物語に関するくだらない考察・批評

オロローン

第1話 作者(神)の一存で決まる物語はつまらない







 折々、テキトーに閲覧していると、よさげな文章を書ける人を見つける。宝物を掘り起こした人間の如く、胸をときめかせながら、次に、筋(ミュートス)と、人物(キャラクター)、舞台(ステージ)の3点をはっきりと意識しているか見る。これまた、しっかりしているとなると、いよいよこいつはただのアマチュアとは思われないな。ファンのひいきを避けて正当な評価を求めてやってきたどこかの覆面じゃないかと、考えたりする。筆者はそんな妄想を繰り広げるしがない読者の一人であるが、こういった腕のある実力者たちに共通して見えたことがある……


 筆者は、近頃の実力者ーープロも然りーーの書き物には、主人公以外のキャラクターがプロットに殺されているのを感じることがある。主人公の生い立ちだとか、考え、思想といった人物背景を叙述するのは、囲碁の布石、チェスのギャンビットといったようにお決まりとしてやる一方で、脇役はステレオタイプな人物であることがなぜか往々にしてある。これはあんまりよろしくない。脇役の人物背景、つまるところ脇役の人生といったものが、文章に全然出てこないのである。


 すると、たちまち中身のぺらい人物の振る舞いから、リアリティの欠陥という化け物がぬっと顔を表してくる。名札のついたコンビニの店員くらい、一瞬出るだけのたわいもない舞台装置みたいな人物ならワンタッチで書けばいいのだが、長く長ーく登場を続ける人物には、相応の人物背景が明らかにされなければならない。蟻の穴から堤も崩れるというように、中身空っぽの人物が穴になって、世界全体が紛い物に見えてしまうことが起こっては、読者(少なくとも筆者)は、間もなく夢から覚めてしまうのである。


 古い小説にはなるが、ニコライ・ゴーゴリの『外套』では、主人公のアカーキィの他に、仕立て屋ペトローヴィチの人物背景が細かに書かれている。それも叙述するに足らない人物と断って見せたうえで、仔細に仕立て屋の身上を描き出して見せるのである。これはさすがロシアリアリズムの祖と言われるだけあって、後のドストエフスキーら後続の作家たちにはよくよく踏襲されている手法と筆者は考えている。およそ、何がリアリティを生み出すのか、ゴーゴリのやり方にヒントがあったわけである。ドストエフスキーは特に主人公以外のキャラクターでも彼らに関する情報に言を惜しまなかった。ここには、バルザックの場面的な人物描写と、ゴーゴリの脇役に関する細部誇張の影響を見て取ることができる。(彼の場合は、なかんずく会話を通して人物背景を描き出すのに秀でていたが)


 では、人物背景ってなんぞやという考えが起こる。そんなん考えて意味あんの? 俺TUEEEEが書きたいだけなんだけど。仲間がいて、かわいいエルフちゃんといちゃいちゃするのが書きたいのであって、外套をあつらえたハゲの話なんか書くつもりないんだけど。

 尤も! しかし、それがなければ、かわいいエルフちゃんも、俺TUEEEEの主人公も、万年底辺の冴えない筆耕おじさん、あばた顔の仕立て屋おじさん以下の魅力である! かわいいエルフちゃんの過去、俺TUEEEEに至るまでの主人公の経緯を克明に描き出して生命を吹き込み、に基づいて物語が動き出すようになったとき、ようやく読者が食らいつき始めるのである……! 作者(神)の一存で決まる物語ではなく、登場人物たちの意思に基づく物語でなければならない。故に、主人公以外のキャラクターが死んでいてはならないわけである……。









……なんかテキトーなこと言ってしまったかな。

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