第2話 自然主義では、ディズニーランドのミッ○ーマウスではなく、その中の人を書くんやで






 自然主義と言われたところで、ピンとこない人はいると思う。端的には、自然主義とは客観性を突き詰めたスタイルと考えて頂いて差し支えない。写実主義では「観察」が根幹となっていたけれども、自然主義では、単に現実に肉薄するだけでなく、理想や主観を排除する。ロマン主義における過度な美化を徹底的に批判し、実際的な真実を重んじる主義である。そのため、悲劇的な結末を迎えるとしても、そこに古典的な悲壮美などはなく、ただ、冷厳な結末のあり方が描かれる。フローベールの始めた現代写実主義「いわゆる、記者からカメラへ」を土台にしているのは、言うまでもないことである。


 漱石が忌み嫌ったモーパッサンや、暗すぎるゾラなどがその代表であるが、この両者は同じ自然主義に類されている中で、考えは少しく異なる。前者は「リアルよりリアルに」、後者は「科学的に生理学的に立脚して」と言ったところである。前者は優れた短編の名手として知られた作家であり、後者は遺伝という科学的概念を積極的に小説に取り入れた陰気な作家として有名である。ゾラは後々政治に積極的に関係する空想的社会主義的な作風に傾き、自然主義としてはぶっちゃけ破綻した内容になる。


 筆者が敬愛するのは、モーパッサンの方で、少年期に、彼の鋭敏すぎる人生観察と構成力にぶちのめされる洗礼を受けたことは今でも記憶している。煽りもなく、露骨な主義主張もなく、ただただ、日常のありそうな出来事によって追い詰められるペシミズムは、読者にとり、いやでも事実に直面させられるような気になるだろう。モーパッサンの場合はをもって読者に思考をもたらす点が特長である。かなり冷笑的な文章ではあるが、ドストエフスキーのようなむさくるしい思想主義の表明はなく、沁み入るようなワンシーンの描写で読者に面食らわせる強かさがある。この強かさは、恐らくモーパッサン特有のもので、他の作者では見たことがない。筆者がいつかは、パクり出したい部分である。


 しかしながら、自然主義にも欠点はある。自然主義における登場人物とは、社会環境に支配され、外因的に立ち振る舞う非力な存在である。これは殆ど定義と言ってもよい。然らずんば、自然主義は成り立たぬ部分がどうしても出るからである。

 現代の人間にしてみれば、間違いなく「つまらない」。異世界転生やヒーローものといった主人公が活躍する王道のファンタジーを好む読者層からすれば、「死ぬほどつまらない」に違いない。

 エルフちゃんもいなけりゃ、そこらでよく見かけそうな女が出る。ドラゴンじゃなくて、何の変哲もない犬が出る。戦争に負けて敵国に派手に蹂躙される街中ではなく、しんと静まり返った街中が出る。気前のいい商人ではなく、金があればあるほど吝い商人が出る。華やかそうな貴族ではなく、貧乏人を鼻で笑う性格悪いブルジョワ貴族が出る。礼儀正しい聖職者ではなく、教条的で融通の利かない俗物神父が出る。まるで日常生活を小説の中で送るようなバカバカしさを感じるだろう。


 ただ、自然主義では、ディズニーランドのミッ○ーマウスではなく、その中の人を書く。それも圧倒的な描写力と構成力を持って、ミッ○ーが逃げだすくらいの実際的なフィクションが作られる。ミッ○ーすら、ただの黒いネズミに還元されるのである。




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