第3話
にくい。にくい。にくい。にくい。にくい。
なぜだ、なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。
いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。
かなしい。くるしい。にくい。なぜ。いやだ。かなしい。
爆発後封鎖された新聞社付近の路地裏で、人知れず蹲っていた黒い男は、ただただ自分の脳を呪っていた。なぜ。どうして。自分の脳は人とは違うのか。普通とは何か。感情の抑制とはどう行えばいいのか。
自分の通常は、常人の異常である。
如何に薬を飲んでも、如何に誰かに助けを求めても。全ては無駄である。
それを理解してしまう自分が、どうしようもなく厭らしい醜い獣であると、それすらも理解してしまう己の脳を、彼は憔悴した面持ちで呪っていた。
ずっと独りであった。両親や親族ですら彼の頭脳を恐れた。
「お前は、どこかおかしいのだ。その天才的な頭脳故に……人ではなくなった」
「恐ろしい子。あの子にすれば、自分以外はすべて虫に思っているのでしょう」
呪いの言葉は男の中で木霊する。苦しみと共に深い悲しみが襲ってくるのを、男はいつも否定していた。何故お前達が勝手に私のことを決めるのか。所詮違う個体ではないか。
「優性個体への否定で己の価値を留めているだけだろう」
「私の思考を勝手に想像し恐怖する貴様らこそが恐ろしい」
ふん、と口元を歪め平静を装うが、額に汗を感じ握りこんだ拳は震えていた。
黒い男の名は何というのだったか。生を受けてから現在に至るまで、名前を呼ばれた事など数える程しか無くそんなものは彼にとって唯の意味のない音だった。
「ジョン。聞こえているか」
ぼそりぼそりと男は何者かに話しかける。路地裏はひどく殺風景で、男の他には打ち捨てられた汚物と通りを照らす電灯や傷の目立つ壁の他には何も存在しない。
ぶぶぶ、と電灯が怪しげに光る。
「ああ、よくやった。……次の段階に移行するぞ」
電灯は数回点滅してから、その役目を終えた。周囲を闇が包んだのを確認してから男は立ち上がり表通りへと歩んでいく。その眼に先程男が引き起こした凄惨な現場を映し、口元を歪めながら消防士やマスコミが細々と現場に屯っているのをかき分け次の目的地へと向かった。
*****
部屋のドアが閉まる音を後ろに聞きながら、ゆっくりとホテルのロビーへと歩みを進める男は優雅な足取りに似合わず眉根を寄せていた。志麻を近隣のホテルへ連れてきたものの、錯乱状態なのである。
エイブは優秀な男である。
自分の所属する会社においてもそうだったが、こと女性への対応に関してはその容姿も手伝って彼と関わる女性は大抵、その心を彼へ預けてしまうのである。だというのに今回の被害者(志麻というのだったか)彼女は違った。
友人を目の前で失い狼狽していた彼女を初めて見たとき、あまりの悲愴な表情に同情を禁じ得なかった。故に彼女の帰国までの手続き諸々を買って出たのである。
「ハロー、ずいぶんご執心ね?ダーリン」
ふ、とエイブが顔を上げるとそこにはよく見知った女が立っていた。
「アビゲイル・アドラー。なぜここにいる」
一層眉間にしわを寄せ、エイブは不機嫌そうに鼻を鳴らした。目の前にいる美しい女は、今一番会いたくない人間であり、同僚であった。
「ああら。釣れないのね?私とあなたの仲じゃない」
ふふふ、と口の端を上に釣り上げて笑う彼女は、下卑た美しさで男を惑わす御伽噺の悪い魔女のような存在であった。
「……そうか。では言い直そう」
鬱陶しそうに一つ咳払いをしてから、大仰にエイブは頭を下げる。
「美しきレディー・アドラー、この私めに何の御用でしょうか」
彼女に見えない角度となったエイブの顔は苦々しく歪んでいた。
「まあ、ほほほ。面を上げてもよろしくてよ?エイブ」
ち、と舌打ちが僅かに響く音を彼女は嬉々として聞き流し、顔を上げたエイブに嘲笑しつつ続ける。
「あの子の護衛につくのね」
にっこりとほほ笑んだ彼女はしかしとても機嫌が悪そうである。エイブはこの女のこういうところが嫌いであった。
「お前には関係ないだろう」
「そうね」
あっけなく返ってきた返事にエイブは不審に思った。
「彼女がどういう人間なのか、貴方は”ご存知”なのかしら」
含みのある言い方に内心首を傾げる。どういう人間なのか、とはどういう意味だろうか。彼女とは事件の時遭遇しただけの赤の他人である。
「どういう意味だ」
忌々し気に尋ねるエイブを、アビゲイル・アドラーは愉快そうに口を歪めた。何を言い淀んでいるのだろうか。
「自分でお調べなさいな。私はその間、彼女とお近づきになっておくから」
ふふん、と勝者の微笑みを携えて彼女は優雅に志麻の居る部屋へと向かう。
「おい!どういうことだ」
待てとエイブが言うよりも早く彼女は志麻の居る部屋のドア付近まで歩みを進め振り返ると、先程とは類の違う声音で言う。
「彼女の護衛任務は、貴方だけでは足りないということよ」
ばたん、とドアが閉まる音を聞きながらエイブはただそこに立ち尽くした。
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