの後輩になって、一緒にお兄ちゃんとの大学生活を楽しみたいから……」
「もしかして、それが文転の理由か?」
俺が尋ねると愛花はコクリと頷いた。
「……」
俺は唖然として、声を出すことも出来なかった。
「それに、お兄ちゃんは私のことを教え子というか、妹のような存在でしか見てない、だからもっと私のことを女としてちゃんと見てほしい」
そう言い切ると、涙を拭った愛花は、決意こもった真っ直ぐとした視線を俺に向けてきた。
その真剣な表情は、今まで見た愛花の表情の中で、一番大人びており、きれいで美しい姿だったかもしれない。
俺のことをそこまで好きで好きで、構ってほしくて、いろんな手を使ってでも、なんとか足掻いて、それでもなお、俺が鈍感だから、彼女は悩みに悩んでこういった結論を出したのであろう。
そういう今までの彼女の苦悩が、その表情からは見えて取れた。そうか……俺はもしかしたら、妹の大空と、どこか重ね合わせていた部分があったのかもしれない……それを彼女が感じ取り、余計に彼女を苦しめてしまった。
間違いなく非は、自分の方にあった。
俺は、もう一度愛花をしっかり見た。涙を必死に堪えながらも、釣目の真剣な眼差しで、真っ直ぐ俺のことを見つめている彼女は、とても可愛くて、食い入るように見入ってしまうほどの、俺には勿体ない美少女であった。そして、俺は今の彼女の表情を見て、妹と重ね合わせている部分が消え、一人の女の子として小倉愛花という存在を初めて見れたのかもしれない。そう感じた。
だからこそ、俺も一人のお兄ちゃんとしてではなく、南大地として、小倉愛花にしっかりと伝えなければならなかった。
俺は、息をひとつ吐いてから、真っ直ぐと愛花を見つめた。
「それが文転の理由なら、俺は愛花が文転するのは認めない。一時の感情で流されて、人生を無駄にするのは違う」
俺は、はっきりと愛花にそう言い切った。これは、俺の今心から思っている本心であった。
「そっか……」
「あぁ」
一言ではあったが、愛花は哀愁漂う返事を返してきた。
「それとな……」
愛花は涙を堪えながら、必死に俺の方を向いていた。
俺は愛花が泣いてしまう前に、恥ずかしい気持ちを必死に我慢しながら、愛花を見つめる。
「俺はお前のこと、確かに妹と重ねてた部分があったかもしれない、それについては全面的に謝る。だけど、ずっと妹のように思ってただけじゃなくて、その……愛花の女の子らしいところもたくさんあるというかなんというか……と、とにかくだ!俺はいつもお前に会うとドキドキさせられっぱなしだよ……」
最後は恥ずかしさが頂点に達して、頭を掻きながら、そっぽを向いてしまった。
しばらくしても、愛花からのアクションがなかったので、チラっと目を向けると、愛花はポカンと口を開けてあっけにとられたような表情を浮かべていた。
俺はその様子を見て、愛花の方にしっかりと顔を向ける。愛花は驚いたようにポっと顔を真っ赤に染めて、少し俯いた。しかし、すぐに俺の方へ向き直ると、ニコっと口角を上げ破顔した。
「そっか、そうだったんだ」
愛花はどこか嬉しそうな口調でニヤニヤとしていた。
すると、愛花は大きなため息をついたかと思うと、スっと椅子から離れて、事務所の出口の方へと歩いていく。
「お、おい……」
俺が呼び止めると、愛花は、ドアノブを掴んだところで立ち止り、顔だけを俺の方に向けた。
「大宮さんのところ行ってくる。『文転するのやめて、今のままで頑張りますって』」
その表情はどこか晴れやかで、すっきりとした表情をしていた。俺もその表情を見て安心し、ニタっと口角を上げて微笑みを返した。
「そっか、じゃあ、いつもの机で授業待ってるな」
「うん」
そう返事を返すと、愛花は事務所を出ていき、大宮さんの元へと向かって行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。