第7話 創作論などに対するテキトーな批判、それから、悲劇について個人的な見立て





 悲劇については、アリストテレスの『詩学』やその他諸々の専門家の意見等があるが、こんなことをくだくだと今更のように述べたところで、つまらないから、その手の解説はしない。あくまでも、自身の考えを述べるうえで引用するだけである。というのも、こんなのは、実物を読めばいいだけの話だからである。悲劇に関する考えはネットで調べたところで、意見ならぬただの引用を述べて、ちゃんちゃん、だからー、はい、めでたしめでたしといって暴力的になぞって終わるのが多くて、なんの面白みもなんの目新しさもないことがあった。得られるものと言えば「ほほう、それで? あんたらの考えは?」という感想だけである。


 こういった類のものについて、率直すぎると、アレだが、どんな低能でもバカでも人の意見と同調して同じ線をなぞるくらいのことはできる。本を読んだくらいで頭がよくなるのであれば、今頃地上は天才だらけになっているはずである。もっと言うならば、筆者自身も含め本を読む人ほど頭がよくなったような錯覚を起こして、ドグマティズムにはまりすぎるところがある。本は単に紋切り型の思考の材料をくれるのであって、材料を集めただけでは何にもならない。単なる思考停止を生むだけなら、あるいは、孫氏の兵法に頼ってばかりで戦が上手く行くという考えなら、本なぞは最初から読まない方がいいだろう。「尽く書を信ずれば、則ち書無きに如かず」である。

 例えば、プロジェクトマネージャの参考書をいろいろと読んでみて考える材料を増やすのは大いに結構だが、結局はどのプロジェクトも特殊だから、紋切り型の思考で、杓子定規にやってもうまくいくはずがない。

【うまくいくようなチームのあり方や方法を自分から探り出していく努力が要る】

【自分なりに材料をかき集めて思想を練り上げていく努力が要る】

組織ではなく個人の領域とはいえ、小説の創作とて、この姿勢が大事になるはずだ。


 筆者が方法論や形式にこだわるようでいて、そういったものに頼ったところで、結局何にもならないというスタンスであることを改めて申し述べておきたい。ただ、こういうことが何故言えるのかというと、創作者の端くれとして、文学作品はいくらか読み込んで古典と先人の業に触れておきながら、いろんな意味でアナーキーな考えになったからである。古代のエログロナンセンスも、シェークスピアのエロネタ満載のお上品な言葉遊びも、F●CKとかいう口汚い言葉を使うジェームズ・ジョイスの小説も、現代の悲惨なほどつまらない小説も、アニメ化されている質の高いラノベも、文学になりえる。


 帯についている前口上とか、作者の来歴とか、あらすじとかどうでもいいから、とりあえず、実物みせろやという態度でいいのだ。こういったらあらゆる投稿サイトのレビューシステム自体を否定するようなことになるが、書籍のレビューや帯の文言は死ぬほど役に立たないという結論に落ち着いている。手に取らせるため、あるいは、購買意欲をそそるだけのまやかししか書かれていない。例えば、『罪と罰』について、「現代の預言書」などという言い方がされるが(Wikiではお約束の「要出典」のタグ付き♡)、こんなのは日本国内くらいで、海外ではどこも見られない。筆者に言わせれば、現代の預言書などではなく、時代を超越した人間性を提示した作品であって、面白おかしくそう言い慣わされているのが腹立たしいくらいである。これだったら、ソシャゲのガチャの訴求表示の方がまだ良心的だ。


 といったところで、ひどく長い愚痴のような前置きと御託を並べたが、本題の悲劇について、考えるところを述べたいと思う。目的としては、相対論者の権威主義的な悉無律思考の始末と、「リアリズム・自然主義」と「悲劇」の切り分けである。



0.悲劇はフィクションの古典的形式であって小説の形式ではない


 形式としては、古典として時代超越性を持ってはいるが、現代ではもはや物語の一側面を意味するようなあり方になりつつある。何より悲劇は古代で生まれた概念である。散文による形式として生まれた小説は、悲劇よりもはるかに新しい形式であり、そのままそっくりあてはめて考えるのは、近現代では杓子定規もいいところだ。イプセン以降の戯曲も然りであろう。


※そもそも、novelという語自体、原義となるラテン語で「新しい」を意味する。


 故に、今となっては、小説全体が悲劇というよりか、小説の悲劇的側面というような見方になるであろう。Wikipediaに書かれてあるような、誰かにとっては喜劇、誰かにとっては悲劇(2+2=5にもなる)という相対論者の二重思考じみた論法は、大嫌いなので、これを回避したい。筆者は悲劇という形式の要素Aに対応するものが、あるフィクションFの形式に要素aとしてあるならば、即ちFは悲劇である、朱に交われば全て赤くなるみたいな悉無律思考は捨て去らねばならないと考えている。ただ、「あるフィクションの形式の要素に、悲劇の形式に対応する要素があるだけ」と認識するのである。


1.「単純に終わり方が破滅的であれば、悲劇」なわけがない


 この考えでいけば、『吾輩は猫である』も悲劇である。モテカワスリムで恋愛体質の愛されガールのアイのスイーツ(笑)も、悲劇である。喜劇も全て悲劇になりかねない。悲劇の内包が「終わり方が破滅的である」だけなら外延として以上の悉くが適用されるのはご尤もである。

 しかし、悲劇と呼ばれるものは、人生の暗黒面、人物が生きるうえでの困難、悲哀、苦悩、喪失といった情念が崇高な美に昇華されて表現されていることを忘れていないだろうか。『吾輩は猫である』はユーモア小説であって、人生の暗夜を描くようなことはされていない。スイーツ(笑)については、もはや無駄に洗練された無駄のない無駄な揶揄である。これらを終わり方次第で、悲劇に類することができるというのは、荒唐無稽な試みである。ドストエフスキーは『ドン・キホーテ』を悲劇として解釈したが、騎士道物語の読みまくりで錯覚を起こした主人公に関する遍歴の物語を悲劇としてぺーんと解釈するのは、一面的すぎるのではなかろうか。(裏を返せば、単なる喜劇やバカ話と見るだけなのも然りだろうが)



2.登場人物、主人公は能動的であること


 人物が消極的で受け身でただ険しい状況に陥るだけの物語は、悲劇ではない。これはむしろ現代的なリアリズムや自然主義に寄っていくものである。第2話では「自然主義における登場人物とは、社会環境に支配され、外因的に立ち振る舞う非力な存在である」と言ったが、そのまんまである。悲劇はもともと厭世を主題としていない。悲哀と苦悩を肯定し、生きる雄々しさとその崇高美に主題を置いたものである。悲劇においては、「厭世」はひたすら忌々しいものでしかなく、最も醜悪なものである。この点が、(醜悪さ、厭世をも肯定する)リアリズム劇と悲劇とのはっきりした境界線になっている。人物、特に主人公は生き生きと能動的に状況を変えていくストーリーチェンジャーでなければならない。



3.何も知らなかったこと、予測できなかったことによる誤った判断、誤った認識、誤った行動。そして、認識されたときにはもう取り返しがつかない状況。


 あんな前置きを言っておいてアレだが、アリストテレスの『詩学』からほぼそのまんまになった。何も知らなかったことで、あるいは予測ができなかったことで過ちを犯し、明るみに出て認識されたときには、もう取り返しがつかない状況が生まれている。かくして、無知から知への転換が生む急転直下の不幸、それが悲劇である。この直線的な形式自体、ギリシア悲劇の枠を超えて今もなお使い古されている。

 例えば、身近なものではお馴染みの童話『ごんぎつね』がある。猟銃でズドンとくれてやったら、お前だったのか、である。




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