第6話 書き出し、導入について





1 単純さは究極の洗練


 日本語で書く小説には一つ、導入の完成形がある。森鷗外の始め方である。森鷗外は話の始まりの簡潔な一文で読者に理解を与えるから、三島にせよ、芥川にせよ、後続の作家のお手本になっている。『雁』における「古い話である」といった素っ気ないほどの一文でさえ、出だしには大きな効果を持っているし、『魚玄機』の出だし「魚玄機が人を殺して獄に下った。風説は忽ち長安人士の間に流伝せられて、一人として事の意表に出でたのに驚かぬものはなかった」は物語のモチーフそのものを始めに提示することで、後に続く物語全体の強靭な統一感を生んでいる。


 森鷗外はとかく書き出しが巧い。紀伝の如き説明的な文章がいかめしくて、とても読めまいという者であれ、あの出だしの洗練は一度味到みとうして然るべきものである。



2 カフカの不条理な書き出し


 カフカは始めから話の結論が出ている。『変身』では気がかりな夢から目覚めたらベッドの上でUngeheuren Ungeziefer(巨大な汚らわしい小動物)になったことに気づき、『審判』ではもう逮捕されている。『断食芸人』はもう人気がなくなり、『田舎医者』は重病患者のために外出しなければならない。


 前置きも何もない始まり方をし、謎は終いまで放擲ほうてきされたままである。殊に『変身』の書き出しは、少年ガルシア=マルケスをソファーから転げ落とし、文学の世界へ誘ったことで知られている。カフカの書き出しは不条理小説の出だしとしてなるべくしてなった自然体である。それから、読者を主人公の意識に感染させて、次第に非日常的な現実に引きずり込んでいく。この吸引力は他の作家にはないところである。



3 逆に参考にならない書き出し


 バルザックの『ゴリオ爺さん』は、出だしがパリの長々しい描写から始まる。彼が社会全体を描き出してやろうという壮大な考えを持っていたこともあるが、パリを知らない読者には少々こたえるところがある。尤も、バルザックは人物造形力では比肩する作家がいない。人物が飛び出してくる段になると、生き生きと物語が動き始める。


 ただ、それまでの辛抱が要るのである。これは、フローベールやドストエフスキーなど海外小説には大概言えることで、人物がそれらしく動き始めるまでは修行のように文章を読むことになる。彼らは概して中盤以降に面白みが出てくるので、出だしはあまり参考にならない。ドストエフスキーの『悪霊』は最後の面白い300ページのために、1000ページ堪える覚悟が要る。



4 ゴーゴリの書き出し


 ロシアリアリズムの祖として知られるニコライ・ゴーゴリは書き出しに抜群の面白さを持っている。彼は主に人物の微に入り細を穿つ描写と説明から始めていくが、人物の魅力の引き出しにかけては、どうも他のロシア人作家にはないところが見られる。全くとるに足らない一人物でも、ゴーゴリの手にかかれば、たちまち愛すべき主人公になる。筆者が好みなのは『鼻』の不条理すぎる出だしで、爆笑必至である。


 また、芥川が『芋粥』でゴーゴリの『外套』の書き出しを模倣していることからしても、ゴーゴリの出だしの優れていることは推して知るべしである。





5 後付け


 筆者は誰でも手ごろに真似ることができる点では、1を推している。書いているものは日本語なので、やはり日本語で書かれたものの方が参考になる。






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